いつか帰る場所であるように  第二十五章


「な……ッ?」
 夫人の言葉にロイはガチャンと手にしたカップを置いた。同じように驚きに目を瞠るヒューズと共に食い入るようにウォーレン夫人を見つめる。夫人は空色の瞳を細めて笑うと言った。
「私、先ほどあの物質を自分の体に注射しましたの」
「なんですって?!」
 ガタンと立ち上がるロイを空色の瞳が見上げる。言葉もなく見つめてくる黒い瞳を見つめて返して夫人は言った。
「これ以外主人を止める方法を思いつかなかったんです。私は主人と一緒に死にます。マスタング中佐、貴方には私たちが死んだ後、研究資料がテロリスト達の手に渡らないよう、この家を燃やして欲しいのです」
「私たちはそんな形で研究を止めるために来たんじゃないッ!」
 そう声を張り上げる若い軍人をウォーレン夫人はじっと見つめる。それからすまなそうに目を伏せて言った。
「ごめんなさい…。あなた方には酷い事をお願いしているのだと判っています。でも、こうしなければ主人は止められない」
「………なんて事を…っ」
 その言葉にロイはドサリと腰を下ろして手のひらで顔を覆う。低く呻くロイの肩に手を置いてヒューズが言った。
「その薬を無効にできるような、解毒剤のようなものがあるんでしょう?それを使ってもっと他の方法を───」
「解毒剤はありません。私に残された道は流した血で焔となって消えるか、薬の効果が切れて死ぬか、そのどちらかです」
 まるで何でもないことのように言う夫人をヒューズは目を見開いて見つめる。
「どうしてそんな早まったことを……っ、他に方法があったかもしれないのに……」
 力ずくで止めるよりもっと悪い結末を突きつけられてロイもヒューズも自分たちの力のなさを痛感するしかない。夫人はそんな二人をじっと見つめていたが、つと顔を棚の方へむけて呟いた。
「本当はあの子も連れていきたいと思ったのですけど」
 そう呟く声にロイとヒューズは夫人の視線の先を見る。そこに置かれた写真立てに納められた写真の中で笑う彼女とよく似た少年の顔を吸い寄せられるように見つめた。
「用事があると言って出かけましたの。神様があの子には生きろと言っているんでしょう」
 でも、と悲しそうに夫人は目を伏せる。
「きっと一人残されて、私たちを恨むでしょうね」
 その言葉にロイは伏せていた顔を上げた。
「貴方を恨むような事はさせません。彼が恨むのはこの家を燃やした私でしょう。彼はきっと私が貴方がたをこの家ごと燃やしたと思うでしょうから」
 ロイがそう言えば夫人は驚いたようにロイを見る。泣き出しそうに唇を震わせて言った。
「ごめんなさい…っ、私は…なんて酷い事を貴方に……」
 夫人は震える唇を手で覆って嗚咽を零す。ロイは慰めの言葉を探そうとしたが、うまく見つけられずに唇を噛んだ。暫くして夫人は細い指で目元を拭ってロイ達を見る。空色の瞳を細めて笑った。
「ありがとうございます、マスタング中佐。今日ここに来てくださったのが貴方だったことを神に感謝します」
「ウォーレン夫人……」
 かける言葉もなく見つめてくる黒い瞳を見返して夫人は立ち上がる。
「時間がありません。あの子が帰ってくる前に全てを終わらせてしまわなければ」
 夫人はそう言ってロイとヒューズを見つめた。
「あの子に私が───」
 言いかけて夫人はキュッと唇を噛んで視線を落とす。次に顔を上げた時には夫人は綺麗な笑みを浮かべていた。
「さようなら、マスタング中佐、ヒューズ少佐。後のことを頼みます」
「………はい、必ず」
 そう答えるロイに笑みを深めて夫人は背を向ける。リビングから出ていく夫人の背を見送って、ロイは膝の上に置いた手をギュッと握り締めた。

