菫青石の恋 〜 second season 〜  第四十二章


「どうしよう、母さんになにかあったら……」
 ソファーに座り込んだハボックは頭を抱えて呟く。救急車で運ばれるマリアに同行してロバートも病院へ行ってしまい、ひとり家に残されたハボックは不安に押し潰されてしまいそうだった。
「母さん……神様、母さんを助けて…っ」
 ハボックはそう言って必死に祈り続けた。


 そうしてどれくらい時間がたったろう。気がつけば部屋の中は薄闇に包まれていた。だが、灯りをつける気にもなれずハボックはソファーの上で膝を抱えて縮こまる。不安で不安で思わず叫び出しそうになったとき、ガチャガチャと鍵が開く音がしてハボックはソファーから飛び降りると玄関へと走っていった。
「母さんッ!」
 ハボックの声にロバートがハボックを見る。男が一人きりなのを見て、ハボックはロバートに飛びついて言った。
「母さんはっ?!」
 もしかして何かあったのだろうかと、真っ青になってハボックは叫ぶ。ロバートはそんなハボックを促してリビングにくるとハボックをソファーに腰掛けさせ、自分もその横に腰を下ろして言った。
「連絡が出来ずにすまなかった。検査やらなにやら時間がかかってしまってね」
「いいよっ、それより母さんは…ッ?!」
 泣き出しそうな顔で言う少年をロバートはじっと見つめる。すぐに口を開かずにいれば、ハボックはくしゃくしゃと顔を歪めた。
「ねぇっ、母さんの具合どうなのっ、ロバート!」
「落ち着きなさい、ジャン。そんなに興奮していたらきちんと話が出来ないだろう?」
 そう言われてハボックは目を瞠って男を見る。浅い呼吸を繰り返しながら、それでも必死に心を落ち着かせようとするハボックを見つめてロバートは言った。
「マリアは入院する事になった。このままだと流産の危険があるそうだ。下手をするとマリア自身、大変なことになりかねない」
「ッッ!!」
 男の言葉にハボックは息を飲む。空色の瞳を大きく見開いてガタガタと震えるハボックの肩をグッと掴んでロバートは続けた。
「大丈夫だ、ジャン。病院には先生もいるし、今はいい薬もある。ちょっと入院すればすぐ元気になるさ」
「ロバートっ」
「だから暫くは大変だが、二人で頑張ろうな」
「……うんっ」
 頷きながら流石に耐えきれずハボックはボロボロと泣き出してしまう。ロバートはハボックを引き寄せて抱き締めるとその耳元に囁いた。
「大丈夫、なにも心配する事はない。なにも、な」
「ロバートぉ…ッ」
 泣きじゃくりながらしがみついくる細い体を抱き締めて、ロバートはうっすらと笑った。


「ごめんなさいね、ジャン。心配かけて。色々大変でしょう?」
 翌日、ハボックはロバートに連れられてマリアの病室を訪ねた。ベッドに横たわったまま伸ばしてくる母の手をハボックはギュッと握り締める。
「ううん、オレなら平気だよ。ロバートもいるし。母さんは余計な心配しなくていいから、お医者さんの言うこと聞いて早く元気になって」
「ジャン」
 きっと不安でたまらないだろうに笑顔を浮かべて言うハボックの頬をマリアはそっと撫でる。その手に頬をすり付けるようにして目を閉じる少年をロバートはじっと見つめていたが、その肩に手を置いて言った。
「行こうか、ジャン。あまり長居するとマリアが疲れてしまう」
「あっ、うん……そうだね」
 男の言葉にハボックは慌てて頷く。それでも名残惜しそうに母の手を離せずにいればロバートがもう一度促した。
「ジャン」
「……うん」
「ごめんなさい、ロバート。迷惑かけて……」
 ベッドサイドに寄せた椅子から立ち上がる息子を目で追ったマリアはロバートに視線を移して言う。ロバートはハボックの肩を抱いて言った。
「そんなこと気にしなくていいから、医者の言うことを聞いて早く元気になってくれ」
「ええ……ジャンのことお願いします」
「勿論だとも。ジャンのことはなにも心配いらないよ、なにも、な」
「ありがとう、ボブ。貴方がいてくれて本当によかった。……ジャン、ボブの言うこと、よく聞いてね」
「うん、母さん」
 母の言葉に頷いて、ハボックはもう一度手を伸ばす。だが、その手がマリアのそれに届く前にロバートはハボックの体をグイと引き寄せた。
「それじゃあ帰るよ。仕事があるから毎日は来られんが」
「いいの、気にしないで。もう十分迷惑かけてるんだから」
 そう言うマリアに笑ってロバートはハボックを促した。
「母さん」
「ボブの言うこときいてね」
 あともう少しというように肩越しに母を振り向く少年の体を半ば強引にロバートは病室の外へと連れ出す。ハボックの体を引き寄せその顔を覗き込むようにして言った。
「マリアは今大事にしなくちゃいけない時なんだ。だから当分見舞いには来られない、疲れさせてしまうからね」
「ロバート」
「さ、帰るぞ」
「……母さん…っ」
 泣きそうな顔で病室を振り返るハボックの腕を掴んで、男は細い体を引きずるようにして病院を後にした。


