| 菫青石の恋 〜 second season 〜 第八章 |
| 「マスタングさん、コーヒーどうぞ」 「ああ、ありがとう」 ロイは食後のコーヒーを受け取って礼を言う。互いの気持ちを打ち明けあったあの日以来、ロイはますます足繁くハボックのアパートを訪れるようになっていた。そうする間にも段々と知っていく相手の好みや癖が、ロイをして一層ハボックを好きにさせる。コーヒーを手に立ち上がったロイは、テーブルを挟んで車椅子に座るハボックに歩み寄るとその頬に口づけた。ピクリと震えて首を竦めるハボックから離れて、ロイは棚の上に置かれた写真立てを手にとって言った。 「これはお前の祖父母の写真だったな」 ロイが手にした写真には十二歳くらいのハボックと年老いた夫婦が写っている。優しい笑みを浮かべて車椅子の少年に寄り添う老夫婦は、まるでハボックを何かから守ろうとしているようにも見えた。 「そうっス。オレのおじいちゃんとおばあちゃん。二人ともとっても優しかった」 ハボックは懐かしそうに言って目を瞑る。ロイは写真を棚に戻しながら言った。 「ご両親は亡くなったと聞いたが他に親戚はいないのか?」 「おばあちゃんのお姉さんって人がいたらしいっスけど、多分もう亡くなったんじゃないかな。おばあちゃんが生きてた頃にも連絡とってるの見たことないし」 ハボックは思い出すようにしながら言う。 「おばあちゃんが亡くなったときは本当に悲しかった。これでもう独りぼっちになっちゃったって。弁護士さんが色々面倒見てくれて生きていくのに困るような事にはならなかったっスけど、もう誰もオレの傍にはいないんだって」 「ハボック」 コーヒーのカップを見つめながらそんな事を言うハボックにロイは切なくなる。カップを置いたロイが手を伸ばしてハボックの頬を撫でればハボックがほわりと笑った。 「でも、もう寂しくないっス」 そう言ってハボックはロイの手を握る。 「……寂しくないけど、でもこんなの夢かもしれないとも思うっス。本当はオレ、窓辺でアンタのこと眺めながらうつらうつら夢と現の狭間を漂ってるだけじゃないのかって。目が覚めたらアンタのこの手はなくって一人きりで窓から外を眺めてるだけなのかも」 「馬鹿なことを…ッ」 ロイは吐き捨てるように言ってハボックの体を掻き抱いた。ハボックの顔を正面から見つめて言う。 「私はここにいる、ハボック。たとえ何があってもこの手を離したりしない」 「マスタングさん……」 車椅子の前に膝をついて、ロイはハボックの腕を掴んで言った。 「身を寄せる親戚がいないなら私のところに来ないか?ハボック」 「え?」 突然そんな事を言われてハボックは目を瞠る。ロイは驚きに見開く空色を見つめて言った。 「ずっと考えていたんだ。お前がここで暮らすことに不自由を感じてないのは知ってる。こうして通ってくればいつだってお前と会える。それでももっともっと一緒にいたいんだ」 「マスタングさん……」 真摯な瞳で見つめてくるロイをハボックは見返す。だが、ゆっくりと首を振って言った。 「ありがとうございます、マスタングさん。でも、オレ、ここにいます」 「ハボック」 ゆるゆると首を振るハボックにロイは落胆のため息をつく。それからハボックをそっと抱き締めて言った。 「判った。今はお前の気持ちを尊重する。でも、いつかは一緒に暮らしたいと思っているから」 そう言うロイから身を離して、それから壁の時計に目を移してハボックが言う。 「マスタングさん、もう帰らないと。明日早いって言ってたっしょ?」 そう言われてロイは肺の中の空気を全部吐き出すような大きなため息をついた。 「これが嫌なんだ。本当はもっともっと一緒にいたいのに」 「マスタングさん」 子供のように唇を突き出して言うロイにハボックが苦笑する。その顔を見つめてロイは少し残念そうに言った。 「お前の気持ちを疑う訳ではないが、もっと私を欲しがってくれたらいいのにと思うよ、ハボック」 「………ごめんなさい」 「責めてるわけじゃない」 一瞬目を見開いて、それからすまなそうに俯くハボックにロイは笑う。 「また来る」 ロイはそう言ってハボックの唇にチュッと口づけて言った。 「送らなくていい。鍵は閉めるから」 「はい、おやすみなさい、マスタングさん」 「おやすみ、ハボック」 なんやかやと理由をつけて最後には強請り倒してハボックから貰った合い鍵を手にロイが言う。