井筒  第七章


 それから高校を卒業するまでの数年間、ハボックは一度も家に戻ってこなかった。夏休みの間も合宿だなんだと理由をつけて戻ってこようとしないハボックにロイはもうハボックが自分の事など忘れてしまったのだと思っていた。たとえ自分がハボックを忘れられず想い続けていたとしても。
(いいんだ、いっそこのまま一生帰ってこなければいい)
 ロイは挟んだ栞を見つめながらそう思う。顔を合わせれば今度こそ縋りついてしまいそうで、ロイは一緒にセントラルに行こうという母親の言葉にも耳を貸さなかった。
「ジャン…」
 ロイは切なげにハボックの名を呼ぶと栞にそっと口付けた。

「知ってるか?ほら、高校バスケで今までで最高のプレイヤーだって言われてたハボック!今度プロに入るらしいぜ!」
「へぇ、ホントか?俺、アイツのプレイ、好きなんだよな。迫力あってさ」
 食堂でランチを食べていたロイの耳にそんな言葉が飛び込んでくる。ハッとして顔を上げるロイに向かいの席で同じようにランチの皿に手をつけていたヒューズがロイを見た。
「気になるか?ロイ」
 そう聞かれてロイは慌ててヒューズを睨む。ランチの更に目を戻すと乱暴な仕草でパスタをフォークに巻きつけた。
「気になんてなるわけないだろうッ」
 怒ったような口調で言うロイにヒューズは眉を跳ね上げる。
「俺は気になるぜ。あのワンコがどうなったのかってな。お前も全然会ってないんだろう?」
「……私が会わなくても別にアイツには関係のないことだろう。母さん達は会いに行ってるし、それで十分だ」
 そういい放つとロイはフォークを皿に戻し立ち上がる。
「先に戻ってる」
 ヒューズの顔を見ずにそう言うと食堂を後にした。

 大学を卒業した後もロイは大学に残り研究を続ける毎日を送っていた。学生結婚をしたヒューズと共に研究に明け暮れる日々を送っていたロイは、ハボックの試合を見に行っていた両親とは行動を別にしていたし、バスケで優秀な成績を収めるハボックに喜んで母が買っていた雑誌にも目を通さなかったから、ロイはハボックのことは別れて以来何一つ知らなかった。
「プロになるのか……」
 そんな大切な話、両親が言っていたかどうか、ロイは考えてみたが思い出せなかった。
 ロイはひとつため息をついて広げていた書類を片付けると、久しぶりに家への道を辿っていった。

「ただいま」
「あら、ロイ!珍しい事!」
 ちっとも家に寄り付かない息子に母がそんな事を言う。それに苦笑で答えると、ロイは聞きにくそうに尋ねた。
「母さん、……その、ジャンのことなんだけど……プロになるんだって?」
「あらまぁ、もっと珍しいわね、貴方がジャンのことを口にするなんて」
 ほんのちょっとの嫌味も込めて母が言う。ジャンのところへ遊びに行こう、試合を見に行こうといくら誘っても首を縦に振らない息子を母は見つめて言った。
「高校でたら契約を結ぶそうよ。なんだか夢みたいね、いつも貴方の後ばかり追っかけてたあの子が」
 母はしみじみと言うと改めてロイを見る。自分と同じ黒い瞳を見つめて言った。
「今度こそ本当にジャンの試合を見に行かない?ロイ。あの子、本当に頑張ってる。とってもカッコいいわよ」
 そう言って笑う母に、ロイは答える言葉を見つけることが出来なかった。

