菫青石の恋 〜 second season 〜  第九章


「すまん、遅くなった」
 ガチャリと扉が開いてロイが飛び込んでくる。既に出かける準備を整えて車椅子に座っているハボックの髪をくしゃりとかき混ぜてロイは言った。
「すぐ着替えるから待っていてくれ」
「まだ時間あるから大丈夫っスよ」
 言うなり寝室に飛び込むロイの背に向かってハボックが言う。ロイは片手を振って寝室に飛び込むと、ものの二分で飛び出してきて言った。
「よし、行くぞ」
 そういうロイは上質のスーツに身を包んでいる。ハボックはロイをうっとりと見上げて言った。
「やっぱりマスタングさんは何着てもカッコいいっスね。オレなんてこんなの着たことないから……」
 そう言ってハボックは自分のスーツを見下ろす。ロイがプレゼントしたそのスーツはハボックの金髪とよく似合っていた。
「とてもよく似合ってるよ、ハボック」
 ロイの黒曜石の瞳で見つめられて、ハボックは目元を染めて俯く。ロイはハボックの頬に触れて言った。
「さあ、行こうか」
「オレ、コンサートなんて行くの初めてっス」
 アメストリスでも有名な楽団のコンサートが今夜開かれる事になっており、ロイがハボックを誘ったのだ。最初は渋っていたハボックも、熱心に音楽の話をするロイに心を動かされて行くことにしたのだった。
 車でコンサートホールに乗り付けるとロイはハボックの車椅子を押して中へと入っていく。そうすれば演奏が始まるまでの時間をロビーで過ごしている人達が振り向いて二人を見た。
「これはマスタング大佐、こんなところでお会いするとは珍しい」
 中から恰幅のよい紳士が近づいてきて言う。それを皮切りに次々とロイの元へ人がやってきて、ロイは思い切り顔を顰めて言った。
「すみませんが今日はプライベートなので」
 そう言って歩きだそうとするが少しでもロイと話をしようと集まってきた人達に阻まれて思うようにいかない。
「こちらの方はどう言ったお知り合いで?」
「さすがマスタング大佐、ボランティアにも積極的なんですな」
「車椅子じゃあなかなかこう云ったところへは来られないでしょう、よかったですねぇ」
「そんなことより、大佐、コンサートが終わったら少しお時間いただけませんか」
「マスタング大佐」
「マスタング大佐」
 ロイの表情になど気づきもせず、勝手なことを口にする男や女にロイは思い切り舌を鳴らす。ロイは視線で劇場のスタッフを呼び寄せると言った。
「すまんが車椅子を預かっておいてくれ」
 ロイはそう言うなりハボックをヒョイと抱き上げる。取り囲む人々は勿論、誰よりもハボックが一番驚いて悲鳴を上げた。
「マスタングさんッ」
「この方が邪魔されん」
「下ろしてくださいッ!」
 ロイがいるというだけで衆目を集めるというのに、こんな事をしたら余計に注目を集めてしまう。真っ赤な顔で腕を突っぱねながら下ろしてくれと騒ぐハボックの顔に、ロイは己のそれをズイと近づけて言った。
「あんまり騒ぐとその口、キスして塞ぐぞ」
「な……ッ」
 ボソリと囁かれた言葉にハボックがギョッとして息を飲む。これまでのつきあいで、ロイがこうと言ったら絶対そうする男だと薄々感じ初めていたハボックは、仕方なしに口を噤んだ。それでも恥ずかしくて堪らないのは変わらないので、ハボックは唇を噛み締め腕で顔を隠すようにしてロイの腕の中で縮こまった。
「ハボック」
 その様子にロイは呆れたようなため息をつく。ハボックの体が微かに震えてさえいることに気づくと、驚いた顔で二人を見つめている周囲ににっこりと笑って言った。
「よい夜を、みなさん」
 それだけ言ってハボックを抱いたまま人々の間をすり抜ける。そうしてボックス席に入るとハボックの体をそっとシートに下ろした。
「ハボック」
 呼んで触れてくるロイの手をハボックはむずかるように振り払う。椅子の上で小さく身を縮めてハボックは言った。
「帰りたいっス」
「ハボック」
「来なきゃよかった。アンタがアメストリスじゃ知らない人がいないほどの有名人だって判ってたのに!」
「ハボック!」
「帰ります。車椅子持ってきて貰ったら一人で帰りますから」
「ハボックっ!」
 ロイが声を荒げればハボックは一瞬口を噤む。ロイはその隙に口を開いて言った。
「嫌な思いをさせて悪かった。だが、私はお前と一緒にコンサートを聴きたいと思ったんだ。ここなら他の人間はこないし、帰りはあんな事にならないようにする。だから、ハボック!」
「マスタングさん……」
 段々と早口になっていい募るロイをハボックは泣きそうな顔で見上げる。ロイが伸ばした手を今度は振り払わずに、引き寄せられるままハボックはロイの胸に顔を埋めた。
「マスタングさん、オレのことめんどくさくないっスか?」
「そんなことあるわけない」
「でもオレ、一人じゃ何にもできない、アンタの為に何かして上げることもできない」
「お前は今まで一人でなんでもこなしてきたじゃないか。それを私が勝手にしてやりたいと手を出しているだけだ。それにお前がくれる言葉やお前と過ごす時間が、一体どれだけのものを私にもたらしてくれていると思っているんだ?」
 そう言うロイにハボックが何か言おうとした時、開演を告げるベルが鳴る。ロイはハボックにそっと口づけると、拍手に続いて始まる演奏をハボックを抱き締めて聞いていたのだった。


