| いつか帰る場所であるように 第三十章 |
| こんなに必死になって走ることはこれから先二度とないだろうとブレダは思う。それくらい死に物狂いになって走ったおかげでブレダは一番先に坂を上りきると墓地の入口に辿り着いた。 「くそ…どこだっ?」 ゼイゼイと息を弾ませてブレダは辺りを見回しながら墓標の間を足早に歩いていく。さほど遅れずに着いたヒューズとファルマンも視線を巡らせながら奥へと歩いていった。 「ハボ……っ」 今この瞬間にも最悪の事が起きているのではないかと思うと、心臓がキュッと縮まるような気がする。銃を構えた敵と対峙した時でさえこんな風に感じた事はなく、ブレダは泣きそうに顔を歪めて友人の姿を探した。その時、ファルマンが墓地の一番奥を指さして声を上げた。 「中佐、少尉、あそこっ」 ファルマンが指さす先を見れば墓標の前に座り込む二人の姿。その間に鈍い銀色の輝きが見えて3人は一斉に走り出した。 嫌な予感に急き立てられるようにして少年は坂を上りきる。そうして目の当たりにした光景は彼にとって決して心の内から消し去ることの出来ないものとなった。目を覚ましているときは勿論、眠っていてすらその光景は彼の心を支配し、縛り続ける。優しい伯父夫婦がどれほど少年を慈しみ大切にしても、親しい友人が羽目を外したどんちゃん騒ぎに少年を巻き込んでも、可愛らしい少女との恋のときめきでさえ、ジャンにつけられた足枷を取り去る事はできなかった。いつもいつもジャンの心を支配するのは、あの哀しい出来事だけだった。 『殺して、そしてお前はそこから解放されろ』 ハボックは目の前の男がそう言うのをぼんやりと聞いていた。 『もう解放されていいんだよ。もう十分だ』 男は尚も言う。そうして手渡された銀色に光るナイフをハボックはじっと見つめた。 ずっとずっと両親の仇を討つことだけを考えて生きてきた。何をしていても心の片隅にその事が鎮座して、他の想いを全て押し潰し消し去ってしまっていた。 『過去を断ち切って未来に進め』 その言葉に促されるようにハボックは握り締めたナイフを振り上げる。その手を振り下ろせば過去を断ち切り新しい未来に向かって歩いて行くことができるのだろう。だが。 『そこにはきっとお前と共に歩む相手が待ってる』 その言葉がハボックの心に届いた時、ハボックはポロポロと涙を零しながら自分を見つめるロイの黒い瞳を食い入るように見つめ返した。 「ハボック?」 ロイは突然泣き出したハボックを宥めるように呼ぶ。彼のその手に握られたナイフが振り下ろされさえすれば、ハボックは解放されるのだ。 「ハボック」 ロイがもう一度名を呼んで促せば涙に濡れた空色の瞳が見開かれる。グッと今一度振り上げられたナイフは、だが振り下ろされる事はなかった。 カラン、と乾いた音を立ててハボックの手からナイフが滑り落ちる。驚いたロイが何か言うより早く、ハボックは両手で涙に濡れた顔を覆った。 「あああああ」 心を抉るような声を上げて泣くハボックをロイは呆然と見つめる。それでもなんとかハボックを宥めて決着をつけさせようと、ナイフに伸ばしたロイの手がその柄を掴むより一瞬早く、ハボックがナイフを払いのけた。 「ハボック!」 「嫌だッ!」 驚いて声を張り上げるロイより更に大きな声でハボックが叫ぶ。見開く黒い瞳を睨みつけるようにしてハボックは言った。 「アンタでなきゃ嫌だっ!アンタが…アンタだけがオレを過去から解放してくれたのに…ッ」 『愛している、ハボック』 優しくそう告げるその声こそが過去に縛られていた己を解放してくれたのだ。それなのにどうしてその大切な相手を断ち切ることが出来るというのだろう。 