井筒  第九章


「じゃあ、向こうでね。ちゃんとロイも連れて応援に行くから」
「うん、それじゃ」
 玄関先で交わす会話を聞きながら、だがロイ自身は階下に下りていこうとはしない。「まったくもう」と顔を出さないロイに母親が何か言っているのが聞こえたが、構うものかと思っていたロイは耳に飛び込んできた声にどきりと心臓を跳ね上げた。
「ロイ!待ってるから!約束、忘れないでよ!」
 よく通るハボックの声はまるですぐそこで喋っているようだ。ハボックの視線すら感じられてロイがドキドキと跳ねる鼓動を何とか沈めようとしていると、扉が開いてハボックが出かけていく音がした。扉が閉まる音にロイはホッと息を吐く。結局のところ逃げも隠れも出来ないのだから結果としては何も変わるところはないとは言え、ほんの少しの間でもハボックの顔を見ずに自分の考えを纏められるのはありがたかった。
「ジャン……」
 ずっとずっと胸に抱えてきた想いだ。「どう思っているのだ?」と聞かれたら嘘をつくことなど出来ないだろう。考えを纏めるも何も答えは一つしかないのだ。
 ロイはドキドキと高鳴る胸の音を聞きながらそっと目を閉じた。

「よ、ロイ」
 ノックもせずに顔を出したヒューズをロイはジロリと睨みつける。その視線の険しさにヒューズは苦笑しながら言った。
「んな怖い顔しなさんな。美人が台無しだぜ、ロイ」
「よくもジャンにばらしやがって…ッ」
「最終的にばらしたのは自分だろ?」
 唸るように言うロイにヒューズは悪びれもせずに返す。そう言えば頬を染めてプイと顔を背けるロイをヒューズは優しく見つめた。
「お前の事が好きで好きで、あんなに頑張って、すげぇ健気じゃねぇか。これ以上自分の気持ちに嘘ついて拒む理由があるのか?」
 その言葉に弾かれたように振り向いてロイが言う。
「だって、私達は兄弟じゃないか…ッ。それなのに…ッッ」
「戸籍上、な。血は繋がってないだろ?いいんだよ、ロイ。両親が結婚しなかったらお前らは出会わなかった。神さまがあわせてくれたんだよ、そう考えればいい」
「ヒューズ……」
 頼りなげな表情を浮かべるロイにヒューズはニッと笑った。
「運命の神さまってのはいるんだぜ?俺はグレイシアと会えた。お前はワンコと会えたし俺みたいな頼りになる親友とも会った。な、ロイ?」
「自分で頼りになるなんていうか?普通…」
「でも頼りになったろ?」
 そう言ってクシャクシャと髪をかき混ぜられて、ロイは泣きそうになって目を閉じる。
「行くんだろう?」
 優しく尋ねてくる声に。
 ロイはちいさく、だがしっかりと頷いたのだった。

