| いつか帰る場所であるように 第九章 |
| バタバタと走り去る足音を聞きながらロイはよろよろと数歩歩く。脚にソファーの縁が触れたと同時に尻餅をつくようにドサリと腰を下ろした。 「何だってあんなこと……」 ロイは呆然と開け放たれたままの扉を見つめて呟く。自分がとった行動が自分でも理解できず、何度か目を瞬かせた。 「アイツが泣いたりするから、だから───」 そう呟いて言葉に詰まる。ハボックが泣いたから、だからどうだというのだ。慰めてやりたいのなら優しい言葉をかけてやればいい。スキンシップが必要なら抱きしめて背中をさすってやれば十分だ。それなのに。 「キスしてしまった……」 ロイは呆然と呟いて己の唇に触れる。そうすれば重ねたハボックの唇の感触が思い出されて心臓がドキリと跳ねた。 思っていたよりずっと柔らかいそれは、ハボックがいつも吸っている煙草の味がした。お世辞にも美味いとは言えないはずのハボックとのキスは、だがロイにとって酷く甘く心を震わせるものだったのだ。 「私は」 唇に指を這わせてハボックの唇の感触を追う。そうすれば涙を零した空色の瞳と子供のように頼りないハボックの表情が浮かんだ。守ってやりたいと思った。ハボックをあんな顔をさせる全てのものから遠ざけて、この腕の中に抱きしめて何の心配もないのだと告げて、自分だけを見つめて自分のことだけを考えるように仕向けたくて。そして。 もっとキスしたいと思った。あんな一度きりの奪うようなキスでなく、互いの気持ちを確かめあうような、そんな───。 「気持ちを確かめあう、だと?ちょっと待て、それじゃあ私は」 ロイはゆっくりと形を成していく自分の中の想いを見つめて、ギュッと手を握り締めた。 執務室を飛び出し、司令室をも走り抜けるとハボックは闇雲に廊下を走っていく。手当たり次第に階段を駆け下り、いくつも角を曲がって漸くハボックは足を緩めた。ハアハアと荒い息を零しながら壁に手をついて立ち止まる。早鐘のような鼓動が耳の中で鳴り響いて、いっそうるさいほどだった。ハボックは壁に寄りかかってぼんやりと天井を見上げる。そうすれば不意にロイとのキスが蘇ってカアアッと顔を紅くした。 「大佐、なんであんなこと……」 そう呟いて己の唇に触れる。そうすればロイの唇の感触が蘇ってハボックはキュッと目を瞑った。 「大佐……」 押しつけられた唇は酷く熱かった。ロイの唇は冷たいのだろうと何故かそう思っていたことに気づく。それはきっといつだってそつなくスマートに振る舞うロイの立居振舞からくる印象だったのだろうが。触れた唇も絡んできた舌先も燃えるように熱くてそれを思い出せば身体の芯が熱くなるような気がする。ハボックはロイとのキスにまるで嫌悪感を抱いていない事に気がついた。それどころか。 「もっとキスしてほしい……」 ポツリとそう呟いてしまってから、ハボックは耳に入ってきた声が自分のものだと気づいて飛び上がった。慌てて左右の廊下を見たが、幸い近くに人の気配はなかった。 「な、な、な、何言ってんの、オレっ」 この間からずっとおかしかった。仕事をサボって現場までやってきたロイの目的が、自分に会いにきたのだったらいいと思ったり、何かにつけてロイの顔が浮かんだり。挙げ句の果てには今回の騒動だ。ロイに渡してくれと頼まれたラブレターに動揺し、なかなか渡せなかったばかりか、ロイがそのラブレターの女性とつきあうのだと思った瞬間、悲しくて胸が張り裂けそうになった。気がついたらポロポロと涙を零していて、そして。 「たいさ……」 ハボックは小さな声で呼ぶと唇に這わしていた指を舐める。ぴちゃりと濡れた音が聞こえて、ハボックは慌てて唇を離した。 「オレ……オレはっ」 吐き出すように言って前屈みに屈んだ身体をギュッと抱き締める。そうすれば湧き出す想いに身体を震わせた。 「嫌だ、オレから大佐、とんないで……ッ」 ハボックは漸くはっきりと見えたロイへの想いに唇を噛み締めた。 突然のキス以来、二人の様子は表向き何ら変わったようには見えなかった。ごく普通に言葉を交わし、笑いあう。だが、あの日からぷっつりとハボックはロイの家に行かなくなってしまった。丁度続けざまに事件が起きたこともあったが、その隙間に出来た貴重な時間にすらハボックはロイの家に行けなかった。 (どんな顔してたらいいか、判んねぇもん) 皆がいるところであれば普通にしていられる。