菫青石の恋 〜 second season 〜  第四十一章


「おはよう、母さん」
「おはよう、ジャン」
 ハボックはダイニングに入ってくるとキッチンへ声をかける。マリアはロバートと結婚してからも暫くの間は事務の仕事を続けていたが、ここに来て漸く後任の女性への引継も終わり先週末に退職して今週からは家にいるようになっていた。
「ロバートはまだ寝てるの?」
「夕べ遅くまで仕事してたみたいだから」
 今朝はまだ起きてこない男がどうしているのかと尋ねればマリアが答える。ハボックはマリアが用意してくれたトーストを齧りながら言った。
「ロバート、前は大変でも起きてくれてたんだ」
「そうね、でも今日からは私がいるから」
 そう言って笑うマリアにハボックも“うん”と頷く。新しく父親が出来、母もこうして家にいるようになって、ハボックは嬉しくて仕方なかった。
「ごちそうさま!」
 ハボックは急いで朝食をかき込むと鞄を掴んで立ち上がる。玄関まで見送ってくれるマリアを見てハボックが言った。
「なんか変なの、母さんが送ってくれるなんて」
「いつも私の方が出かけるの早かったから」
「オレが帰ってくる時、母さん家にいる?」
 そう尋ねれば頷いてくれるのが嬉しい。ハボックはロバートが家に来たことでなにもかもが上手く行くようになった気がしてならなかった。
「ロバートが母さんと結婚してよかった」
 学校への道を元気に駆けていきながら、ハボックは心の底からそう思ったのだった。


「お帰りなさい、ジャン」
「ただいま、母さん!」
 玄関の呼び鈴を鳴らせばマリアが扉を開けてくれる。ハボックはにっこりと笑って帰宅の挨拶をすると、母と一緒に中へと歩きながら尋ねた。
「もうロバート起きてきた?」
「今何時だと思ってるの?もうとっくに起きてるわよ」
 幾ら前の晩が遅かったとはいえもう午後の三時を過ぎている。呆れたような母の言葉を聞きながらリビングに入ったハボックは、ソファーに座って新聞を読む男の姿を見つけて飛びつくように駆け寄った。
「ただいま、ロバート!」
「おかえり、ジャン」
「ねぇ、見て、ロバート。この間教えてもらった算数、百点とったんスよ!しかもクラスでオレだけ!」
「ほう」
 言って嬉しそうにテストを見せる少年にロバートは目を細める。テスト用紙を覗き込むようにしてさりげなく細い体を抱き締めてロバートは言った。
「凄いじゃないか、ジャン」
 耳元で言えばハボックの体がピクンと震える。ハボックは少し身を捩ってロバートの息がかからないように体を離して言った。
「ロバートの教え方が上手いから。先生より解りやすいっスもん」
「そうか、それはよかった」
 ロバートは言いながらハボックを抱き込む手を脚の方へと滑らせる。指先でそうとは判らないようにハーフパンツから覗くハボックの脚に触れながら言った。
「判らないことがあったらいつでも聞きにおいで、教えてやるから」
「ありがとう、ロバート!」
 ハボックはにっこりと笑いながら脚の位置を変える。そのままの姿勢で学校であった事を話しながら思った。
(ロバートってこうやってくっつくの、好きだよね。お父さんってみんなこんななのかな)
 マリアとはずっと二人きりだった事もあって仲がいいと思う。だが、その母とすらこんな風に接することはなくて、ハボックは男親というのはこういうものなのだろうと思うことで納得していた。
「二人とも、お茶の用意ができたわよ」
 その時、そう声がして振り向けば、湯気の上がるマグカップとクッキーの皿を載せたトレイを手にマリアが立っていた。ハボックは男の腕からすり抜けて急いで立ち上がると、トレイの上のものをテーブルに移すのを手伝おうと手を伸ばす。そのハボックからトレイを遠ざけてマリアが言った。
「先に手を洗っていらっしゃい。学校から帰ったままでしょう?」
「あ、そうだった」
 ロバートに報告したくて手洗いを忘れていた。リビングを飛び出し急いで手を洗ってハボックが戻ってくる。トレイの上のものをテーブルに移しているマリアを今度こそ手伝おうとすれば、マリアが突然手のひらで口元を覆って蹲った。
「母さん?どうしたの?」
「ごめんなさい、ちょっと……ッ」
 何事かと伸ばしたハボックの手をはねのけるようにしてマリアはリビングを飛び出していく。びっくりしたハボックが慌てて後を追えば、マリアは洗面所に飛び込んだ。
「母さんっ?」
 捻った水道の水が流れていくのと一緒にゲエゲエと胃の中のものを吐き出すマリアに、ハボックはギョッとして母の背をさする。ひとしきり吐いて落ち着いた様子の母の顔をハボックは不安にかられて覗き込んだ。
「母さん、大丈夫っ?母さんってば!」
 半ば呆然として鏡に映る己の顔を見つめる母に不安が募ってハボックは母の体を揺する。そうすればやっとそこにハボックがいることに気づいたように、マリアはハボックの顔を見つめた。
「母さん、大丈夫?」
 心配そうに見つめてくる空色をじっと見返したマリアはやがてポツリと言った。
「ジャン、私、赤ちゃんができたかもしれないわ」
「え……ええっ?」
 驚いてポカンとしてハボックはマリアを見つめる。その時浴室の扉のところからロバートの声が聞こえてハボックは慌てて振り返った。
「ロバート!母さんが……」
「子供ができたのか?マリア」
「まだ判らないけど…そうかも」
 男はハボックを押し退けるようにしてマリアの体を抱き抱える。心配そうに見上げてくるハボックにロバートが言った。
「ジャン、私はこれからマリアを病院に連れて行くから。一人で留守番できるな?」
「はい、ロバート……」
 不安ながらもコクコクと頷く少年の髪をくしゃりとかき混ぜるとロバートはマリアを連れて浴室を出ていく。玄関先で二人を見送れば少しして車の走り去る音が聞こえた。
「赤ちゃん……?」
 少年は事の成り行きがすぐには飲み込めず、呆然として立ち尽くしていたのだった。