名残惜しそうにもう一度ハボックの頬に触れて、ロイは帰っていった。 カチャリと鍵がかかり靴音が遠ざかっていくと、一人になったハボックはホッとため息をついた。テーブルに置かれたロイの飲み止しのコーヒーを手にとってそっと口をつける。そうすれば溢れそうになる涙をハボックは手の甲で乱暴に拭った。 ロイのことは好きだ。彼から向けられる愛情は素直に嬉しいと思うし、彼と同じように自分だってもっと一緒にいられたらと思う。だが、それと同じ強さでハボックはロイから距離を置きたいと思っていた。縋りついたら最後、自分一人では立っていられなくなる気がして、ハボックには何よりそれが怖かった。ロイの愛情を疑うわけではなかったが、ハボックはこんな幸せは長くは続かないだろうと思っていた。たとえロイの気持ちが変わらずとも、彼が未来へと進む為にいつか必ず自分の存在が重荷になる時がくるだろう。その時には笑って離れられるよう、少しでも距離をとっておきたいのだ。 (それに、オレ……) ハボックがロイと距離をおきたい理由はもう一つあった。ロイに好きだと告げられたあの日、川に落ちて冷えきった体を温めるために一緒にシャワーを浴びた。それは単に一刻も早く体を温める事が目的だっただけだ。だが、ハボックには互いに一糸纏わぬ状態でいることが怖くてたまらなかったのだ。それ以来、ロイに触れられると時折不意にその恐怖が蘇ってハボックはそれを押さえ込むのに必死だった。 (変なの……オレはマスタングさんが好きなのに、そのマスタングさんが怖いなんて……) ハボックはカップを握り締めて、理由の判らない恐怖を必死に封じ込めようとしたのだった。 「どうしたんです、大佐。ため息なんてついて」 書類にサインを貰おうと執務室に入ってきたブレダは椅子の背に体を預けてため息を零すロイに向かって言う。ロイはブレダの書類を受け取りながら言った。 「ハボックの事を考えてたんだ」 「ああ、あのアパートの」 書類に目を通してサインをしたためるロイを見おろしてブレダが言う。 「通ってるんでしょう、進展あったんですか?」 菓子にかこつけてハボックが住むアパートが見える洋菓子店に通っていたロイが、熱を出したハボックを助けたとき一緒にいたのはブレダだ。その後、ロイはハボックへの気持ちを隠そうとはしなかったから、今ではロイの部下達は皆ロイの気持ちを知っていた。 「まあ、一応な」 「えっ、マジですかっ?さすが大佐、女性だけじゃなく相手が男でもタラシの腕は健在ですねっ」 「どういう意味だ、それは」 失礼な言葉を吐き出して驚くブレダを睨んでロイが言う。書類をブレダに突き返して言った。 「気持ちを打ち明けあってキスをしただけだ。それ以上は何もないぞ」 「へぇ、電光石火の大佐にしては珍しい」 そんな風に言えばロイの瞳が剣呑な光を帯びる。ブレダは苦笑して両手を上げると言った。 「でも、両想いになったんならよかったですね、おめでとうございます」 そう言われてロイはムゥと黙り込む。なにやらすっきりしない表情のロイにブレダが聞いた。 「両想いになったのに、何か問題でもあるんですか?」 「具体的にどう、という訳じゃないんだが」 ハボックも自分のことを好いていてくれるのは間違いない。だが、時折彼の空色の瞳に浮かぶ怯えた色はなんなのだろう。 「まあ、焦っても仕方ないんじゃないですか。たまにはのんびり悩む恋もいいですよ、大佐」 「……アドバイスをありがとう、少尉」 「俺なんてそんな恋愛ばっかりですから」 ブレダはそう言って苦笑すると書類を手に執務室を出ていく。ロイはパタンと閉まった扉を見つめてもう一度ため息をついた。 「焦っても仕方ない事はよく判っているんだがな」 それでも自分はハボックが欲しい。こんな十代の子供のような激しい欲望が自分の中にある事がロイには信じられなかった。だがそれも相手がハボック故だと思えば納得もいく。これほどまでに惹かれた相手はハボックが初めてで、そして最後だろうとロイには思えた。 「ハボック……」 ロイは愛しい相手の名を呟いて、窓の向こうに広がる空を見上げた。 |
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