井筒  第五章


 朝起きればロイはもう大学に戻っていていなかった。ハボックは落胆のため息をつくと顔を洗いダイニングへと入っていく。母が丁度焼きあがったパンを手にキッチンから出てきた。
「おはよう、ジャン」
「おはよう、母さん」
 ハボックはそう答えて椅子に座ると目の前のサラダのボウルに手を伸ばす。取り分けて母が座るのを待たずに食べ始めるハボックを見つめて、持っていたパンの器をテーブルに置くと母は椅子に座り口を開いた。
「ねぇ、ジャン。夕べの事だけど」
「夕べ?」
「ロイとのこと」
 そう言われてハボックは手にしていたフォークを置き母の顔を見る。母はハボックを見つめて言った。
「ロイが言ってることも一理あると思うのよ。ジャンはジャンの好きな道を選んだらいいんだから」
 そう言う母をハボックはじっと睨むように見る。母はロイと同じ白い顔に困ったような笑みを浮かべて言った。
「ジャンはロイの事ばかり気にしすぎだわ。クラブにも入らないでまっすぐ家に飛んで帰ってくるのもロイの為でしょう?二人が仲良くしてくれるのは嬉しいけど、ジャンはもっと自分の好きなことをしていいのよ?」
「オレはちゃんと自分の好きなこと、してるよ」
 ハボックはそう言うと席を立つ。自分を呼ぶ母の声を無視して、ハボックはカバンを引っ掴んで家を飛び出していった。

 昼休み、何も食べる気にならなくてハボックはひとり中庭に出ると木の根元に座り込む。抱えた膝の上に頭を丸めて小さくなるとギュッと目を閉じた。
 気付いてしまえばロイへの気持ちは止めどなく溢れて苦しくて仕方ない。それだけに自分を「弟だ」と言って一線を引こうとするロイの態度が堪らなく辛かった。
「父さん達が結婚なんてしなければよかったんだ」
 そうすればロイは自分の兄などになりはしなかった。もっとも両親が結婚しなければ年の離れたロイと出会うことが出来ていたのかとも言えるのだが、目の前の難事にしか目が向かないハボックにはそんな事は思いつきもしなかった。
「ロイ……」
 そう名前を呼べば目の前に綺麗な白い顔が浮かぶ。それと同時に湧き起こる愛しさに切ない気持ちを抱きしめた時、自分の上に差した影にハボックは顔を上げた。
「よお」
 そう言って見下ろしてくる常磐色の瞳をハボックは睨みあげる。年上の学生に声をかけられても物怖じせずにまっすぐ見つめてくる空色の瞳にヒューズは苦笑すると言った。
「話があるんだけど、いいか?」
 言って身振りで示す相手にハボックは答える。
「話?ここじゃ拙いんスか?」
 立ち上がりもせずに膝を抱えたまま言う少年にヒューズは言った。
「俺は別に構わねぇけど、お前の兄貴は構うかもな」
 そんな風に言ってさっさと歩き出すヒューズにハボックはムッとして顔を歪める。だが立ち上がると長い脚でヒューズを追いかけた。すぐに追いついて何も言わずにならんで歩く横顔をヒューズは面白そうに見たが、こちらも何も言わずに校舎の影に入っていくと一際奥の壁のところまで行き、足を止めた。
「話ってなんスか?」
 あたりに目をやって誰もいないことを確かめるとハボックはヒューズに聞く。ヒューズは懐から煙草を取り出すと火をつけ、校舎の壁に寄りかかった。
「まあ、そんなに慌てんなよ」
 ヒューズはそう言うとプカリと煙を吐き出す。ハボックはのんびりと構えたヒューズに苛々としながら言った。
「アンタ、ロイの研究室にいた人っスよね?」
 以前、中々家に帰ってこないロイに会いたくて大学まで押しかけた時、ロイの研究室にいたヒューズの事を思い出してハボックは言う。ヒューズはニヤリと笑うと答えた。
「そう。なんだ、ロイ以外のヤツも目に入ってたのか」
「なんスか、それ」
「いや、あんまりロイのことばっかりまっすぐ見てるからさ、誰が部屋にいたかなんて覚えてないと思ったんだけど」
 意外と見てたんだなぁ、などとのんびりと言うヒューズにハボックは苛立ちを募らせる。空色の瞳でヒューズを睨みつけて言った。
「で?話ってなんスか?ロイが構うって、どういうことっスか?」
 一際背の高い少年に挑むように言われてヒューズは苦笑する。事と次第によってはただではおかないと言うように睨み付けてくるハボックを見てヒューズは口を開いた。
「お前さ、ロイの事、どう思ってるわけ?」
「は?」
「ロイの事よ。……ロイはお前の兄貴だろ?」
 そう言われてハボックは探るようにヒューズを見る。
「何が言いたいんスか?オレがロイの事、どう思っていようとアンタにゃ関係ないっしょ?」
「それが大ありなんだよねぇ」
 ハボックの言葉にヒューズは壁に頭をコツンとつけてハボックを見る。薄い笑みを唇に浮かべると言った。
「俺とロイ、つき合ってるからさ」
「………え?」
 大きく見開かれる空色の瞳をじっと見つめてヒューズは繰り返す。
「俺とロイ、付き合ってんだよ。俺の言ってること、判る?」
 そう言うヒューズの口元をハボックは呆然と見つめた。ヒューズは凍りついたように動かないハボックの瞳を見かえして続ける。
「付き合ってんだ、俺達。付き合うって意味、判るだろ?抱きしめて、キスして……。俺、ロイを抱いたぜ?」
「うそ……」
「嘘なんもんか。ロイが中々家に帰らない理由、それは俺と一緒にいたいからだよ」
「嘘だっ、だって、ロイは実験や研究が忙しいからって…ッ」
 声を荒げるハボックにヒューズは首を竦めた。
「そんなの言い訳に決まってんだろ。まさか親に男の恋人と一緒にいたいから家に帰りませんなんて言える訳ないんだからよ」
「…嘘ッ」
 あくまで嘘だと言い張るハボックを冷たく見つめてヒューズが言う。
「迷惑してんだよ、アイツ。お前にちょろちょろ付きまとわれて。もともとお前みたいなヤツ苦手なのに、親同士が結婚して兄弟になっちまったから仕方なしにつき合ってやってるだけだってのに、妙に懐いてロイとおんなじ学校の付属校に入って、挙句の果てには大学まで押しかけてきやがって。アイツは優しいからお前には言わねぇんだろうけど、この間だってベッドの中で、お前にゃホトホト困ってるって――」
「嘘だっ!ロイがそんな事言うわけないッ!!」
 拳を握り締めて怒鳴るハボックにヒューズは一瞬押し黙ったが、口を開くと言った。
「迷惑なんだよ。5歳も年下で何にも出来ねぇガキがロイに纏わりついてんじゃねぇ。お前にゃ盛りがついて男どもを追いかけてるバカな女子高生がお似合いだ。これ以上ロイに構うんじゃねぇよ。ロイは俺に惚れてるんだ。何の取り得もねぇガキは引っ込んでろ」
 ヒューズは低い声でそう言うと投げ捨てた煙草を踏みつけ、ハボックを残して行ってしまう。一人取り残されたハボックは地面の上で細い煙を上げる煙草を見つめて立ち尽くしていた。そうすれば頭の中にたった今ヒューズの言った言葉が次々と蘇えってくる。
『俺とロイ、付き合ってんだよ』
『抱きしめて、キスして……。俺、ロイを抱いたぜ?』
『ロイが中々家に帰らない理由、それは俺と一緒にいたいからだよ』
『この間だってベッドの中で、お前にゃホトホト困るって』
「嘘だッ、そんなの、全部嘘に決まって……ッッ」
 ハボックはヒューズの声を打ち消すように激しく首を振った。だが消し去ろうとすればする程その声は鮮明になってハボックの頭の中で響き渡る。
『ロイは俺に惚れてるんだ。何の取り得もねぇガキは引っ込んでろ』
 ヒューズの言葉に胸を深く抉られて、ハボックはボロボロと涙を零して蹲ったのだった。