「もう……失くしたくねぇっス、もう二度と帰る場所をなくすのは嫌だっ、……仇かもしれないアンタの手を取る事で地獄に落ちるっていうならそれでもいい、父さんと母さんがオレを赦せないっていうなら、後でいくらでも罰を受けるから、だから……ッ」 そう言って縋りついてくる体を、ロイは呆然として抱き締めた。 「ハボッ───」 墓標の前に座り込んでいる二人の傍へ駆け寄ろうとしたブレダをヒューズは咄嗟に引き留める。ギッと睨んでくるブレダに小さく首を振ってヒューズは言った。 「待て、様子が変だ」 その言葉に二人から少し離れたところで立ち止まった3人の耳にハボックの叫び声が聞こえてくる。ビクリと震えるブレダを押し留めて様子を伺っていたヒューズは、ロイに縋りつくハボックを見て、強張らせていた体から力を抜いた。そうしてブレダの腕をポンポンと叩いて離すと二人の方へと近づいていく。足音に視線を上げたロイを見つめてヒューズは言った。 「もういいだろう、ロイ。お前ももうそこから解放されるべきだ。そうして全部話してやれ。少尉の父親と母親の想いを」 「ヒューズ……」 「過去にずっと縛られていたのはお前も少尉も同じだ。少尉がお前と出会って過去から解放されたなら、お前ももう解放されてもいいだろう?」 「だが、ヒューズ、私は…っ」 「ロイ」 何か言いかけるロイを遮ってヒューズは足下に転がるナイフを拾い上げる。その切れ味を確かめるように指を当てながら言った。 「お前たちがいつまでも過去に縛られていることを、そこに眠ってる人は望んでやしねぇよ。そうでしょう、ウォーレン夫人」 ヒューズはそう言うと手にしたナイフを墓の前にそっと置いたのだった。 「俺達は先に戻ってるから、お前らはケリつけてから戻れよ」 車でサウス・シティまで戻ってきたところでヒューズはロイに言う。何か言いたげなロイに口を開く暇を与えず、ヒューズはブレダとファルマンに言った。 「それでいいだろ?リザちゃんには俺からも連絡いれとくから」 「そうですね。このままイーストシティにつれて帰っても、気もそぞろで使いものにならないでしょうし」 ニヤリと笑って答えるブレダにロイは思い切り顔を顰める。だが、確かに二人でゆっくり話す時間が必要なのも事実で、ロイはフンと鼻を鳴らして言った。 「そこまで言うならしっかり話をして帰ることにしよう。その代わりどれだけ時間がかかっても中尉に文句を言われないように根回ししておけよ」 「お前ねぇ」 「うわ、それ汚ねぇですよ、大佐っ」 言えばヒューズとブレダがゲッと顔を歪めるのを見てロイは少しばかりスッとする。それでも、二人のために時間を作ってくれようとする友人達に礼を言うと、ロイはヒューズ達がそれぞれに帰っていくのを見送った。 「さて」 3人がいなくなってしまうとロイはそう呟くように言って背後に目をやる。そうすればロイの上着の袖口をギュッと握って立つハボックの姿が目に入った。 「ハボック」 袖口を握り締めたまま俯いているハボックをロイは優しく呼ぶ。だが、ハボックは答える代わりに握り締める手に力を込めるばかりで顔を上げようとはしなかった。 「ハボック」 ロイはもう一度そう呼んでハボックの頬を撫でる。撫でた手を顎に添えてハボックの顔を上げさせるとその瞳を覗き込んだ。 「そんな顔をするな。私はちゃんとここにいるから」 そう言って初めてハボックがロイを見る。揺れる空色の瞳を見つめてロイは言った。 「ちゃんと話すよ、始めから全部。お前の母親から聞いた言葉をきちんと伝える」 「たいさ……」 まっすぐに見つめてくる空色を引き寄せて、ロイはハボックにそっと口づけた。 |
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