「ロイ」
 研究室の扉をあけてヒューズが入ってくる。懐から写真の束を取り出すとニッと笑った。
「我が家の天使、エリシアちゃんの新作写真見ないかっ?」
「……見ないか?じゃないだろう。見ろ、じゃないか、お前の場合。言葉は正しく使え」
 呆れたように言ってロイは眼鏡を外す。相変わらずの伊達眼鏡に手を伸ばすとヒューズはそれを自分の胸ポケットに入れた。
「おい」
「度の入ってない眼鏡なんてしてても邪魔なだけだろう?それより見ろよ、エリシアちゃん」
 ヒューズはそう言って机の上に写真を広げる。ため息をついて、だがそれでも広げられた写真を手に取ると目を通し始めた。まだ2つになったばかりの少女はころころとよく変わる表情を印画紙に焼き付けている。そういえばジャンもこんな風に表情のよく変わる子供だった。別れたころはもう随分と大きくなって、大人の男の片鱗を見せるようになってはいたが、それでもロイに取ってのハボックのイメージは表情の豊な明るい子供だった。
 ヒューズの説明を聞きながらロイは写真に目を通していく。そんなロイの前にヒューズは一枚の写真を置いた。
「これは最新の写真だぜ」
 そう言って差し出された写真をロイは何の気なしに受け取ってギクリとする。そこにはシュートを決める瞬間のハボックの姿が映し出されていた。
「でっかくなったろう?」
「…ヒューズッ」
 ロイは声を荒げてヒューズを睨む。ヒューズは悪びれた様子もなくロイを見返すと言った。
「でかくなったろう?俺も直接会ったわけじゃないからなんとも言えないが、だがもうただの子供じゃないぜ。立派な男だ」
 そう言うヒューズの言葉にロイの体が揺れる。ロイはギュッと唇を噛み締めると写真をつき返した。
「お前が持っていろ、ロイ」
「そんな必要ない」
 頑なに言って写真を押し返そうとするロイを無視してヒューズは愛娘の写真をかき集める。ロイが手にした写真を除いて纏めてポケットにしまうとヒューズは言った。
「持ってろ。それが一番だ」
 ヒューズはそう言うと研究室から出て行った。

 ここのところ続けて家に戻っていたロイは自室に上がるとそっと扉を閉める。手に持っていた本を放り投げればページの間からヒューズに渡された写真が覗いた。そこに移った姿にロイはビクリと震える。散々に迷った末、机に近づくとその写真を取り上げた。
 マークしてくる数人の更に上に伸び上がった体が手にしたボールを押し上げている。きっとこのすぐ後には見事にシュートを決めたのであろう姿にロイは眉を寄せた。
「ジャン……」
 ロイはそう呟くとポスンとベッドに腰を下ろす。そのまま仰向けに倒れ込むと手にした写真を胸元に握り締めた。

 大学と駅を結ぶバスから長身の男が降りてくる。短く刈り込んだ金髪と瞳を隠すサングラスとで、あまりガラのよい男には見えなかった。男はポケットに両手を突っ込んで門をくぐると大学の敷地内に入っていく。何年か前にはよく紛れ込んだそこを男は懐かしそうに見渡すと研究棟の並ぶ方へと足を向けた。
 殆んど行き交う人のない廊下を歩きながらここを涙を零しながら走ったことを思い出して男は苦笑する。そうこうする間にも男の長い脚は駆けるように廊下をぬけて目的の部屋の前に辿り着いた。
 男は研究室の名前をじっと見上げる。会いたい人がそこに入る事を疑わず、男は手を伸ばすとノブを握った。ノックもせずにノブを回すと扉を押し開ける。果たしてそこにはこの数年、会いたいと思いながら会えずにいた大切な相手が机に向かって書き物をしていた。

 ノックもなしに突然開いた扉にロイはため息をつく。また例によってヒューズがやってきたのだろうとペンを置くと顔を上げた。
「ヒューズ、ノックくらいちゃんとしろといつも言って――」
 そこまで言って扉のところに立つのがヒューズで無い事に気がつく。目を丸くして見つめてくるロイに男は微かに笑うと、数歩でロイの隣に立った。
「ロイ」
 低音で呼ぶ声にロイはゾクリと背筋を震わせる。初めて聞いたその声はだが、ロイがよく知っているものだった。
「な、んで…?」
 ここにいるんだと問いかけるはずだった唇は気がついたときには塞がれていた。目を見開いたロイが男を押し返し、その腕から逃れようと身を捩る。だが、その逞しい腕はそれを赦さず、ロイを腕の中に閉じ込めた。
「離せッ!なんでお前がここにいるんだッ………ジャンッ!」
 名前で呼ばれて男は嬉しそうに唇を綻ばせる。ロイを腕の中に閉じ込めたままかけていたサングラスを外すとロイを見つめた。
「ロイ」
 ハボックは嬉しそうにもう一度その名を呼ぶとロイの体を抱き締める。記憶よりも逞しく、写真で見るより力強いその腕にロイは目眩がした。
「帰ってきたよ、オレ。アンタにもう一回オレの気持ち言う為に」
 そう告げる空色の瞳を、ロイはただ目を見開いて見つめるしかなかった。


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