井筒  第二章


「ロイ」
 学校の図書室で本を読んでいると自分を呼ぶ声が聞こえてロイは顔を上げる。最近随分と背が伸びてきたハボックが教科書を手に立っていた。
「ハボック」
 ロイは本を閉じると「何?」と視線で問う。ハボックはちょっと不満そうに眉を寄せるとロイの隣に腰掛けた。
「二人なんだからジャンって呼んでよ」
「学校だろ、二人きりじゃない。で、何?ハボック」
 ロイの言葉にハボックはムゥと頬を膨らませたが、どうせ何を言ってもロイがそう呼んでくれないことは判っていたのでそれ以上は言わなかった。
 ロイとハボックの両親が結婚して二人は兄弟となった。養子縁組も済ませたから戸籍上、ロイの名はロイ・ハボックだ。だが、ロイは語呂が悪いと言う理由といちいち回りに説明するのが面倒でずっと母の旧姓であるマスタングを名乗っていた。ハボックが学校に上がった頃はロイはハボックを「ジャン」と呼んでいたが、あまり人を寄せ付けないロイが学年の離れたハボックをファーストネームで呼ぶことを妙に勘ぐる輩がいた事もあって、いつからかロイはハボックを二人きりの時以外ファーストネームで呼ぶことをやめてしまったのだった。勿論その事にハボックが反対しなかったわけではないが、その見た目からは考えられないほど頑固なところのあるロイは一度そうと決めてしまうと決してそれを変えようとはしなかった。
「別に誰がなんて言ったっていいじゃん」
「何?はっきり言わないと聞こえないだろう、ハボック」
 ボソリと呟いた言葉にそう返されてハボックは首を振る。教科書を広げると言った。
「ここ、判んないから教えて欲しいんスけど」
 ハボックは算数の教科書を指差す。ロイが人前では先輩に対する口の聞き方をしろと煩いのでハボックはこういった口の聞き方をするようになっていたが、それもまたハボックにとっては面白くないことのひとつでもあった。
「ここ?これならこの間教えたのを使えばいいだけだよ。覚えてるだろう?」
「う、ん…まぁ」
「だったらそれでいいね。悪いけど私はこの本を読んでしまいたいから後は自分で考えて」
 ロイはそう言うとさっさと手元の本に意識を向けてしまう。ハボックはそんなロイの横顔をじっと見つめていたが、やがてのろのろと席を立った。
 図書室から出ようとすると大柄な生徒にドンッと当たられる。思わずムッとして相手を見上げればその生徒は謝りもせずに言った。
「ガキが高等部の図書館まで来てんじゃねぇよ」
 吐き捨てるように言うとその男子学生はロイが座っているところへと行き、その隣の椅子に腰掛ける。何やかやと話しかける相手をロイは迷惑そうに見てよく通る声で言った。
「ここは図書館だからおしゃべりがしたいなら他所へ行ってくれ」
 それだけ言うと再び本を読み始めるロイに学生は顔を紅くする。ガタンと乱暴な仕草で立ち上がると入口で二人のやり取りを見ていたハボックを突き飛ばすようにして出て行った。ハボックはロイが再び一人になった事にホッと息をつくと図書室を出る。だがそのまま初等科の建物に戻る気にもなれず、明るい陽射しの降り注ぐ中庭へと出た。
 昼休みのこの時間、中庭では昼食を食べたり友達同士談笑する生徒達の姿があちこちに見受けられた。ハボックは誰も近くにいない木の根元に腰を下ろすと幹に頭を預ける。緑の葉の隙間から降り注ぐ光を見上げてため息をついた。
「ロイ、オレのこと嫌いになっちゃったのかなぁ……」
 一緒に住み始めたばかりの頃はよく一緒に遊んでくれた。5つ年上の兄がハボックは大好きで昼も夜も出来る限り一緒にいたいと思った。夜は枕を抱えてよくロイのベッドに潜り込みに行ったものだ。ロイは困ったように笑いながらもハボックを自分の隣に入れてくれて、昔から伝わる面白い話や鳥や動物の話をハボックが眠るまでの間してくれたのだ。だが、中等科、高等科と学年を重ねるにつれロイはハボックと距離を置くようになっていった。最初はただ単に忙しいだけなのだろうと思っていたハボックも、ファーストネームで呼んでくれないようになる頃にははっきりと距離を置かれているのだと判るようになっていた。
「………はぁ」
 ハボックはさっきの光景を思い出してため息をつく。初めて会ったときからロイは少年にしてはきれいな顔立ちをしていたが、大きくなるにつれその凛とした美しさは益々際立つようになっていた。ロイの回りには彼が望まなくても取り巻きのような連中が始終群がっていたし、実際男女に係わらず随分とラブレターの類も貰っているようで、年の離れたハボックにとってはそれもまた不快の種であった。自分の知らないところでロイが誰かに言い寄られたりしているのかと思うと、何やら判らない感情が湧き上がってハボックを苛立たせるのだ。
 ハボックは膝を抱えるとコツンと額を当てる。目を閉じれば瞼の裏に浮かぶのはロイの白い顔だった。
「ロイ……どこにも行かないで…オレの傍にいて」
 ロイの存在が遠くなってしまったように感じられて、ハボックはギュッと膝を抱えるとそう呟いた。