「ハボック?私だ」
『マスタングさん?どうかしたんスか?』
 受話器を通して聞こえる声に僅かに癒された気がしながらロイは書類をめくる。サインをする手を止めずに電話の向こうのハボックに言った。
「なんだか仕事が立て込んでいてね。暫くそっちに行けそうにないんだ」
 眉間に皺を寄せて言えばハボックから返ってくる答えにロイは益々眉間の皺を深める。
『ああ、オレのことは気にしないでください。今日はヘルパーも来る日だし、マスタングさん来てくれなくても全然大丈夫っスから』
「ハボック」
 少しくらい寂しがってくれてもいいのではと思うロイの気持ちなどまるで気づいていないようにハボックが続けた。
『わざわざ電話くれなくても平気っスよ。忙しいんでしょう?電話切りますね。お仕事頑張ってください』
「えっ?おい、ハボ───」
 ロイが止める間もあらばこそ、電話はあっけなく切れてしまう。ロイは呆然とむなしい発信音を聞いていたがやがてのろのろと受話器をフックに戻した。
「それはないだろう…?」
 自分としては仕事などうっちゃってハボックに会いたいのを必死に押さえているのだ。せめて声だけでもと思ってかけた電話すら素っ気なく切られてしまって、ロイはずるずると椅子にめり込んだのだった。


 ハボックは叩ききるように受話器を置くとホッと息を吐く。
「よかった、あんな事言ったばっかりだったし」
 コンサートに連れ出してくれたロイに当たり散らすように言葉をぶつけてしまった。怒りはしなかったものの随分とロイに不快な思いをさせてしまったに違いないのだ。
「……やっぱりつきあうなんて無理なんじゃないのかな」
 ロイから好きだと告げられた時も思ったことだが、どうしても自分がロイとつきあうのは無理があるのではと思ってしまう。自分とロイとではあまりに住む世界が違いすぎて、ハボックはロイを好きだと思いながらも気後れしてしまうのをどうすることも出来なかった。
「マスタングさん……」
 祖父母が亡くなってから尚更、ハボックは外の世界と一線をおいてきた。窓越しに見る世界がハボックにとっては全てだったのだ。ロイへの想いもずっとガラス越しのままだと思いこんでいただけに、ハボックは突然訪れた変化についていけずにいたのだった。


 互いに相手を想いながら一歩を踏み出せぬまま時は流れていく。何かを変えたいと思いつつも事件や事故が重なる日々が続いて、ロイはハボックの元を訪れることがままならないでいた。そうすれば尚の事想いは募って抑えきれなくなっていく。せめて声だけでもと電話をかければかえって辛くなるばかりで、ロイは鬱々と思い悩む日々が続いていた。


 もう休もうと寝室に車椅子を入れようとしたハボックは、ガチャリと開いた扉に驚いて目を瞠る。自分以外にこの家の鍵を持っているのは管理人を除けばロイしかいなかったから、ロイが玄関先に立っていること事態は不思議ではなかったが、それでももう夜も遅いこの時間にロイが来るなんて事は初めてで、ハボックは目を丸くして玄関に立つロイを見つめた。
「マスタングさん」
「すまない。訪ねる時間じゃないのは判っていたんだが」
 どうしても顔が見たくて、とロイは言ってハボックを見つめる。自分を見上げてくる幼い表情にロイはゾクリとこみ上げてくる物を感じて慌てて首を振って言った。
「悪かった、顔を見られて気が済んだよ。寝るところを邪魔して悪かったな」
 そう言って帰ろうとするロイをハボックは慌てて引き留める。振り向くロイににっこりと笑って言った。
「どうぞ入ってください。ここんとこ会えなかったし、来てくれて嬉しいっス」
「……ありがとう」
 ロイは呟くように礼を言うと鍵を閉めて中に入ってくる。ロイはハボックの傍まで来るとハボックを見下ろして言った。
「すぐ帰るから。本当にすまない」
 そう言うロイにハボックは壁の時計を見る。もうすぐ一時を指そうというそれにハボックはロイを見て言った。
「あの……もしよかったら泊まっていってください。こんな時間まで働いてて疲れたでしょう?シャワー浴びて、オレは車椅子で寝ますからベッド使ってください」
 ね?と笑うハボックにロイは言葉に詰まる。だが、慌てて首を振って言った。
「そんな訳にはいかんだろう。私はすぐ帰るから───」
「マスタングさん」
 ロイの言葉を遮ってハボックが言う。
「疲れた顔してるっス。少しでも休んだ方がいいっスよ」
 ハボックはそう言ってロイの腕に手を伸ばした。その手が触れようとする瞬間、ロイはパッとハボックの手を掴む。ハッとして見上げてくる瞳を見つめてロイが言った。
「お前が欲しい、ハボック」
 咄嗟に零れた言葉に、言ったロイも言われたハボックも凍り付いてしまう。身動き出来ないまま、二人は大きく見開いた瞳で互いを見つめあったのだった。


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