菫青石の恋 〜 second season 〜  第七章


 合わせた唇を離して見つめれば、ハボックはどうしていいのか判らないというように視線をさまよわせる。その様子にクスリと笑って更に口づけようとしたロイは、ブルッと体を震わせたハボックが「クシャン、クシャンッ」とくしゃみを連発するのを見て慌てて言った。
「そう言えば二人ともずぶ濡れだったな。このままじゃ風邪をひいてしまう。急いで家に戻ろう」
 ロイはそう言って名残惜しげにハボックにチュッと口づけるとハンドルを握る。ハボックはホッと息を吐いてシートに身を預けた。今度は法定速度に乗っ取ったスピードで走った車はやがてアパートにたどり着く。ロイは車を止めて下りると助手席に回りハボックを抱き上げた。
「マ、マスタングさんっ、車椅子ッ」
「この方が早い」
 そう言ってロイは車椅子を使わずにハボックを抱き抱えたままアパートに入っていく。
「な……っ、ヤダっ、恥ずかしいっス!下ろしてッ」
 真っ赤になったハボックがそう叫べば、ロイが腕の中の空色の瞳を見つめてニヤリと笑った。
「そんな大声を出して、“見てください”と言っているようなものだぞ」
「なっ…ッッ」
 私は構わないが、とシレッとして言うロイに、ワナワナと唇を震わせたハボックはハッとして隠れるようにロイの胸に顔を埋める。色白の肌が耳まで真っ赤になっているのを見て、ロイはクスリと笑った。
「ついたぞ」
 鍵を開けて中へ入ったロイはハボックをソファーに下ろして言う。ホッとして息を吐き出すハボックをそのままにロイは、湯船に湯を張る準備をしてから車椅子を取りに行った。戻ってくるとソファーに座るハボックの顔を覗き込んで言う。
「今湯を張ってる。体を洗ってるうちに沸くだろうから、私が洗ってやろう」
「え?」
 ロイの言っている意味が一瞬判らずポカンとしてロイを見上げたハボックは、ひょいと抱き上げられて思わずロイにしがみつく。そのまま浴室へ連れてこられて漸く言葉の意味を理解して、猛然と暴れ出した。
「いいっ、いいっス!風呂ならオレ、自分で何とか出来るっスから!時間かかるけどシャワーでなんとかっ!」
「なに言ってる。すっかり冷えきってるんだ、心からあったまらないとまた熱を出すぞ」
 ロイはそう言いながらハボックの体を浴室の椅子の上に下ろす。そうしてさっさと服を脱ぎ始めるロイを見て、ハボックは真っ赤になって叫んだ。
「マスタングさん、先に一人で入ってゆっくりあったまってくださいッ!オレは後から一人で入りますッ!いつも一人で何とかやってるからッ!!」
そ う言うなり転げ落ちるように椅子から身を投げ出すと、不自由な脚で床を蹴るようにして這って浴室を出ていこうとする。濡れたシャツを脱ぎ捨てて上半身裸になったロイは、ため息をついてハボックの体を引き戻した。
「ハボック」
「キャアアッ」
 突然腰を掴んで引き戻されて、ハボックの唇から悲鳴が上がる。思わず悲鳴の零れてしまった唇を押さえるハボックを、ロイは眉間に皺を寄せて見下ろして言った。
「あのなぁ、一人きりの時ならともかくせっかく私がいるんだ。私を頼った方が安全で早いし、しっかり温まれるだろう?」
「でもっ」
「でも、なんだ?」
「はっ、恥ずかしいいしッ」
 そう言って見上げてくるハボックの顔は真っ赤だ。それを見たロイはクッと笑って言った。
「男同士だろうが」
「だけど洗って貰うなんて嫌っス」
 そう言うハボックをロイはじっと見つめる。それから一つ息を吐いて言った。
「判った。なら洗うのはお前が自分でしなさい。その代わり湯船に浸かる時と風呂から上がる時は私に任せる。いいな?」
 ロイの言葉にハボックはおずおずと頷く。そうすれば引き起こそうと伸ばされるロイの腕に、だが、ハボックはギクリと大きく身を震わせた。逞しい半身を晒すロイをハボックは目を見開いて見つめる。
「ハボック?」
 そんなハボックの様子にロイは訝しげに名を呼んだ。
「どうかしたのか?」
 気遣うような声にハボックはハッとして数度瞬く。それからゆっくりと息を吐き出して言った。
「なんでも……なんでもないっス」
「そうか」
 ハボックの答えにロイは笑みを浮かべてハボックを椅子に座らせてやる。
「自分で脱げるか?」
 と聞けば、微かに頷いてハボックは濡れた服に手をかけた。
(なんだろう、今の)
 服を脱ぎ捨てたロイが近づいてきた途端、突然動悸が激しくなって息が出来なくなった。さっきまで感じていた恥ずかしいという気持ちとは違う、酷く不安で怯えた気持ち。
(変、なの……)
 すぐ傍でロイがまだ身につけていた服を全部脱ぎ捨てる気配がする。それだけで胸が苦しくなってハボックはギュッと唇を噛み締めた。
(好きだって言われたから……だからきっとドキドキして胸が苦しいんだ)
 ハボックはそう自分に言い聞かせると濡れた服を脱ぎ捨てシャワーに手を伸ばした。