「ただいま……」
 学校から帰ったハボックは自分で鍵を開けて中に入る。マリアが入院してからずっとそうしているように、今日もロバートの仕事部屋の前まで行くとそっとノックをして扉を開けずに声をかけた。
「ただいま、ロバート」
「おかえり、ジャン」
 中からそう声だけが返ってハボックはため息をつく。俯いたままその場に少しの間立ち尽くしていたハボックは、ギュッと手を握り締めて顔を上げると中に向かって声をかけた。
「ね、ロバート。母さんの見舞いに行っちゃだめ?ちょっと顔見たらすぐ帰ってくるから」
 そう言って少し待つが男の返事はない。ハボックは涙の滲む目を手の甲でこすると、とぼとぼと二階へと上がっていった。
「母さん……大丈夫かな」
 パタンと閉じた扉に背を預けてハボックは呟く。淋しさと不安で泣き出しそうになって、ハボックは鞄を放り出すとベッドに倒れ込む。
「母さん……っ」
 ハボックは震える声でそう呼ぶと枕をギュッと抱き締めた。


 男は書き物をしていたペンを置くと椅子の背に体を預ける。さっきの不安でいっぱいになった少年の声を思い出してにんまりと笑った。机の抽斗を開け奥から箱を取り出す。蓋を開ければ中には注射器と薬のアンプルが入っていた。アンプルのラベルを確かめ、男は蓋を閉めると箱を手に立ち上がる。部屋を出て階段を上がり、ハボックの部屋の前に立った。ノブを握り音がしないようそっと回す。そろそろと開いた部屋の中ではハボックが枕を抱き締めて眠っていた。ゆっくりと近づきロバートはハボックの顔を覗き込む。泣きながら眠ってしまったのだろう、白い頬には涙の跡が残っていた。男は箱を勉強机の上に置き中から注射器とアンプルを取り出す。アンプルの中身を注射器に吸い上げたロバートはハボックの体をグイと反して仰向きにすると、ズボンを引きずり下ろした。
「ん……な、に……?」
 眠りから引き戻された少年がむずかるように声を上げる。男はそれに答えず手にした注射器を少年の腿に突き立てた。
「あっ?!」
 チクリと走った痛みにハボックが目を見開く。ロバートはハボックの脚をしっかりと押さえて、注射器のピストンを押す。一息に薬剤を注入してしまうと、注射器を机の上に放った。
「……ロバート?」
 突然眠りから引き戻されて、ハボックは訳が判らず男を見上げた。その顔がいつもの見慣れた優しいものとはまるで違う事に気づいてハボックはゾッとする。ギラギラと光る瞳で見下ろしてくる男にゾロリと内股を撫でられてハボックは悲鳴を上げた。慌てて起き上がって逃げようとしたハボックは脚にまるで力が入らないことに気づく。
「な……っ、なんで……ッ?!」
 ベッドの上で逃れようとハボックはシーツを掴んでもがいたが、腰から下が重く熱を帯びて全く言うことを聞かなかった。
「無駄だよ、ジャン。薬を打ったからね、当分脚は動かない」
 必死にもがくハボックの耳に低い男の声が聞こえる。ギクリとして肩越しに振り向いたハボックにロバートはにんまりと笑った。
「邪魔者はいなくなった。ジャン、お前は私のものだ」
 言って伸びてくる男の手に、ハボックの唇から高い悲鳴が迸った。


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