「ロイ」
 開いた扉をコンコンと叩いてヒューズが声をかける。ぼんやりと窓辺に寄りかかっていたロイはその音に顔を上げるとヒューズを見た。
「開けてからノックしても意味がないだろう、ヒューズ」
 僅かに眉を寄せて言うロイにヒューズが苦笑する。
「開ける前に叩いたぜ。でも返事がないから」
 ヒューズはそう言いながら部屋に入ると扉を閉めた。それには答えず窓の外へと目をやるロイの近くに歩み寄ると言った。
「話しといたぜ、ワンコに」
 そう言えばビクリと震えて、それから殊更なんでもないようにロイはヒューズを見る。
「そうか、ありがとう」
「お前は俺と付き合ってるから手ぇ出すなって言っておいた。纏わりつかれて迷惑だってな」
「なっ…?!」
 ヒューズの言葉にロイはギョッとして目を瞠った。ヒューズはくすりと笑うと言う。
「この方が効果的だろ?ただ彼女がいるっていうより」
「だからって言うに事かいて私とお前が付き合ってるだなんてッ」
「言い方は俺に任せるって言ったじゃねぇか」
「言ったけど……でもお前はグレイシアと付き合ってるだろうッ?」
「そんなことワンコは知らねぇから大丈夫だよ」
 ヒューズはそう言うとロイのことをまっすぐに見つめた。
「アイツを受け入れる気、ないんだろ?ロイ。だったら中途半端にすんじゃねぇよ」
 それだけ言うとヒューズは部屋を出て行く。残されたロイは何も言う事も出来ずに、ただ立ち竦んでいた。


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