井筒  第一章


「ほら、ジャン。恥ずかしがってないでちゃんと挨拶なさい」
 父の大きな手がハボックの背中を押す。父の脚にしがみ付いていたハボックはこれから新しい家族となる二人の前に押し出されてカァッと顔を紅くした。
「これからどうぞよろしくね、ジャン」
 黒髪に黒い瞳の綺麗な女性がハボックの前に跪くと手を取って言う。優しく微笑むその顔にハボックが小さく頷くと女性は益々嬉しそうに微笑んでハボックを抱き締めた。それから背後に立つ彼女によく似た子供を手招く。
「ジャン、ロイよ。仲良くしてやってね」
 女性がそう言えばロイと呼ばれた子供が手を差し出した。
「よろしく、ジャン」
 そう言ってにっこりと微笑む顔をハボックはポカンとして見つめる。それから父を見上げると不思議そうに言った。
「ねぇ、父さん、新しいお母さんとお兄さんが出来るんだよって言ってたよね。お兄さんじゃなくてお姉さんじゃん」
 その言葉に3人はポカンとしたが、次の瞬間、父と新しく母となる女性はプッと吹き出し、お姉さんと呼ばれた子供は真っ赤な顔で怒鳴った。
「私のどこが女だと言うんだッ!」
「えっ?!」
 その恐ろしいまでの剣幕にハボックは目を丸くして父にしがみ付く。子供は綺麗な黒い目を吊り上げてハボックを睨みつけた。
「私は男だッ!!」
 そう怒鳴った少年をハボックはマジマジと見つめる。だがその滑らかな白い肌も綺麗な黒い瞳もハボックが知っている男の子とはかけ離れていて俄かには信じられなかった。それでも今ここで「女にしか見えない」などと言えば火に油を注ぐようなものだということは幼いハボックにも察せられて、ハボックはぱちぱちと瞬くと言った。
「ごめんなさい、変なこと言って。ジャンです、よろしくお願いします」
 そう言って笑うとおずおずと差し出される手に、流石にロイもそれ以上怒ることも出来ない。ロイは不服そうに眉を顰めたがそれでも手を差し出すとハボックのそれを握り締めた。
「……よろしく」
 ムスッとしたロイにそれでも握手をして貰えて、ハボックは嬉しそうににっこりと笑ったのだった。

