いつか帰る場所であるように  第十五章


「ただいまっ」
 手にプリントを握り締めたジャンは、そう声を上げながら家の中に飛び込む。そのまま家の奥まで走ると父の書斎の扉を勢いよく開けた。
「父さんっ!」
「勝手に開けるなッッ!!」
 扉を開けた途端響いた怒声にジャンは竦み上がる。
「ご、ごめんなさい…っ」
 そう謝ると慌てて扉を閉めた。
「ごめんなさい……この間父さんに教えてもらった数学、テストの点数上がったんだ。だから見て欲しくて……」
 ジャンは書斎の扉に背を預けて言う。だが、中の父からはなんのいらえもなく、ジャンはため息をつくと書斎から離れた。
 ここのところずっと父の機嫌が悪かった。難しい顔で考え込むことが多くなり、反対に口数は少なくなった。もともとおしゃべりではなかったが、それでもジャンによく面白い話を聞かせてくれた。
「母さんの調子が良くないからかな…」
 ジャンの母はもともと体が弱かったが、最近とみに体調を崩しては寝込むことが多くなっていた。ジャンの両親は子供のジャンから見ても羨ましいほどに仲が良かったから、母の不調が心配で父も苛々しているのかもしれなかった。
 はあ、と一つため息をついたとき、階段を下りる足音がして、ジャンが視線を上げれば丁度母が下りてくるところだった。
「おかえりなさい、ジャン」
「ただいま、母さん」
 寝衣の上に薄いカーディガンを羽織って階段を下りてくる母は、あまり顔色がよくない。ジャンは下りてきた母の顔をじっと見つめて言った。
「母さん、調子よくないの?」
「大したことないわ、お父さんが寝ていろとうるさいから」
 大袈裟よね、と悪戯っぽく笑う母にジャンも小さく笑う。母は自分と同じ金色の髪に手を伸ばした。
「何を持って返ってきたの?」
 優しく髪を撫でながら尋ねればジャンは手にしたプリントを差し出す。
「数学のテスト。この間父さんに判らないところ教えてもらったんだ。そうしたら点が上がったから父さんに見てもらいたくて」
 そう言う息子の手から母はプリントを受け取る。以前は苦手だった問題に大きく丸がついているのを見て、母は空色の瞳を細めた。
「頑張ったのね。凄いわ、ジャン」
「うん……」
 少し元気を取り戻して、はにかむように頷く息子の頬に母は軽く口づける。
「夕食の時にお父さんにも見せるといいわ。きっと今は手が放せないのだろうから」
「うん」
 頷くジャンに母はにっこりと笑った。
「じゃあ、今夜は頑張ったジャンの為にジャンの好物作らないとね」
「寝てなくて平気なの?母さん」
「平気よ、その代わり手伝ってね、ジャン」
 そう言ってキッチンへと入っていく母の後をジャンは追いかけたのだった。

