いつか帰る場所であるように  第十章


 ポロポロと涙を零すハボックをロイは笑って優しく抱き締める。頬を流れる滴を唇で拭ってやりながら言った。
「意外と泣き虫だな、お前は。この間キスした時も泣いてた」
 そう言えばハボックが涙に濡れた瞳で上目遣いにロイを睨む。
「全部大佐のせいっス」
「私の?」
 面白そうに言ってロイは机を乗り越えるとハボックの隣に足を下ろす。土足で机を乗り越えるという行儀の悪い事をする男をハボックは呆れたように見た。
「大佐、今書類踏んだっスよ」
「気にするな」
 ロイはそう言ってハボックの手を取るとソファーへと歩いていく。ハボックをそこに座らせると隣に腰を下ろして言った。
「で?なにが私のせいだって?」
「なんでわざわざ机を乗り越えるんスか。グルって回りゃ済むことでしょ。足跡つけて、中尉に怒られたってしらないっスからね」
 機嫌良く尋ねればそんな事を言うハボックにロイは眉を顰める。
「お前、今ここでそう言うことを言うか?」
「オレはただ現実を言っただけっス」
「雰囲気を解さない奴だな…」
 ロイはムゥと頬を膨らませて呟いた。
「………私の質問に答えたまえよ、少尉」
 気を取り直してズイと顔を近づければ、ハボックはウッと詰まって目を泳がせる。ロイはニヤリと笑ってハボックの顎を掴むと空色の瞳を覗き込んだ。
「私のせいで泣いたというのか?何故?」
 本当は答えなどとっくに判っているのだろう、その黒い瞳を期待にきらきらと輝かせてロイが言う。ハボックは困りきって腿の上でギュッと握った手を見つめていたが、やがてボソリと言った。
「泣くのは普通悲しい事があったときに泣くもんっしょ?」
「嬉し泣きというのもあるがな」
「あの時のオレは悲しかったんです」
「何故?」
 “悲しいことがあったから、終わり”で済まそうと思ったのに結局またつっこまれてハボックはもごもごと口ごもる。恨めしげに見つめてくる空色の瞳を楽しそうに見返してロイは言った。
「何が泣くほど悲しかったんだ?ハボック」
 意地悪く言って覗き込んでくるロイの顔をハボックは大きな手のひらでグイグイと押し返す。
「もうっっ、知りませんっ、大佐なんてッ!!」
 怒り半分、恥ずかしいの半分で顔を真っ赤にして言うハボックの手をロイは取った。その手を自分の方へ引き寄せればハボックの身体も自然と引き寄せられる。大きく見開く空色の瞳を間近で見つめてロイは言った。
「お前の気持ちを聞きたいんだよ、私は」
 唇が触れ合わんばかりの距離でそう囁けばハボックが凍り付いたようにロイを見る。それからくしゃりと顔を歪めて言った。
「…大佐が好きだからっス。だからアンタがラブレターの彼女と付き合うんだと思って悲しかった。今は嬉しくて涙が出るけど」
 嬉し泣きってホントにあるんスね、と妙に感心したように言うハボックにクスリと笑ってロイはハボックの金髪を撫でる。撫でた手をそのまま頭に添えて、ロイはハボックを引き寄せると唇を重ねた。ハボックの唇の感触を楽しむようにゆっくりと押しつけるとその輪郭を舌でなぞる。その舌を歯列を割って中へと忍び込ませればハボックの身体が震えた。
「ん……たいさ…」
 キスの合間に甘く鼻を鳴らしながらハボックがロイを呼ぶ。それに気をよくしたロイがさらに深く口づけ、そのままソファーに押し倒そうとした時。
「マスタング大佐」
 コンコンというノックの音に続いて聞こえた声に二人は飛び上がる。慌てて離れるとソファーから立ち上がったロイは素早く椅子に座って答えた。
「ああ、中尉」
 その声に答えてカチャリと扉が開く。ホークアイは書類を抱えて入ってくると、ハボックへと視線をやった。赤い顔でだらしなくソファーに沈み込んでいるハボックにホークアイは眉を顰める。その様子をしげしげと眺めて言った。
「ハボック少尉、どこか具合でも悪いのなら医務室へ───」
「どこも悪くありませんっ!」
 ホークアイの言葉に弾かれたようにハボックは立ち上がる。
「失礼しますッ!!」
 新兵のようなカチカチに固まった動作で敬礼をすると執務室から出ていく。右手と右足を同時に出す、冗談のような歩き方をするハボックの背をを目を丸くして見送ると、ホークアイはロイに向き直った。
「どうかしたんですか?少尉」
「さあね」
 珍しく驚きの色を浮かべる鳶色の瞳にロイは肩を竦める。
「で?また追加の書類か?」
 明らかに話題を変えようとしているロイに眉を跳ね上げたホークアイは、だがそれ以上追求しようとはせずにロイの方へと向き直る。ふと視線を落とせばくっきりと足あとのついた書類が目に入った。
「大佐。この書類はいったいどういうことでしょう」
 書類を持ち上げそこに残された足あとをピシリと叩く。ロイは顔を引き攣らせて笑うと言った。
「床に落とした書類を拾うとしたらついうっかり踏んでしまったんだ。まさかこんなに綺麗な足あとが残るとは」
 ハハハと乾いた笑いを浮かべるロイをジロリと見て、ホークアイは机に視線を戻す。書類が置いてあった場所に繋がるようにして足あとの一部が机についているのに気付いて目を細めた。
「大佐にとっての床というのはどの場所の事を指してらっしゃるんでしょう」
 そう言って机の上の足あとを指でなぞるホークアイにロイは笑顔を凍りつかせただった。