 互いにシャワーを譲り合いながら手早く体を洗う。その間にもハボックは体の震えが酷くなるのを止めることができなかった。熱いシャワーを浴びて、もう体は冷えてなどいない。それなのに体は小刻みに震えてどうしても止めることもできなかった。
(どうしたんだろう、オレ……なんで、こんなに…)
 理由も判らず沸き上がる恐怖を必死に押さえ込みながらハボックは混乱してしまう。その時、ゆらりと傍らで立ち上がる気配がして、ハボックはギクリと身を強張らせた。
「ハボック、湯船に───」
「いいっス!もう出ます!」
 ハボックを湯船に入れて温めてやろうと腕を伸ばしたロイは、悲鳴のように叫ぶハボックの様子に目を丸くする。ハボックは自分の体を両腕で抱き締めるようにして小さく身を縮めて言った。
「もう、出たいっス。シャワーで十分っスから、お願い……もう出して…っ」
「………判った」
 明らかに様子のおかしいハボックに、ロイは頷くとサッと己の体に残る水分をふき取りバスローブを羽織る。それからハボックの体をタオルで包み込みそっと抱き上げた。微かに震えるハボックを寝室に運びベッドに腰掛けさせる。そうしてクローゼットから服を出すとハボックに渡してやった。
「服を借りてもいいか?」
「……どうぞ」
 ハボックの答えにシャツとズボンを取り出す。渡された服を抱き締めたまま俯いているハボックをチラリと見て、ロイは寝室を出た。
「……どうしたんだ、一体」
 風呂に入るまでは恥ずかしそうにしてはいたものの、おかしいところはなかった。だが、途中から酷く怯えたようになってしまったハボックの姿を思い浮かべて、ロイは首を傾げる。
「なにか怯えさせるような事をしたか?」
 正直好きな相手と一緒に風呂に入ることで興奮しなかったと言ったら嘘になる。努めてなんでもないような顔をしてはいたが、本当はドキドキしっぱなしだったのだ。すぐ隣でシャワーを浴びるハボックを盗み見て、その白い肌にむしゃぶりつきたい衝動を抑えるのに必死だった。今すぐ抱き締めて体中にキスを降らせたくて。だが、さすがに漸く気持ちを伝えたばかりの相手にそんな事をするのははばかられて、ロイは必死の思いで不埒な想いを抑え込んだのだ。
「いかんな、よっぽどイヤラシい顔でハボックを見ていたに違いない」
 ロイはそう言ってため息をつくと両手でパンパンと頬を叩いた。


 パタンと寝室の扉が閉まってハボックはホッと息を吐く。一体全体自分がどうしてしまったのか、全く判らない。ロイに触れてドキドキしたことはあっても怖いと思ったことなどなかったのに。
「好きって言われたから……臆病になってるのかな」
 好きだと告げられ俄には信じられなかったものの、最後には自分もロイを好きだと告げた。今までのような友人という関係ではなく、お互いに好意を持ち合う者同士という関係になって失うことを恐れるあまり「怖い」と思うようになってしまったのだろうか。
「判んないや……」
 ロイに会うまで誰かを好きになることも誰かに好意をもたれることも、経験がないどころか考えたこともなかった。ハボックは軽く首を振ると手にした服を身につけ始めた。


 ロイはミルクをわかしてホットココアを作る。カップに注いでテーブルに置くと寝室の扉を叩いた。
「ハボック?」
「はい」
 返事を聞いて寝室の扉を開ければ着替え終えたハボックがベッドに腰掛けている。ロイはちょっと迷って車椅子を持ってくるとハボックをベッドから移してやった。
「ありがとうございます」
 そう言って見上げてくるハボックはだいぶ落ち着いたように見える。さっきのは一体何だったのかと聞きたい気持ちを抑えて、ロイは車椅子をダイニングに移動させた。
「ココアを作ったんだ」
 そう言ってカップを差し出せばハボックがそれを受け取る。口に広がる甘さにホッと息を吐いてハボックは言った。
「あの…今日は色々と……すみませんでした」
 何をどう言ったらいいのか判らず、ハボックはそう口にする。俯いてココアを見つめるハボックをロイはじっと見つめて言った。
「謝る必要などないだろう?私の気持ちが伝えられてお前の気持ちが聞けて、私はとても嬉しかった」
「マスタングさん……」
 その言葉にハボックは顔を上げてロイを見る。揺れる空色の瞳を見つめてロイは言った。
「これからもここに来ていいんだろう?お前の事をもっともっと知りたい、私の事をもっともっと知って欲しい。一緒に色んなものを見て色んな事を感じたい」
 そう言ったロイはふと思い出して言葉を切る。
「そう言えばバスケットを置いてきてしまったな」
「あ、ごめんなさいっ」
 ロイの言葉にアッと思い出してハボックが謝罪を口にした。
「どうしてお前が謝るんだ?バスケットを置いてきたのは私だろう?」
 眉を寄せてそう言うとロイは苦笑する。
「あの時はお前に信じて欲しくて必死だった」
「オレは交通事故で死ぬかと思いました」
「必死だったと言ったろう?」
 ほんの少し責める口調でハボックが言うのにロイが眉を下げて言った。それからちょっと躊躇ってからハボックの頬に手を伸ばす。ハボックが逃げなかったことにホッとしながらロイは言った。
「好きだ、ハボック。ずっと傍にいてくれ」
 ロイはそう言って笑うとハボックの唇に己のそれをそっと重ねた。


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