いつか帰る場所であるように  第八章


 意に反して預かってしまった手紙を捨ててしまうこともできず、ハボックはそれを懐にしまうと建物の中に戻る。重い足取りで司令室までやってくるとそっと扉を押し開けた。丁度定時を過ぎた頃だったこともあって、司令室の中はのんびりとした雰囲気に包まれている。入れ替わりに帰っていく同僚たちに手を振るとハボックは自席に腰を下ろした。
 腰を下ろした拍子にしまい込んだ封筒がカサリと音を立てる。ハボックはその音にせっつかれたように執務室の扉を見た。執務室の扉はピタリと閉ざされてはいたが、ハボックにはその中によく知った気配があるのを感じられる。おそらく昼間サボっていたせいで残業になったのだろう、うんざりしながら書類に向かっているロイの姿を思い浮かべてハボックはため息をついた。
(どうしよう、これ……)
 ハボックはそう考えながら封筒を納めた懐をチラリとみやる。重さにして何グラム、ごく薄い紙切れであるにもかかわらず、封筒は酷く重たく感じられた。
(受け取って貰えなかったって返しちゃったらだめかな)
 実際そうしたところで、彼女には確かめる術などありはしないだろう。だったらそうしても何も問題はあるまいとハボックが思った時、執務室の扉が開いてロイが顔を覗かせた。
「ハボック、なんだ、お前も残りか?」
 自席に座るハボックを見てロイが笑う。その笑顔にズキリと胸が痛んで、ハボックはキュッと唇を噛み締めた。
「ハボック?」
 何も言わないハボックを訝しんでロイが傍へと寄ってくる。その動きを目で追って、ハボックは近くまできたロイを見上げた。
「お前も残業ならその辺で軽く食べてこないか?一日土建屋で腹が減ったろう?」
 そう言われてハボックは漸くぎこちない笑みを浮かべる。「そうっスね」と頷けば笑って司令室を出ていくロイの後を追ってハボックも部屋を出ていった。