「よお、ロイ」
 司令室の扉を開けた途端、能天気な声と共に片手を上げてヘラッと笑う男の姿が見えて、ロイは思わず開けた扉を閉じる。
「大佐?」
 少し遅れてやってきたハボックに不思議そうな顔をされて、仕方なしにもう一度扉を開けた。
「ロイ」
 声をかけてきた男に構わず執務室へと歩いていく。ヒューズは机の上に広げていた愛娘の写真をガサガサと集めると慌てて立ち上がった。
「おい、せっかく来た親友にその態度はないんじゃねぇの?」
「別に来てくれと頼んだ覚えはない」
 さも嫌そうに肩越しの視線を投げてくるロイに、ヒューズは眉を下げる。それでも挫けずにロイの後について執務室に入りながら言った。
「おう、少尉。コーヒーふたつな」
 ハボックに向かってそう言ってウィンクすると執務室の中に入り扉を閉める。ハボックは下ろしたばかりの腰をやれやれとばかりに上げた。給湯室でコーヒーを淹れて戻ってくるとノックと共に執務室の扉を開ける。ソファーに腰掛けるヒューズの前にカップを置いて言った。
「お久しぶりです、中佐。エリシアちゃんは元気っスか?」
「おお、勿論よ。新作写真持ってきたからな、後でじっくり見せてやる」
「や、それは遠慮しときます。忙しいんで」
「んだよ、冷てぇなぁ、少尉」
「その代わり大佐が見せて欲しいって」
「おい、ハボック」
 言って悪戯っぽく振り向く部下にロイは思わず眉間に皺を寄せる。ハボックはトレイの上に残ったもう一つのカップをロイの机の上に置いて言った。
「中佐の写真見てる方が、たださぼっているより中尉の機嫌が悪くならないっスよ」
「お前な……」
 そんな事を言うハボックをロイは一つため息をついて見上げる。それからフッと笑って言った。
「今日はまっすぐ帰るから」
「あれ?だって中佐は?」
「セントラルからわざわざ来られた中佐殿を他の連中が放っておくわけないだろう」
 そう言ってニヤニヤと笑うロイをヒューズは嫌そうに睨んだ。
「お前が食事に誘ってくれれば断りだって入れやすいだろが」
「生憎お前の都合など知ったことではないんでな」
 そんな事を言い合う二人を置いてハボックは執務室を出る。げんなりした様子で煙草をふかしているブレダに気づいて言った。
「中佐、結構待ってたの?」
「もー、ずーーーーーっっとエリシアちゃん話でよ、当分写真は見たくねぇわ」
「ははは、お疲れさん」
 ハボックはそう言って椅子に腰を下ろす。積まれた書類に手を伸ばして取ると、めくりながらチラリと視線を執務室の扉に向けた。
(今夜はてっきり中佐とメシ食うって言うと思ったのに)
 ここのところロイに仕事での会食が続いていて、今夜は久しぶりに一緒に食事ができると内心楽しみにしていた。だが、それを口に出したことはなかったし、ヒューズが来たなら仕方ないと諦めていたのだ。
(へへ……嬉しいかも)
 ロイもまた自分と過ごす時間を楽しみにしていてくれたのだと思うと、ハボックはほんわりと胸が暖かくなるのを感じていた。

「南部に?お前が行くのか?」
 互いに情報交換をした後、南部に出張するかもしれないと言ったロイに、ヒューズは僅かに眉を寄せる。ズズッとコーヒーを啜りながらロイを見た。
「まぁ、仕事って言うなら個人の気持ちは関係ねぇけどな」
 そう言うヒューズにロイは顔を顰める。
「いい思い出がない場所であることは確かだがな。でも、それを言ったらどこだって大して変わらんよ、ヒューズ」
「ロイ」
 言って窓の外へと視線を向ける友人の横顔を、ヒューズはじっと見つめた。それからふと思い出したように尋ねる。
「まっすぐ帰るって、少尉にメシでも作らせてるのか?」
「ん?ああ、まあな」
「アイツ、メシなんて作れるのか?それにしてもなんでまた」
 確かにロイとその部下たちは比較的親しいと言える。上司と部下という枠を普段からあまり感じさせない。だが。
(メシを作らせてるってことは家に入れてるってことだよな。ロイが誰かをそんな懐深くまで入れるなんて)
 士官学校からのつきあいである自分でさえロイの家には数えるほどしか上がったことがない。まるで何かを恐れてでもいるかのように、他人との間に一線を画してきたロイの変化にヒューズは内心驚いていた。それと同時に微かな嫉妬を感じる。自分が長い時間をかけてさえ踏み込めなかったロイの心の中へいとも簡単に入り込んでしまったハボックが羨ましかった。
「メシなんてものは普通女の子に作ってもらうもんじゃねぇの?」
 グレイシアの料理は旨いぜ、と言うヒューズにロイはフンと鼻を鳴らす。
「ハボックのメシだって結構イケるぞ。一度食べに来てみるか?……ああ、だが今日は駄目だがな」
 まるで彼女の手料理を自慢するかのようなロイの口振りにヒューズは目を丸くする。
(まさか……な。ロイの男嫌いは筋金入りだし)
 学生時代からロイは女性に限らず男にもモテた。だが、ロイは一貫して女性にしか興味を持たなかったし、不埒なことをしよう男がいようものなら容赦ない一撃を加えてきたものだった。
(や、でもさっきの少尉との雰囲気は………)
 酷く穏やかで柔らかい空気。それが自分とグレイシアの間にあるものと寸分変わらぬことに気づいて、ヒューズは思わず考え込んだのだった。



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