いつか帰る場所であるように  第二章


「大佐ぁ、コーヒーいかがっスか?」
 ノックと共に執務室の扉を開けながらハボックが言う。山積みになった書類の陰からロイはハボックを睨んで言った。
「お前、ノックの意味を知らんのか?返事を待ってから開けろ、返事を」
「コーヒー、いらないんスか?」
「……貰おう」
 自分の言った事は綺麗にスルーしてトレイを掲げるハボックをロイは忌々しげに見上げる。だが、いい加減サインを書くのにうんざりしていたところでもあり、ロイはそれ以上追求するのはやめて言った。
「はい、どうぞ」
 ハボックはにっこりと笑ってカップをロイの前に置く。フウフウと息を吹きかけてからコーヒーに口をつけ、ホッと息を吐くロイの様子に笑みを深めた。
「まだだいぶかかりそうなんスか?」
 そう尋ねればロイは椅子にの背に体を預けてため息をつく。
「そうだな、残業になりそうだ」
「もう少し真面目にやればいいのに」
 遠慮の欠片もなくそう言う部下にロイは目を眇めた。その表情からロイの言いたいことを察したハボックはぺろりと舌を出す。
「失礼しました」
「まったく、お前は上司を上司とも思わんヤツだな」
 ロイは呆れたように言ってハボックを見上げた。
 ロイの元に配属された当初からハボックはこんな感じだった。南方司令部に面白いヤツがいるとロイに教えたのはヒューズだった。丁度ホークアイが自分では同行できない場所の為に男の護衛官をおいてくれと言っていたこともあって、ロイはハボックを手元に引き取ることにした。いきなりの異動に先方の抵抗があるかと思いきや、二つ返事でハボックを寄越した事を不思議に思ったロイだったが、ハボックが赴任してすぐにその理由が判った。歯に衣着せぬ物言いは頭の固い年寄り連中にはさぞ受けが悪かっただろう。
 だが、能力重視、むしろ言いたいことがあれば言えばいいと思っているロイの目にはハボックの態度は好ましいものとして写った。いい加減に見えて実は細やかな配慮を見せるところも、のんびりとしているようで、誰よりも素早く的確に行動できるところもロイにとっては申し分なく思える。ロイは手の中のカップを見つめて思った。
(これだって初めて淹れた次の日からはこうだからな)
 特にこうしてくれと言った覚えはない。だが、ハボックがロイの為に淹れてくれるコーヒーはミルクと砂糖を多めにと、ロイの好みにあったものだった。しかも猫舌のロイがすぐ飲めるように少しぬるめに作ってあった。
 気がつけばロイはハボックを懐近くまで入れていた。ロイの副官を務めるホークアイですらロイの信頼を得るまでにはそれなりの時間がかかったというのに。
(不思議なものだ。まあ、悪い気はしないが)
 そんな事を思いながらロイはコーヒーを啜る。ホッと息をつく上官から多少なりと疲労の色が薄らいだように見えて、ハボックは微笑んだ。
「まあ、自業自得とは言え、無理して根詰めないでくださいね。若くないんだし」
「……お前、それは私を励ましてるのか、それともおちょくってるのか?」
 とても素直に励ましの言葉としては受け止められないような事を言うハボックをロイは睨む。ハボックはトレイを小脇に抱えて後ずさるように扉へと近づきながら言った。
「嫌だなぁ、励ましてるに決まってるじゃないですか。んじゃ、オレは今日はもう仕事終わったんで。大佐は残業頑張ってください」
 そう言って砕けた敬礼を送るとハボックはそそくさと執務室を出ていく。後には苦虫を噛み潰したような顔をしたロイが取り残された。

「んじゃ、ブレダ、お先!」
「おう、お疲れ。っつっても俺ももうちょっとで帰るけどな」
 そう言いながら片手を上げるブレダに軽く手を振ってハボックは司令室を出る。司令部の扉を抜ければ外はもうすっかり日が暮れていた。
「まだ夜は寒いな」
 そう呟いて首を竦めるとハボックはのんびりと歩き出す。夕飯の買い物をしようと人で賑わう市場へと足を向けた。
「何にするかなぁ、メシ…」
 料理をするのは嫌いじゃない。だが、一人分の食事を作るのは案外と億劫で、ハボックはデリが美味しいと評判の食品店へと入っていった。
「お、このチキン、旨そう」
 目に付いたパックに手を伸ばしかけ、ついと視線をずらして伸ばした手を止める。隣に並んだ魚をトマト味で煮込んだ総菜と見比べて首を捻った。
「でも、こっちの魚も旨そうだな。…あ、あっちのコブサラダも食いたい。でもこのマカロニサラダも旨そうだしなー」
 腹が空いているせいもあってどれもこれも美味しそうに見える。だが、いくらハボックが大柄で食欲旺盛な成人男性とは言え、食べたいもの全てを買ったら多いのは目に見えていた。
「うーん、どうしよう」
 普段ならこんなに悩まずに手近のところから選んで買ってしまうのに、今日は何故だか決められない。腕組みをしたハボックはたっぷり5分は悩んだ末、ポンと手を叩いた。
「あ、そっか。こうすればいいんだ」
 ハボックはパッと顔を輝かせて言うとパックに手を伸ばしたのだった。