「ローイー!ロイ!」
 バタバタという足音と共に呼ぶ声が聞こえてロイは読んでいた本から顔を上げる。ギシギシと屋根裏に続く狭い階段を上がる音がしたと思うと、四角くあいた床の穴からハボックが顔を出した。
「やっぱりここにいた!」
 ハボックはそう言うとガラクタの詰め込まれた屋根裏の明り取りの窓の傍に座り込んで本を広げているロイの傍に歩み寄る。大人なら頭がつかえてしまいそうなそこも、まだ子供でしかないハボックには十分広かった。
「ロイ、ここ好きだね」
 お互いの父と母の結婚により兄となったロイの隣に座り込むとハボックはロイの手元を覗き込む。5つ年上のロイが読む本はハボックには難しすぎて、眉を顰めると言った。
「ねぇ、こんなの読んで面白い?」
 新しく家族となって一緒に住むようになったロイだったが、引越し早々屋根裏に詰め込まれた本の山を見つけると、何時間でも屋根裏に篭るようになってしまった。ずっと一人っ子だったハボックとしては兄が出来たら一緒に遊ぼうと手ぐすね引いて待っていたのでつまらない事この上ない。グイグイと邪魔をするように本の上に頭を出すハボックをロイは煩そうに手でよけると言った。
「面白いよ。この本、絶版になってるヤツでずっと読んでみたいと思ってたんだよ。まさかこんなところでお目にかかれるなんて思ってもみなかった」
 ロイはそう言うと再び本に目を落として読み始める。ハボックは自分がいるのに本に意識を奪われてしまったロイを不満そうに見上げると言った。
「ねぇ、外に行こうよ、ロイ。凄くいいお天気だよ。本なんて読んでるの、勿体無いよ。川の近く、薄が真っ白で凄いんだって。一緒に行こう」
「悪いけど、今日中にこれ、読んでしまいたいんだ。行きたいなら友達誘って行っておいで」
 本から顔も上げずにそう言うロイにハボックはムゥと頬を膨らませる。ロイが膝の上に広げている本をいきなり掴むと放り投げた。
「ジャンッ?!」
 積み上げられた箱にぶつかってバサリと落ちる本をロイは飛び上がるようにして立ち上がると慌てて拾い上げる。壊れたり破れたりしていない事を確かめるとホッと息を吐いた。それからハボックを睨んで言う。
「なんてことするんだ、ジャン。本を大切に扱わないなんて最低だぞ」
「そんな本、壊れちゃえばいいんだ!」
 そう言った途端、ハボックの頬がパンッと鳴った。痛みと突然叩かれた事に頬を押さえて目を丸くするハボックを叩いた当のロイも目を丸くして見つめる。真ん丸く見開いた空色の瞳からポロポロと涙が零れるのを見てロイはハッとした。
「うっ…うぇっ…ッ」
「あ……ジャン、その…っ」
 オロオロと差し伸ばされたロイの手を払ってハボックは飛び降りるように階段を下りると駆けていってしまう。ロイは追いかける事も出来ずに足音が遠ざかるのを聞いていたが持っていた本をギュッと抱き締めるとさっきまで座っていた窓辺に腰を下ろした。
「だって……ジャンが悪いんだ、本を粗末にするから」
 ロイはそう呟くと本を広げて読み始める。だが、さっきまでとは違ってちっとも内容が頭に入ってこない事に、ロイは苛々としながら何度も同じ場所を読み返した。10分もそうして読み返していただろうか、ロイは本を読むのを諦めてパタンを閉じると窓に寄りかかって目を閉じる。
「ジャンが悪いんだから。絶対にそうなんだから」
 ロイは自分に言い聞かせるようにそう繰り返しながら、ギュウと目を閉じていたのだった。

 ヒヤリと肌を撫でる風にハッとしてロイは目を開ける。いつの間にか眠ってしまったようで、気がつけば窓の外は太陽が残したオレンジ色を夜の藍色がどんどん塗り潰しているところだった。
「さむ……」
 天気がよければ日中は暖かいこの季節も陽が落ちてしまえば急速に冷え込んでいく。ロイは腕を伸ばして窓を閉めると階段を下りて屋根裏部屋から出た。更に階段を下りればキッチンからいい匂いがする。匂いに誘われるようにキッチンに顔を出せばスープの味を調えていた母がロイを見て言った。
「あら、ジャンは?一緒じゃないの?」
「え?」
「ずっと姿が見えないから二人で屋根裏に篭ってるんだとばかり思ってたのに」
 そう言う母の言葉にロイは目を見開く。
「ジャン、いないの?だってもう……」
 そう呟いて窓の外へ目をやればさっきまでは昼の名残りのあった空はすっかりと夜のそれへと変わっていた。
「探してくるっ!」
「ロイ?!」
 ロイはそう叫ぶと家を飛び出す。家の前の通りできょろきょろと左右を見渡したロイは「こっち」と思った方へと走った。近くの公園を覗き、近所のハボックの友達の家を訪ねたがその姿は見つからず、時間が経つにつれロイは胸がドキドキしてくるのを止められなかった。
「どうしよう……どこに行ったんだろう…」
 大切な本を乱暴に扱われて思わずカッとなって叩いてしまった。その前も一緒に出かけようと一生懸命誘ってくれたのを素気無く断わってしまった。
正直、突然出来た人懐こい弟にどう接していいか判らなかったというのもあったのだが、それにしてももう少しやり方があったろうに。
「どうしよう、もし何かあったら……」
 5歳年下のハボックはまだ7つになったばかりだ。もし、一人で川べりにでも行って足を滑らせでもしたら。
「あっ、川べり!」
 そう思った途端、ハボックが言っていた言葉を思い出してロイは俯いていた顔を上げる。確か川の近くで薄が綺麗だと言っていた。ロイはきびすを返すと一直線に川に向かって走っていった。