 司令部近くのレストランで軽く食事を済ませて戻ってくれば、司令室にはもう殆ど人が残っていなかった。ロイはやれやれとため息をつくと執務室へと入っていく。その背を見送って自席に腰を下ろしたハボックはため息をついて懐を探った。指に触れた乾いた感触にちょっと躊躇ってから封筒を取り出す。淡いクリーム色のそれを見て唇を噛んだ。
(レストランでも渡せなかった…)
 たわいない話をする間、ハボックは何度も封筒を渡さなければと思った。だが、そう思えば思うほど、手は重たくなって懐へ差し込むことができなかった。
(総務の女性から預かったっスよ、ってそれだけ言って渡せばよかったのに、なんで……)
 どうしてたった1通のラブレターをロイに渡すことにこんなに抵抗があるのか判らない。ハボックがどうしたものかと途方に暮れていると執務室の扉が開いてロイが顔を出した。
「ハボック、すまないがコーヒーを───」
 そう言いかけてハボックの手にある封筒に目を留める。見るからに女性からのものと知れるそれに僅かに顔を顰めて言った。
「ラブレターか?隅に置けないな、お前も」
 ロイはそう言うと執務室に引っ込んでしまう。ハボックはガタンと立ち上がるとノックもせずに執務室の扉を開けた。
「ハボック」
 乱暴に開いた扉にロイはその暴挙の主を睨んで不機嫌な声を上げる。ハボックの手につい今しがた見た封筒が握られているのを見て、眉間の皺を深めた。
 ハボックが誰かからラブレターを貰ったのだと言う事実にロイは激しく動揺していた。ハボックが実は意外とモテると言う事は知っていたし、そうであればラブレターの一つや二つ貰ったところで不思議ではない。それでも、ハボックに想いを寄せる相手がいると言うことがロイにはどうにも我慢がならなかった。
(何故こんなに苛ついているんだ、私は)
 手紙を手に執務室に飛び込んできたハボックを見つめてロイはそう思う。別段ハボックが誰からラブレターを貰おうと自分には関係がない筈だ。だが、実際にはその事実に激しく動揺する自分がいる。ロイはその動揺を隠すように殊更きつくハボックを睨んだ。
「ハボック、私はコーヒーをくれと頼んだ筈だが?」
 不機嫌も露わにロイが言えばハボックは一瞬気後れしたような表情を浮かべる。だが、キュッと唇を噛むと手にした封筒をロイに向かって突き出した。
「これ、オレにじゃありません。大佐宛っス」
「……私に?」
「最近総務に配属になった美人、知りません?彼女が大佐に渡してくれって」
 そう言って突きつけられる封筒をロイはじっと見つめる。それからハボックを見て言った。
「お前が渡してやると言ったのか?」
 ロイへの想いに悩む女性に手助けしてやると言ったのだろうか。そう思えばズキリと胸が痛んでロイは拳を握り締める。だが、ハボックはその問いに唇を思い切りへの字に曲げて言った。
「押しつけられたんスよ。渡すとも言ってないのに」
 ムスッとして言いながらハボックはロイに押しつけるように封筒を突き出す。体の横で握り締められていたロイの手がゆっくりと上がって封筒を受け取るのを見て、ハボックは顔を歪めた。ロイは受け取った封筒を反すと差出人の名前を確かめる。その名から総務に配属になったばかりのブルネットの美女の顔を思い浮かべると薄く笑ってハボックの顔を見た。
「付き合うんスよね?あんな美人にこんな手紙貰って、アンタがほっとくわけねぇもん」
 吐き出すようにそう言うハボックの表情が彼の気持ちを物語っているように感じて、ロイは胸の痛みをこらえて言った。
「彼女が好きなのか?お前は」
 傷ついたような表情はきっとそうなのだろう、そう思って尋ねる言葉に胸の痛みが大きくなる。その痛みがどこから湧いてくるのか判らぬままにそう尋ねた途端、ハボックが弾かれたように叫んだ。
「違うっス!!オレは別に彼女のこと何とも思っちゃいませんッ!!」
 思いがけないほど激しい物言いにロイは驚いて目を瞠る。自分のあげた声に驚いたように目を見開いているハボックを見つめて聞いた。
「じゃあ何故そんな顔をする?」
 傷ついたような泣き出しそうなハボックの顔。好きな女性から自分以外の男へのラブレターを託されたが故の表情だと思えば、違うと否定するハボックをロイは不思議そうに見つめる。それと同時にハボックの心がその女性に向いているのではないと判ったことで、どこか安堵している自分に気づいた。
(何故ホッとしてるんだ、私は。ハボックが彼女を好きなんじゃないと判ったからと言ってどうして…?)
 自分自身の気持ちもハボックの気持ちも判らない。人の感情の機微に決して疎くはない筈の自分が、何も察する事が出来ないことが信じられず、ロイはただハボックを見つめる。そうすれば同じように困惑した表情を浮かべていたハボックが判らないと言うように首を振った。
「オレ…っ、オレは……ッ!」
 その言葉に続くのがいったい何なのかハボックにも判らない。ただ、ロイが手紙の女性と付き合うのだろうと思っただけで、苦しくて苦しくてたまらなかった。
(イヤだ、大佐が誰かと付き合うなんて…)
 今までだってロイが多くの女性と付き合ってきたのは知っている。食事を作りにいくようになって、以前より親密に付き合うようになった今でもロイが女性とデートしているのは判っていた。だが、実際こうして誰かのロイへの想いを目の前に突きつけられ、それをロイが受け入れるのだと思った時。
「……ハボック?」
「あ……」
 空色の瞳からポロポロと零れる涙。それを目にしたロイ同様、いや、もしかしたらそれ以上に驚いてハボックは己の頬に零れる涙に触れた。
「……オレ…」
 そう呟いてロイを見つめる。その揺れる瞳を見た途端、ロイは手を伸ばしてハボックの二の腕を掴んでいた。そのままグイと引き寄せれば不意を突かれたハボックが腕の中に飛び込んでくる。まん丸に見開かれた子供のように澄んだ空色の瞳を至近距離で見つめた次の瞬間、ロイは噛みつくようにハボックに口づけていた。
「───ッ?!」
 驚きに強ばる長身を抱き締めて深く口づける。薄く開いた歯列の間から舌を差し入れるに至って漸く何をされているかを理解したかのようにハボックがもがいた。
「んっ!んーーーッ!!」
 逃れようともがく身体を抱き込み、きつく舌を絡める。甘い口中を散々に嬲って、ロイは漸く唇を離した。
「な……なん……っ」
 零れ落ちてしまいそうなほど目を見開いてハボックはロイを見る。同じように見開く黒い瞳に見つめられてハボックはカアッと顔を紅くしたかと思うと、思い切りロイを突き飛ばし、何も言わずに執務室から飛び出していった。
「…私は……」
 その背を見送りながら、ロイもまた呆然と立ち尽くしていたのだった。



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