 ロイもヒューズもそのままそこから動けなかった。カチカチと時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえ、その音に押し潰されそうになった時。
「サラ……ァッ!!」
 大声で叫ぶ声が聞こえて二人は弾かれたように立ち上がった。リビングを飛び出し、先ほどウォーレンが消えた書斎へと向かう。今度は鍵のかかっていない扉を押し開けたロイとヒューズの目に飛び込んできたのは。
「………ウォーレン夫人…」
 その声にウォーレンの前に立つ人影が振り向く。全身を輝く焔に包まれたサラ・ウォーレンは金髪を焔に高く吹き上げられながらロイ達を見ると鮮やかに笑った。その壮絶なまでな美しさにロイ達が身動きできないでいると、サラは視線を驚愕に目を見開いている夫に戻す。両腕を差し出すように広げる彼女をウォーレンはくしゃくしゃと顔を歪め、そうしてギュッと抱き締めた。
「サラ……すまなかった、サラ……」
 サラを包む焔に身を任せてウォーレンが囁く。それに答えるようにサラがウォーレンを抱き締めた時、二人を包む焔が爆発的に勢いを増した。
「ロイ…ッ」
 焔が次々と書斎の資料や研究道具へと燃え移るのを見て、ヒューズがロイの腕を引く。ロイは燃え盛る焔と化した二人に何か言いたげに口を開いたが、グッと唇を噛むと身を翻して書斎を出た。ヒューズも今一度二人に目をやると急いでロイの後を追う。足早に家の外へと出れば待機していた部下達が走り寄ってくるのに向かって腕を振り払った。
「下がれっ!この家を燃やす!」
 ロイの言葉に部下達は目を見開いたがすぐさま敷地から離れる。ロイは傍らのヒューズに目を向けずに言った。
「お前も下がれ、ヒューズ」
「ロイ」
 ヒューズはロイの横顔をじっと見つめたが何も言わずに部下達の方へと下がる。ロイは全員が敷地から離れたのを確認すると家を振り返った。ガシャンと遠くでガラスの割れる音がして、ものの燃える匂いが漂ってくる。ロイは一瞬目を細めて家を振り仰ぎ、そうして。
「…………ッ」
 ロイが腕を突き出すようにして発火布をはめた指を擦り合わせれば。
 ドオオオンッッ!!
 地響きを立てて一瞬のうちに家が業火に包まれた。

 パタンと扉が閉まり、さらに遠くで玄関の閉まる音がする。遠ざかる足音を聞いていたロイはやがてゆっくりと目を開けた。そのまま動かずに視線だけで横を見れば自分の頭のすぐ傍に突き刺さったナイフが見える。薄闇の中でも鈍い光を放つそれを暫く見つめていたロイは、ゆっくりと体を起こした。ベッドから下り、脱ぎ捨てていたシャツを身につけ身支度を整える。それから突き刺さったままだったナイフを掴むとグッと引き抜いた。
 強引に半ば犯すようにしてハボックを抱いた。親の仇かもと疑いながらも縋るようにロイに身を任せ、そのたび罪の意識にハボックが苛まれていたことは気づいていた。そうしてその疑惑をロイに否定して欲しがっていた事も。
『違うっスよね……?大佐がオレの両親……殺すわけ、な、い…ッ!』
 泣きながらしがみついてそう言ったハボック。
『なんで…っ、なんで答えてくれないんスか……ッ?!』
 悲鳴のように紡がれた言葉に、だがロイは答えなかった。答えなかったことでハボックの中で疑惑は確信へと変わっていっただろう。
「………お前になら殺されてやってもよかったのに…」
 何も出来ずにただ彼女達が焔に包まれ死んでいくのを見守るしかなかった。一人残されたハボックには自分を殺す権利があるとロイは思う。
「…………」
 ロイはナイフを握り締めるとそれを手にアパートを後にした。

 バンッともの凄い音と共に開いた扉をフュリーは驚いて見つめる。司令室に飛び込んできたブレダの形相に目を丸くしながらフュリーは言った。
「おはようございます、ブレダ少尉」
 何はともあれとりあえず朝の挨拶を口にする。彼の上司達がドタバタと騒がしいのはいつものことであったが、それでもいつもとは若干違うように感じられてフュリーは首を傾げて尋ねた。
「どうかしましたか?少尉」
 そう尋ねれば司令室の中をきょろきょろと見回していたブレダがフュリーに視線を向ける。凄い目つきで睨まれて、何か拙い事でもしただろうかとフュリーが考えたとき、ブレダが口を開いた。
「ハボックは?」
「まだ来られてませんけど」
「じゃあ大佐は?」
「大佐もまだです」
 その答えにブレダはチッと舌を鳴らす。
「あの……お二人に何かあったんですか?」
「こっちが聞きてぇよ、ハボのヤツがいなくなった」
「えっ?それってどういう?」
 驚いて尋ねてくるフュリーに答えず、ブレダは苛々と爪を噛んだのだった。



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