 机の上に広げた本を目で追いながら、実際のところロイの頭の中にはその内容はちっとも入ってきていなかった。さっきの男子学生に対する苛立ちでロイは眉を顰めて髪をかき上げる。最近、頓にああいった輩が増えた所為でロイは苛々する事が多くなった。
(いや、違うな。苛々するのはああいうヤツの所為だけじゃない)
 視線を本に落としたままロイは考える。ページの上に浮かぶのは文字ではなく、さっき別れたばかりの5歳年下の弟の顔だった。
 最近ハボックは急激に大人へと変わりつつあった。まだほっそりとしてはいたが手も足もロイのそれより大きくなり、さほど時を置かずに大きく成長する事を匂わせていた。骨格もガッシリとしてきて子供の頃の柔らかい印象が薄れ、その代わりと言うように男としてのハボックが見え隠れするようになっていた。少年特有の高い声も気がつけば掠れたそれになって、最近ハボックは話しにくそうに何度も咳払いをしていた。
 そんなハボックの姿を思い浮かべてロイは緩く頭を振る。ずっと一人っ子で最初は突然出来た弟の存在に戸惑った。それでもいつしかその人懐こい笑顔に可愛くて仕方なくなり一時期は随分べったりとして過ごしたものだ。元来人付き合いの苦手な自分が信じられないほど近くにハボックを置いていた。極自然に、極当然に。だが、ふと思ってしまったのだ。このままこうして過ごしていたら将来どうなってしまうのだろうと。
 そう思ったら酷く不安になって、中等科、高等科と進んだのをよい機会とハボックと距離をおいた。それが自分にとってもハボックにとっても一番いいと思ったのだ。
(これでいいんだ。必要以上に傍にいない方がいい)
 ロイはそう考えるとそっと目を閉じた。

「ロイ!待ってよ、ロイってば!」
 夕食が済んだ途端自室に向かおうとするロイをハボックは慌てて引き止める。階段の途中でシャツの裾を掴まれて、ロイは苛々とハボックを見た。
「なんだ?用事か?ハボック」
「何で家でまでハボックなんだよッ!」
 ロイの言葉にハボックが噛みつくように怒鳴る。目を見開いて見つめてくる黒い瞳を見つめるうち、ハボックの瞳から涙が零れた。
「ロイ、オレのこと、嫌い?嫌いになった?」
「……そんな事言ってないだろうっ」
「だって最近、家でもちっとも話してくんないし…ッ」
「それは……勉強が忙しいから」
「だったら、一緒に寝てもいい?いいでしょ、ロイ?」
 涙に濡れた瞳で縋りつかれて、ロイは結局拒みきれずに頷いてしまう。それでも嬉しそうに笑う顔を見ればツキンと胸が痛んだ。
 一つの布団に潜り込んで、寄り添ってくる体温にロイは酷く動揺してしまう。昔は小さくて柔らかかった体も12になった今ではロイに一回り小さいくらいになっていた。
「ロイと一緒に寝るの、久しぶりだね」
 そう言って無邪気に笑うハボックがロイには恨めしい。ポツポツと会話を交わすうち、ハボックはいつしかスウスウと穏やかな寝息を立て始めた。薄く開いた唇から零れる吐息になぜかドキドキとしてしまう自分にロイはきつく唇を噛み締める。
(ジャンは弟じゃないか。しかもまだ12なのに)
 太陽のように輝く金色の髪も空を切り取ったような瞳も、ロイを引き寄せてやまない。近い将来、自分が抱いてしまうかもしれない感情を予感してロイはそれを拒むようにギュッと瞳を閉じた。


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