 川の近くまで来れば、灯りの殆んどない夜闇の中に白い薄がボウッと浮かび上がっている。時折風に煽られてサアッとその白い頭を振る姿がどこか空恐ろしくてロイはギュッと手を握り締めた。
「ジャンッ!!」
 絶対にここにいる筈と、ロイは声を張り上げる。だが一向にいらえが返ってこない事に、まさか川に落ちたのかとロイがゾッとした時、薄の間に金色の光が見えた。
「ジャン?!」
 そう呼んで駆け寄れば小さく縮こまっていたそれが顔を上げる。金色に縁取られた、涙に濡れた顔が探していたものと判って、ロイはホッと息を吐くと近寄っていった。
「ジャン」
 だが、そう言って笑いかけたロイにハボックは口をへの字に曲げると立ち上がり背を向けて走っていってしまう。驚いたロイが慌てて追いかけたがハボックの姿は背の高い薄の中に紛れて見えなくなってしまった。
「ジャン!」
 焦ったロイは薄をかき分け必死にハボックを探す。落ち着いていた心臓が不安に再びドキドキと鳴り始めた時、川べりに立つハボックの姿が見えた。
「ジャン…っ」
 ロイはハボックを驚かさないようにゆっくりと近づいていく。後数歩で手が届くというところまで来たとき、ハボックがポツリと言った。
「ロイなんて嫌い」
「ジャン」
「オレより本の方が大事なんでしょ?だったらこんなとこ来ないで本読んでればいいじゃん」
 ハボックはロイの方を振り向かずに小さな声でそう言う。俯いた頬を涙が零れるのを見てロイはハッとした。
「オレは新しいお兄さんが出来るの、凄く楽しみだったけど、ロイはそうじゃないんでしょ?いいよ、もう。ロイなんて嫌い」
 パタパタと涙を零しながら肩を震わせるハボックの姿にロイは胸が痛くなる。堪らず差し伸べた腕をハボックが強く払った、その拍子に。
「あっ?!」
 ズルッと足を滑らせたハボックの体がバランスを崩して川に落ちかかる。
「危ないっ!」
 ロイは慌てて手を伸ばすと、ハボックの腕を掴んでグイと引き寄せた。引っ張られて腕の中に飛び込んでくる体をロイはギュッと抱き締める。その金色の髪に頬を埋めると言った。
「ごめん、ジャン……私が悪かった。本当にごめん…っ」
 そう言いながら抱く腕にギュッと力を込めるとハボックが大きく目を見開く。それからボロボロと泣き出す子供の頬を手のひらで拭うとロイは言った。
「ごめんね、ジャン。だから泣かないで」
 言って見つめてくる黒い瞳を見返してハボックが聞く。
「ロイはオレのこと、嫌いじゃないの?」
「嫌いなわけないだろ」
 ロイはそう言って笑うとハボックの体をギュッと抱き締めた。冷え切ったその体に顔を顰めると言う。
「こんなに冷え切って……心配したんだからなっ」
 ロイは言いながらひとしきりハボックを抱き締めるとやっと腕を緩めた。それから優しく笑いかけて言う。
「帰ろう、母さんが心配してる」
 そう言えば「ごめんなさい」と消え入りそうな声で言う弟の手を握るとロイはにっこりと笑った。
「今度は昼間薄を見に来よう。空色に映えてきっと綺麗だよ」
 ロイの言葉に嬉しそうに笑うハボックと手を繋ぐと、二人は家へと帰っていった。


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