「び、びっくりした……」
 執務室を出るとそのまま司令室をも抜けてハボックは廊下へと出る。一つ角を曲がったところで壁に寄りかかるとホッと息を吐いた。
「………嘘みたいだ」
 ハボックはそう呟いて唇に手を触れる。ロイと想いが通じ合える日が来るなど夢にも思っていなかった身としては、信じられない幸せな展開にそっと目を閉じた。
「惜しかったなぁ……」
 ポツリとそう呟いてからハボックはハッとして手のひらで口を覆う。左右に視線を走らせて、廊下を行き交う軍人や職員が誰も聞いていないことを確かめると肩の力を抜いた。
「惜しかった、って、何だよ、オレ!」
 真っ昼間のロイの執務室であれ以上何を望んでいたというのだろう。ポカポカと自分の頭をげんこつで殴っていると呆れた声が聞こえた。
「おめぇ、何やってんだよ、ハボ」
「あ、ブレダ」
 視線を上げて声のした方を見ればブレダが立っている。ハボックはへらりと笑うと壁から背を離して言った。
「別になんでもない」
「何でもなくて頭殴んのか」
 変な奴、と言って歩き出すブレダに続いてハボックも歩き出す。並んで廊下を歩きながら、ハボックは漸く幸せに胸が熱くなるのを感じていた。

「大佐、これにサインください」
 そう言って差し出された書類に目を通すとロイはカリカリとサインを書き込む。書いたそれを返しながらロイはハボックに言った。
「今夜は家に来るだろう?」
「えっ?」
 一応問いかける形にはなっているものの、否定の返事などまるで頭にない様子で言うロイをハボックは見つめる。目尻に薄く朱を刷いて頷いた。
「……はい、大佐」
 そう答えればロイが鮮やかに笑った。

「大佐に食事作んの、久しぶり」
 ハボックはそう呟いてロイへの家へと急ぐ。両手には食材を山盛りに積めた紙袋を抱えていた。
「買いすぎちゃったかな、いくら何でも」
 久しぶりと思えば、ロイの好きなものをあれもこれもと買ってしまい、気がつけば凄い量になっていた。呆れるロイの顔を思い浮かべて、ハボックは幸せそうに笑うと足をはやめたのだった。

「遅くなりましたぁ」
 ハボックはそう言いながら家の中へと入っていく。リビングを覗けば、ロイが淡いスタンドの灯りの下でブランデーのグラスを揺らしていた。
「すみません、すぐ用意しますね」
 ハボックはそう言ってキッチンへと行こうとする。だが、ロイが呼び止める声に、荷物を抱えたままロイの前に立った。
「凄い量だな」
 クスリと笑みを零してロイが言う。ハボックは照れたように笑って答えた。
「久しぶりだなぁって思ったら、ついあれもこれも買っちゃって」
 そう言うハボックを目を細めて見つめるとロイは手にしていたグラスをテーブルに置く。ゆっくりと立ち上がるとハボックを正面から見つめた。その端正な顔を見返してハボックは首を傾げる。
「作るの、手伝ってくれるんスか?」
 そう尋ねればロイはククッと笑った。
「本当に雰囲気を解さない奴だな」
「え?」
 キョトンとするハボックの顎をロイはグイと掴む。抱えた荷物を越えるようにして唇を合わせた。
「ッ?!んんっ!!」
 驚いて逃げようとするのを赦さず、ロイは更に深く口づける。ハボックの腕からドサドサと荷物が落ちたのをいいことにその長身を引き寄せると思うまま甘い口内を嬲った。
「た…いさっ」
 必死に身を捩って逃げようとするのを、強引に床に押し倒す。驚いてまん丸に見開く空色の瞳にうっとりと笑ってロイは言った。
「今夜はメシでなくお前が食いたい……」
「……え?」
 言われた意味が全く判らずポカンとして圧し掛かる男を見上げていたハボックは、チクリと首筋に走った痛みにハッとしてロイを押し戻した。
「ま、ま、ま、まってっ、たいさっっ!!」
「何故だ?」
「や、だって!オっ、オレを食いたいって、なにっ?!」
「そんなの、判りきっているだろう?」
 ロイはそう言うとハボックのわき腹をゾロリと撫で上げる。ヒクリと喉を慣らして見つめてくるハボックに聞いた。
「嫌か?ハボック。私はお前が欲しい…」
 熱く囁く声にハボックは呆然とロイを見つめていたが、やがて顔を歪めるようにして言う。
「アンタになら………オレのこと、食って、たいさ…」
 腕を伸ばして縋りついてくる身体を、ロイはギュッと抱き締めると噛みつくように口づけた。



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