| いつか帰る場所であるように 第二十三章 |
| どれくらい意識を失っていたのだろう、ハボックは薄闇の中、目を開ける。優しい息遣いに傍らを見れば、自分の腰を抱いて眠る男の顔が見えた。熱を注ぎ込まれた筈の体は綺麗に清められ、情事の痕はない。ロイに抱かれた事を示すのは体の奥底に残る違和感だけだった。 ハボックはロイの腕から抜け出すとゆっくりとベッドから立ち上がる。音を立てないようにそっと寝室から出てキッチンへと向かった。棚からグラスを取り出しミネラルウォーターを注いで一気に飲み干す。コトリとカウンターに置いたグラスをハボックは暫くの間じっと見つめていたが、やがてグラスから目を逸らしてカウンターの扉を開けた。そこには調理用のナイフが3本ほどかけられている。長さの違いはあれどどれもハボック自身がいつも丁寧に研いで手入れをしているので、薄いものならほんの少し刃を掠めただけでも切れてしまうほどだった。 ハボックは並んだナイフの中から中くらいのものを抜き出すと握り締める。それを手にキッチンから出た。寝室の扉の前に立ちナイフを持っているのとは反対の手でノブを掴む。音を立てないようにそっと回して扉を押し開け、体を中へと滑り込ませた。 ハボックは静かにベッドへ近づいてそこに眠る男を見下ろす。仰向けにベッドに横たわったロイは、目を閉じ深い呼吸を繰り返していた。瞼に隠されて黒曜石の瞳が見えないことにハボックはほんの少し落胆する。それでもその白い秀麗な面をじっと見下ろしていたハボックは、手にしたナイフをゆっくりと振り翳した。全く揺らぐことのない切っ先をピタリとロイの喉元に向ける。片手で握っていたナイフにもう一方の手も添えて。 「────」 ハボックは無言のままナイフを勢いよく振り下ろした。 ドンドンと扉を叩く音にブレダはムクリと起き上がる。枕元の時計に手を伸ばして引き寄せれば、針はまだ夜明けには遠い時刻を指していた。 「…………」 ブレダは顔を顰めて時計を枕元に戻すとブランケットを引き上げ潜り込む。人を訪ねてもよい時間も知らない非常識な輩は無視してやろうと、ギュッと目を閉じたブレダの耳に扉を叩く音はしつこく響いてきた。 「ああクソっ!!近所から苦情が来ちまうだろうがッ!!」 ブレダはそう叫んで飛び起きる。誰だか知らないが一発殴ってやると思いながら乱暴に扉を開けた。 「この野郎ッ!今、何時だと思って───」 「ブレダ」 扉の向こうに佇む背の高い人影にブレダは上げかけた声を飲み込む。ジーンズにシャツをはおっただけのハボックはブレダの顔を見てうっすらと笑った。 「ハボックっ?どうしたよ、こんな時間に」 そう尋ねてブレダはとりあえずハボックを中へと招き入れる。ぺたぺたと言う音に下を見たブレダはハボックが裸足なのに気づいて目を見開いた。それでも何も言わずにハボックをダイニングに通すと椅子に座らせる。グラスに水を注いで持ってくるとハボックの前に椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。大人しく椅子に座っているハボックの手を取りグラスを握らせる。飲め、と促す声にハボックは両手で包み込んだグラスを口元に当てた。 「どうした、なにがあった?ハボ」 明らかに様子のおかしい友人にブレダは尋ねる。ハボックは水を飲んだグラスをじっと見つめて言った。 「さっき大佐にもこうして水を渡したんだ」 「え?」 「大佐も一気に飲んじゃった」 「ハボック?」 ハボックが何を言っているのかさっぱり判らず、ブレダはハボックの肩を掴む。そうしてその空色の瞳を覗き込むようにして言った。 「判んねぇよ、ハボ、大佐がどうしたって?」 そう尋ねるブレダをハボックはじっと見つめる。その瞳がゆらりと揺らいだと思うと、ハボックははらはらと涙を零した。 「ちょ……っ、ハボっ?」 「……否定して欲しかったのに」 「えっ?」 「違うって、そう言って欲しかったのに…ッ!」 「ハボックっ?」 涙を零すハボックをブレダはどうしてよいか判らず、ただギュッと抱き締めてやる。ハボックはブレダの体にしがみついてその肩口に顔を埋めて言った。 「どうして…っ?どうして大佐が…っ?」 「ハボック?おいっ、ハボっ?!」 ブレダの体に縋りつくようにしてハボックは椅子から滑り落ちずるずると床に座り込んでしまう。絶望に染まった嗚咽を零し続けるハボックをブレダはどうすることも出来ず、ただ抱き締めてやるしかなかった。 