「早く!ロイ、こっちよ!」
 子供のように顔を輝かせて言う母親にロイは苦笑する。
「そんなに慌てなくても席はなくならないよ」
「何言ってるの、見るなら一番前で見なくっちゃ!」
 ロイの言葉に母親は唇を尖らせて観客席の通路をどんどん進んでいった。ゆっくりと後を追いながらロイは視線を上げて体育館の中を見回す。ハボック以外にも有望な選手を抱えたチームの高校最後の試合とあって、体育館の中はほぼ満員だった。
 ロイ自身学生時代は本を読んだり研究に没頭したりとスポーツとは無縁の生活を送ってきた。ハボックがバスケを始めてからは尚のことスポーツには係わらないようにしてきた為、試合前の一種独特の興奮した空気に包まれたこの空間はロイに取って酷く新鮮に思えた。
「ローイ!」
 ちゃっかりと前の席を確保して手を振る母親の傍へと行けばロイを見てニコニコと笑う。小首を傾げて自分とよく似た母親を見れば嬉しそうに言った。
「試合を見に来る度、観客席を見るジャンがね、酷く淋しそうな顔をするの。この3年、あの子、ずっと貴方に見て欲しかったのよ。それをやっと叶えてあげられて本当によかったわ」
 そう言われればずっと意地を張ってきた自分が酷く大人気なかったような気がしてくる。5つも年下の弟が必死に努力している間、自分は何をしてきたのだろう。ただ目を閉じ自分の気持ちに背を向けて小さく縮こまっていただけだった自分が情けなくて、ロイはそっと目を伏せた。
「出てきたぞッ!」
 ワァッと観客席から歓声が上がって、ロイ達はフロアを見下ろす。奥の控え室へと続く廊下から選手達が現れて、体育館を包む空気は一層熱を帯びた。
「ハボックッ!!」
「ハボックーッ!!」
 観客席からかかる声に一際背の高い選手が手を振って答え、ロイは引き付けられる様にその金髪に包まれた顔を見た。
「ロイ、ジャンよ!ジャーン!!」
 母親がロイの肩を叩くとハボックに向けて大きく手を振る。それに気付いたハボックがロイに視線を向け、その空色の瞳が僅かに見開いたと思うと嬉しそうに笑った。
「気付いたわ、ジャンーーッ!!」
 ハボックが自分達の方へ視線を向けた事に気付いて、母親はさらに大きく手を振る。それに手を振って答えるとハボックは自分たちのチームのベンチへと歩いていった。コーチが選手達を前に何か言っているのに頷くと仲間達と共にコートへと入ってくる。観客席からの歓声が一層大きくなり、体育館が揺れているように感じられた。
 センターサークルで向かい合って立った選手の頭上高くボールがトスされる。タップしたボールを一方のチームの選手が取ってドリブルで走り出すと歓声の上に選手達のシューズがコートを蹴る音が重なり、響き渡る音の渦にロイは目を丸くした。
「凄いな」
「シュートが決まったらもっと凄いわよ」
 ロイの言葉を聞きとめて母親が言う。コートの中を走り回る選手達を目で追いながらロイが聞いた。
「ジャンは?どこのポジション?」
「センターよ」
「ふぅん……」
 気のない返事に母親はジロリとロイを見る。
「アンタ、全然判らないで返事してるでしょう」
「……バスケなんて中学校の授業でやったきりだよ」
 ロイが困ったような顔でそう言ったとき、ワアッと歓声が上がりボールを受け取ったハボックがコートを走り抜ける。流れるような動きでバスケットに向かって走りこみ、手にしたボールをまるでリングの上に置いてくるかのように楽々とシュートを決めた。得点を告げるホイッスルが鳴って、すぐさま次のプレイが始まる。ボールを取り一斉に攻め上がり、パスを送りカットしと、めまぐるしく攻守が入れ替わった。ファウルギリギリの接触をかわしながらボールを取ると、ハボックが再びバスケットへと走った。ガードを振り切ったはいいが、そのままではバスケットは体の後ろなのに、とロイが思ったのも束の間、まるで後ろに目があるようにシュートを決めるハボックにロイは目を丸くする。
「すごい……」
 汗が飛び散りキュッキュッとコートを走る選手達のシューズが鳴る。まるで金色の光のようにコートを走り回るハボックの姿からロイは目を離すことが出来なかった。
 長いホイッスルが鳴り、ロイはハッとして母親を見る。
「えっ、もう終わり?」
「まだ第一クオーターが終わったところ。すぐ次が始まるわよ」
 その言葉にベンチを見ればハボックがタオルで汗を拭いながら水を飲んでいるのが目に入った。母親の言ったとおり殆んど間を置かずに次のクオーターが始まる。前のクオーターよりもさらに厳しくなったマークをものともせず、ハボックは相手チームの選手の間から体を抜き出すとシュッと味方にボールをパスする。次の瞬間にはマークを振り切り味方から帰ってきたボールを受け取るとあっという間にシュートを決めた。めまぐるしく動くボールと素早い選手達の動きと。その中でも一際目立つハボックにロイは目を奪われる。気がつけば両手を胸の前で握り締め身を乗り出すようにしてハボックの動きだけを追っていた。
「……ジャン…ッ」
 この3年間、ハボックはどれ程努力してきたのだろう。果たして自分は彼に相応しいと言えるだけのことをしてきたのだろうか。ふと、そんな不安に駆られながらも一方ではドキドキと胸が高鳴るのを押さえられない。今、コートで誰よりも早く走り、見事なシュートを決めているのが自分が好きな相手なのだと思うと、酷く誇らしい気持ちになった。
(ジャン……ジャン…ッ)
 好きで好きで好きで。
 ロイはただ息を詰めるようにしながらハボックだけを見つめ続けた。


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