「ああ、もう飽きた……」
 ロイはそう呟くと書類の上に突っ伏す。午後中頑張って滞積していた書類は5分の1ほどまでに減ってはいたが、もういい加減書類に向かっているのも限界だった。
「これくらい残っていても別に構わんじゃないか…」
 ちらりと横目で書類の山を見上げてそう呟く。だがその途端、ホークアイの冷たい視線を感じたような気がしてゾクリ背筋を震わせた。
「腹減った…」
 書類に顎を乗せたまま呟く。自分で買いにいけばいいようなものだがわざわざ残業の為の食事を買いにいくのもむなしくて、ロイは体を起こすと机の抽斗を開けた。
「そうだった、この間ブレダ少尉に食われたんだった」
 抽斗には気に入りの洋菓子店の菓子を買ってストックしてあった。だが、先日サボりを見逃してもらう代価にブレダに渡して、その後補充しておくのを忘れていたのだ。
「考えてみればあれは等価ではなかったな…」
 ちょっとサボりを見逃してもらうのにあの菓子は高すぎた。そう思えば益々腹が減ってきてロイはだらしなく椅子の背に体を預けて沈み込んだ。
「やはり帰ってしまおう…」
 そう呟いて立ち上がろうとした時。
「大佐ぁ、頑張ってます〜?」
 おざなりなノックと共にガチャリと執務室の扉が開く。とっくに帰ったとばかり思っていたハボックがひょっこり顔を出したのを見て、ロイは目を丸くした。
「どうした、今日は残業はないんじゃなかったのか?」
 椅子に埋もれたまま不思議そうにそう尋ねればハボックがニヤリと笑って持っていた紙袋を掲げる。
「晩飯。一緒に食いません?」
 ハボックはそう言うとロイの返事を待たずにソファーセットの方へと行った。テーブルの上に紙袋の中のものを次々と出しては並べていく。そのいかにも旨そうな色合いにロイは沈み込んでいた体を起こすと立ち上がった。
「どうしたんだ、一体。どういう風の吹き回しだ?」
 残業帰りに一緒に飲みに行ったりしたことはあったが、こんな風に残業の差し入れをして貰った記憶などない。ロイは旨そうな食べ物の数々にゴクリと唾を飲み込むと言った。
「いや、帰りに晩飯用のデリ、買って帰ろうと思って店に寄ったんスけどね。なんかどれも旨そうで決められなくて。でも、全部一人で食うには多いから、大佐、食わないかなぁって思って」
ハボックはそう言うとロイの顔を見る。
「あ、もう残業食食っちまいました?」
 ここにきて漸くその事に気づいたというように、しまったと言う顔をするハボックを見てロイはクスリと笑った。
「いや、ちょうど腹が減ったと思っていたところだよ」
「そうっスか?なら良かった」
 ハボックはホッとしたように言って空になった紙袋を脇へと置く。
「スープもありますよ。皿とフォーク持ってきますね」
「ああ、頼むよ」
 そう言うロイにハボックは頷いて、執務室を出ていった。その間にロイはパックに掛かっている蓋を外していく。丁度最後の一つを外したところでハボックが皿とフォークを持って戻ってきた。
「皿なら蓋を代用すればいいんじゃないか?わざわざ洗い物を出すこともあるまい」
「……アンタ以外と大ざっぱっスね」
 ロイの言葉にハボックは呆れたように言う。
「洗い物って、せいぜい皿2枚かそこらでしょ。オレが洗いますから皿、使ってください」
 ハボックはそう言ってソファーの一つに腰を下ろした。
「あったかいうちに食いましょ、大佐」
「……そうだな」
 答えてロイが向かいに座ればハボックはにっこりと笑ったのだった。



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