| 井筒 第十一章 |
| 暫くそうして蹲っていたロイはやがてのろのろと立ち上がると洗面所に入る。ふぅと息を吐いて視線を上げれば、途端に鏡に映った己の紅い顔が目に飛び込んで、慌てて目を逸らした。 「くそっ……ジャンの所為だ…ッ」 あんな風に囁くから、そう思えば途端に収まりかけていた鼓動が再び跳ね上がる。鏡の前から逃げるように洗面所を出ると部屋の窓際に立って外を見下ろした。何もせずにただこうしていると頭に浮かんでくるのはハボックのことばかりだった。懐いてくる弟への気持ちが「可愛い」から「愛しい」へと変わり、それが異性へのものと変わらぬ気持ちだと気付いてからはただひたすらその想いから目を背けてきた。押さえ込んできた気持ちは一度そうだと認めてしまえばもう目を背けることすらロイに赦そうとはしない。あともう少ししたらここへくるだろうハボックはただひとつの答えを要求するだろうし、ロイ自身持っている答えは一つしかない。 「落ち着かない……」 いっそ抱き締められたあの時、好きだと互いに打ち明けあえばこんなにザワザワと落ち着かない気持ちにはならなかったろうに。 『部屋で待ってて。どこにも行かないで』 そう告げた空色の瞳が一瞬頭に浮かんだが、ロイはふるふると首を振ると足早に部屋を出て行った。 解散、と漸くその言葉がコーチの口から出たのと同時にハボックは勢いよく立ち上がると荷物を引っ掴んで部室を飛び出す。 「あ、おい!ハボック、これからみんなで打ち上げ――ッ」 そんな声が背後から聞こえたような気がしたがハボックは振り向きもしなかった。 (ロイ……ロイ……ッ) 頭に浮かぶのは愛しい黒曜石の瞳ばかりでハボックはわき目もふらずにロイが待つホテルへと走っていく。全速力でホテルに辿り着くとさっき別れた部屋へと向かった。ハアハアと弾む息を整えて、部屋の扉を叩く。だが、いくら待っても現れない人影にハボックは苛々と扉を叩く手に力を込めた。 「ロイッ?いるんでしょ?開けてッ!」 この期に及んで拒否される事などあるだろうかと、ハボックは苛立ち紛れに部屋のノブを回す。鍵がかかっていないそれは何の抵抗もなく開いて、ハボックは目を見開くと部屋の中へと入った。 「ロイッ?」 名を呼びながら部屋の中を見回し、洗面所やトイレ、果てにはクローゼットの中まで覗いたハボックはロイが部屋にいない事に漸く気付く。 「なんで…?部屋で待っててって言ったのにッ」 ハボックはギュッと唇を噛み締めるとカバンを放り出し、ロイを捜して部屋の外へと飛び出していった。 ロイは両手を握り締めながら物凄い勢いで通りを歩いていく。特にどこへとあてがあるわけではなかったが、あのままホテルの部屋でハボックをじっと待っていることが出来なかった。 ハボックへの答えも決まっていたし、今更ハボックを拒む理由等あるはずもない。それでもただ部屋の中でハボックを待ち続けるには期待と緊張で胸が張り裂けそうだった。 (ジャン……) 気持ちを落ち着けようと外へ出てきたものの、収まるどころか胸の鼓動は高まるばかりだ。 (もう…ッ、どうなってるんだ、私は…ッ) こんな風に自分の気持ちをコントロールできなくなった事など今までに一度もなくて、ロイは視線を落としたまま猛スピードで歩いていく。念じるように「落ち着け落ち着け」と心の中で繰り返しながら歩いていたロイは、すれ違いざま向こうから来た相手に肩口をドンッと勢いよくぶつけてしまい、慌てて顔を上げた。 「あっ、…ごめんッ」 慌てて謝ると相手を見上げる。ムッとしてロイを見下ろした相手がロイの顔を見た途端、ジロジロとその全身を舐めるように見回した。 「あの……」 何も言わずに自分を見てくる相手にロイはどうしたら言いかわからず口ごもって男を見る。男は値踏みするようにロイを見ていたがいきなり肩を押さえると顔を顰めた。 「いってぇなぁ……ッ、どこ見て歩いてんだよッ」 「ごっ、ごめんなさいっ、ちょっと考え事してて……」 「いてぇ…ッ、古傷に当たったみてぇだ」 そう言いながら肩をさする男にロイは慌ててオロオロする。考えていた事が考えていた事だけに、なんだか酷く罪悪感にかられて困りきるロイを見て男が言った。 「アンタさぁ、悪いと思ってんならちょっと家まで来て手当てしてくんねぇ?」 「えっ?」 「俺、一人住まいだから手当て仕切れねぇからさ。いいだろ?時間とらせねぇし」 そう言う男にロイはどうしたものかと一瞬迷ったが、一人きりでハボックを待つより気が紛れるかと小さく頷く。男は薄く笑うとロイの肩を抱くようにして歩き出した。馴れ馴れしい男の仕草にロイは顔を顰めて男を見る。