「母さんってばまたそんなもん持って!オレがやるから母さんは休んでてよ!」
 洗濯物の篭をマリアの手から奪い取ってハボックが言う。よっこらせと篭を抱え直すハボックにマリアが苦笑して言った。
「少しは動いた方がいいのよ」
「なに言ってんのさ、ずっと調子悪いくせに」
 ピシリとそう言われてマリアは黙り込む。ロバートとの子を授かったと判ったときは家族三人大喜びしたが、その後マリアの調子はずっと優れなかった。
「でも、つわりはだいぶ治まってきたし」
「だからって無理しちゃダメ。ロバートだって言ってるっしょ?」
 顔色が悪いままにそんなことを言うマリアをハボックは睨む。しょんぼりとする母の顔を見て、ハボックは抱えた篭を置いてマリアの手をギュッと握った。
「大丈夫だよ、すぐ元気になるし、オレの事なら心配ないし」
「ジャン」
 にっこりと笑う息子をマリアはそっと抱き締める。ホッとため息をつきながら言った。
「ジャンを妊娠したときはこんな事全然なかったのよ。ほんとにお腹に赤ちゃんがいるのかって思われるくらい、元気に動き回ってたのに」
 医者に行っても体調が悪い原因ははっきりしなかった。元気のないマリアを見上げてハボックが言った。
「ゆっくり休んでれば元気になるよ、母さん。ロバートが元気が出るもの作ってくれるって、ね?」
「ジャン」
 夫にも息子にも迷惑をかけていると思うと心苦しい。ハボックは腕を伸ばして母の頭を引き寄せると頬にキスして言った。
「干してきちゃうね、母さんは休んでて!」
 ハボックはそう言うと篭を抱えて行ってしまう。その背を見送ってため息をついたマリアの耳にロバートの声が聞こえた。
「マリア、いつものジュースを作ったよ」
「ボブ」
 そう言われてマリアはダイニングへ行くと椅子に腰を下ろし男が差し出したグラスを受け取った。
「本当にごめんなさい、ボブ」
「仕方ないさ、頑張って元気な子供を産んでくれたらそれでいい」
「ボブ……」
 言って笑う男にマリアは顔を歪める。体調を整える為の特製ジュースだと言って毎日作ってくれるそれを飲もうと、グラスに口をつけるマリアにロバートが言った。
「私の方こそこんな事くらいしかしてやれなくてすまないな」
 そう言う男に首を振ってマリアはいつものようにジュースを飲む。目を細めて見つめる男の視線の先で、半分ほどを飲んだマリアは急激にこみ上げてきた痛みに、椅子の上で腹を抱えて身を丸めた。
「いた……急にお腹が…ッ」
「マリア?」
「赤ちゃんが…ッ」
 痛みにガクガクと震えるマリアの体にロバートが手を伸ばす。その時、ちょうど戻ってきたハボックにロバートが怒鳴った。
「ジャン、救急車を呼んでくれ!」
「な……母さんっ?」
「早くしろッ」
 驚愕に凍り付くハボックはロバートの声に弾かれたように電話に飛びつく。泣きそうに顔を歪めながら電話の相手に住所を告げる少年を見つめて、マリアの体を抱き抱えたロバートの唇がうっすらと微笑んだ。


→ 第四十二章
第四十章 ←