だが、二人きりになってしまったら自分は一体どうするのだろう。ロイにあのキスの意味を聞きたいとも思ったが、ロイのことだ、『いきなり泣き出したから慰めてやったんだ』とでも言われそうな気がして、とても怖くて聞くことなどできなかった。 (大佐だったらそんな風にして女の子、慰めてそうだもんな…) ロイにとってキスなど日常的な挨拶に違いない。そう思えば思うほど、自分にとってのロイとのキスが至極特別なものへと変わっていく。 (大佐がオレと同じこと考えてたらいいのに…) そんなことあり得ないと心の半分が己をあざ笑うのを聞きながら、ハボックは深いため息をついた。 ロイは目の前で報告書を読む長身を見上げる。あの日以来なんの変わりもないように振る舞いながら、決して家に来なくなってしまったハボックに、ロイは内心ため息をついた。 あの日のキスの意味をハボックは尋ねてはこなかった。もし、聞かれたなら己の想いを打ち明けることも出来たろう。だが、まるであのキスがなかったことのように振る舞うハボックに、ロイは想いを打ち明けることが出来ずにいた。 (まさか自分にこんな青臭いところがあろうとは…) あまりに素っ気ないハボックの様子に、怖くて打ち明けることも尋ねることも出来ないでいるなどと誰が思うだろう。 (いっそもう一度キスしてしまおうか) あの柔らかい唇をもう一度味わいたい。唇だけでなく、何もかもすべて味わい尽くしたいのだと気づいて、ロイは愕然とした。 「……大佐、オレの話聞いてます?」 その時、そう言うハボックの声が降ってきて、ロイは改めてハボックを見上げる。その薄い色の唇が目の中に飛び込んでくるのと同時に、ロイはガタンと音を立てて立ち上がっていた。 「大佐っ?」 驚きに見開く空色の瞳。それがあの時のハボックの瞳と重なってロイはうっすらと笑みを浮かべる。そうしてそのまま机越しにハボックを引き寄せるとその唇を塞いだ。 「…ッ!!」 ギョッとして逃げようとする身体を、机に乗り上げて引き寄せる。ハボックの頭を抱え込んで、ロイは深く深くハボックの唇を貪った。 「んんっ……ん────ッッ!!」 もがく身体を押さえ込み、抱えた頭ごと食い尽くす勢いで口づければ次第にハボックの抵抗が小さくなっていく。いつしかロイの腕に頭を預けるようにしてキスを受け止めていたハボックから漸く唇を離してロイは言った。 「好きだ、ハボック」 「………え?」 告げる言葉にハボックはぼんやりとロイを見る。とても言われた意味を理解しているとは思えないその様子にロイはもう一度口づけた。歯列を割ってハボックの口内に忍び込ませた舌で、ハボックのそれを絡め取る。あの時と同じに甘いそれにロイがうっすらと笑ったとき、ハボックがドンとロイの胸を押した。 「なん……っ、なに言って…っ?!」 真っ赤になってそう言うハボックにロイは鮮やかに笑う。 「聞こえなかったのか?好きだと言ったんだ」 「だっ、だってオレ、男なのにっ」 ロイの女好きもそれに反比例するような男への嫌悪も知っている。だからこそロイにキスの意味を尋ねることも、自分の気持ちを伝えることも出来ないでいたのに。 「そうだな、でもお前が好きなんだから仕方ないだろう」 実にあっさりとそう口に出来てしまったことに、ロイは内心己を笑う。怖くて口に出来ないと思っていた想いは言ってしまえば至極あっさりと滑りでてきた。 「好きなんだ。いつからだろうな、お前が好きでたまらないんだ」 そう言って笑うロイの顔をハボックは呆然と見つめる。子供のように澄んだ空色の瞳に、ロイはうっとりと笑った。 「お前のその瞳が好きだ。憎まれ口を叩くこの唇も、蜂蜜色の髪も。大ざっぱでいて細やかな気遣いの出来る心根も、器用なこの手も何もかも全部、私だけのものにしたい」 そう告げるロイの言葉はまるで呪文のようだ。まるで腑抜けのようにポカンとしてハボックはロイの顔をじっと見た。 「信じられないという顔だな」 それはそうだろうとロイは思う。こうして想いを告げていてさえ自分自身まるで夢のようなのだから。それでも、この想いに嘘偽りなどなくて。 「愛してる、ハボック」 ありったけの想いを込めてそう囁いた途端、ハボックの瞳からポロポロと涙が零れて落ちた。 |
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