男の傍から離れようとすればグイと引き寄せられて、ロイは鼻をつく男の匂いに身を捩った。 「ちょ…ッ、離せッ」 「おい、人に怪我させといて逃げんのかっ?」 「そういうわけじゃ…ッ」 男はもがくロイを無理矢理路地へと引きずり込む。そのまま男がロイを手近の建物の中へ連れ込もうとした時。 ガコンッ!! 「グハッ?!」 どこからか飛んできたバケツが男の後頭部を直撃した。痛みに蹲る男をビックリして見つめたロイはハッとして後ろを振り向く。すると物凄い形相をしたハボックが駆け寄ってきて、ロイの手首を掴むとその場から走り出した。 「ジャ……ッ」 ものも言わずに走り続けるハボックに腕を引かれて必死になって走りながらロイはハボックを呼ぶ。5分ほども走ったところで漸く立ち止まるとハボックはロイを見た。 「何やってたんスか、あそこで」 低い声でそう聞かれてロイは目を丸くする。ハボックの体から発せられる怒りのオーラに身を竦ませながらも男とのやり取りを話せばハボックが呆れた顔で怒鳴った。 「アンタ、頭いいかと思ってたッスけど、バッカじゃねぇのっ?!そんなのアンタを連れ込む言い訳に決まってんでしょッ!オレが行かなかったらどうなったと思ってんスかッ!!」 「ど、どう、って…」 「レイプされてたんスよ?下手すりゃ複数相手にね」 ハボックの言葉にロイは丸くしていた目を益々まん丸く見開いた。引きつった笑いを浮かべながら言う。 「そんなの、お前の考え過ぎだろう?」 「……アンタ、危機意識なさ過ぎ。大体ホテルで待っててって言ったっしょ?なんでこんなとこウロウロしてんスか」 そう聞かれても、これからの事を思うと落ち着かなくて、とは言えずロイはウロウロと視線を彷徨わせた。ハボックは一つため息をつくとロイの手を取る。 「とにかくホテル帰りましょ」 そう言ってロイの手を引いたまま歩き出すハボックにロイは慌てて言った。 「ジャン!手、離せ!」 言った途端、ハボックにジロリと睨まれてロイはビクリと身を竦ませる。ハボックはロイをじっと睨みつけていたがゆっくりと一言一言区切るようにして言った。 「絶対に、い、や、っス!!まだ誰かに絡まれたら堪んないっスから」 「あれは偶々で……っ」 「たまたまぁ?!」 大きな声にロイは思わず口を噤む。ハボックは大きなため息をつくとロイの手をとったままホテルへ向かって歩き出した。それ以上は流石に言うことが出来ず、ロイはハボックに引かれるまま通りを歩く。実際そんな事はないから、と思いつつも道行く人が皆、手を繋いで歩いている二人を見つめているように感じて、ロイは俯き加減で半歩遅れてハボックの後を歩いていった。ホテルについても手を繋いだままハボックはこの日3度目になるロイの部屋へと向かう。部屋について中へ入るとカチリと鍵を掛けロイを見た。手を繋いだまま自分を見下ろすハボックに、ロイは何を言っていいか判らず視線を落とす。そうすれば繋いだ手が目に入ってロイはハボックの手の温かさを今更ながらに実感した。 「ロイ」 降って来る声にピクリと体を震わせる。そんなロイにハボックは一つ息を吐いて言った。 「ここ来て、アンタがいないと判って、オレがどれだけショックだったかわかるっスか?アンタが妙な男に絡まれているのを見た時のオレの気持ち、判ります?」 さっきまでのように怒るでもなく責めるでもないその声に、ロイはむしろハボックの気持ちを察して顔を上げる。まっすぐに見下ろしてくる空色の瞳を見返して言った。 「ごめん……ごめん、ジャン」 小さな声で告げればハボックが優しく笑う。繋いだ手を引いてロイを引き寄せると言った。 「もう、いいや。今こうしてるから。………ロイ」 改めて名を呼んで見つめてくる瞳をロイは受け止めてまっすぐに見返す。ハボックは逸らされることのない視線に嬉しそうに笑うと言った。 「ロイ、オレ、アンタが好きっス。もう、ずっと前から。でもオレはアンタより5つも年下で全然アンタには追いつけなくて……。だけどオレ、この3年、必死に頑張ったつもりっス。少しはアンタに相応しい男になったかなって」 そう言うとハボックはロイの頬に触れる。優しく撫でてロイの目を覗き込むともう一度言った。 「ロイ、オレはアンタが好きっス」 告げられる言葉がロイの胸に染み込み温かく包み込む。ロイは目を細めて笑うと言った。 「私もお前が好きだ、ジャン。きっとお前が私を好きになる前から、ずっとずっとお前の事が好きだった」 はっきりと告げられる言葉にハボックの顔が泣きそうに歪んで。 二人はどちらともなく唇を合わせていった。 |
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