その日、ジャンは一度家に帰ってからもう一度学校へ出かけた。明日、テストがあるというのに勉強するためのテキストを学校に置き忘れてきてしまったからだ。ジャンは学校への道を駆けながら、何となくざわざわと落ち着かない町を不安げに見回した。 長く続いた戦争はもう終わりが見えてきていた。サウス・バウンズはサウス・シティに近いとはいえ何もない場所だったから、比較的戦争の被害も受けずに過ごしてきた。それでも戦争の陰は色濃く町を覆っていたし、いつ大規模な戦闘に巻き込まれてもおかしくないといった緊迫感に包まれていた。 教室の机の中に置き忘れたテキストを取り出し、ジャンは急いで学校を飛び出す。いつもより青い服を着た群が多い事が町を落ち着かなくさせているのだと気づいて、ジャンは足を早めた。 「なんで…?ここは何もない町なのに」 何か軍事作戦の拠点にでも選ばれたのだろうか。まだ少年に過ぎない身にはその理由など計り知る術もない。ジャンは不安に押し潰されそうになりながら、家への坂道を駆け上がる。テキストなんて取りにいくんじゃなかったと、そう後悔したジャンが坂道を上りきって目にしたのは。 「な……ん………」 激しく吹き上げる焔に包まれた家。その信じられない光景を呆然と見つめるジャンの耳に絶叫が飛び込んできた。その声にビクンと体を震わせて、ジャンは燃え盛る家に飛び込んでいこうとする。だが、その細い体を男の腕がガッシリと掴んだ。 「離せっ!!父さんッ、母さんッ!!」 「駄目だっ、今行けばお前も巻き込まれるッ」 ジャンは自分を引き留める眼鏡をかけた男を睨みつけると、その腕を振り解こうともがきながら声を限りに叫ぶ。その時、轟音と共に家が崩れ始めてジャンは大きく息を吸い込んだ。 「母さんッッ!!」 悲痛な叫び声が響く中、家はスローモーションを見ているかのようにゆっくりと崩れ落ちていく。 「うそだ……、父さん…、母さん……」 呆然と見つめるジャンの耳にリヒターの声が響いた。 「ジャンっ、そいつがお前の家に火をつけたんだっ」 その声に弾かれたようにジャンが視線を移せば、崩れ落ちる家をバックに、吹き上がる風に軍服の裾を翻して立つ黒髪の男の姿が浮かび上がった。 「どうして…ッ」 歯を食いしばりジャンは軍服に包まれた背を見つめて呻く。燃え盛る焔と家が崩れる音にかき消されて届くはずのない声に、だがその男はぴくりと肩を震わせた。焔の中で妙に白く見える手を翻し、その男はジャンを振り返る。苦悩に満ちた黒い瞳でジャンを見つめると、ロイは何か言おうとして口を開きかけた。だが、その時。 ドオオオオンッッ!! 轟音と共に家が崩れ、熱風が吹き付ける。辺りを住民の悲鳴が包み、後はもう混乱して何がなんだか判らないまま、ジャンはロイの姿を見失ってしまった。 「ハボック?」 もう涙を流すこともせず、ぼんやりと蹲るハボックの背をブレダは何度も撫でる。ハボックの様子からロイと何かあったのだと薄々察することは出来たがそれ以上は何も判らず、かと言って今のハボックに理由を問い質す事もはばかられてブレダは顔を顰めた。 「ちったぁ落ち着いたか?ハボ」 それでも殊更なんでもないというようにブレダはハボックに言う。だが、それにも答えないハボックにブレダは一つため息をつくとその長身を支えるようにしてハボックを立たせた。 「色々聞きてぇ事もあるけど今はとにかく休め。んで、明日になったらちゃんと聞かせてくれ。いいな、ハボ」 ブレダはそう言ってハボックを寝室に連れていく。ハボックをベッドに寝かせるとブランケットを掛けてやった。 「何にも心配する事ねぇからな。今はゆっくり休むんだ」 そう言えばハボックはゆっくりと目を閉じる。落ち着かせるようにブレダは金色の髪を優しく撫でてやっていたが、ハボックの唇から規則正しい寝息が聞こえてくるとホッと息を吐いた。 「くそ……一体何があったんだ?ハボ」 ここ暫くの間ハボックの様子がおかしい事に気づいてはいた。だが、日々の仕事に紛れて深く追求しようとしなかった自分をブレダは内心罵る。 「とにかく、ハボの目が覚めたらよっく話を聞かねぇと」 ブレダはそう呟いてハボックの頭をもう一度だけ撫で、そっと寝室を出た。まだ日の出には間があるとソファーに横になったブレダが目覚めた時。 ベッドの中にハボックの姿はなかった。 |
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