菫青石の恋 〜 second season 〜  第四章


 電話をして少ししてやってきた主治医に席を譲り、ロイは寝室の外で待つ。診察を終えて出てきた医者はロイ達を見て言った。
「心配ないよ、ただの風邪だね。ただこれから熱が上がると思うから誰か傍にいた方がいいんだが」
 その言葉にロイは管理人の男を見る。
「一緒に住んでいる人はいるのか?」
 そう尋ねれば男は首を振って答えた。
「いや、ハボックさんは一人暮らしですよ。でも、なんかあったときはうちで世話することになってますから。女房が面倒みますんで」
 大丈夫です、と笑う男にロイは安堵のため息をつく。処方箋を書いて医者が帰るのを管理人が見送るのを目の端で捉えながら、ロイは寝室へと入った。ベッドに歩み寄りそこに横たわる青年に手を伸ばす。金色に輝く髪に触れ、その顔を覗き込んだがその瞳は閉ざされて、ロイが惹かれた空色は見えなかった。
「……」
 ほんの少しがっかりするロイの耳にブレダの声が聞こえる。
「大佐っ、後は管理人の奥さんに任せて、俺たちも行きましょう!きっと中尉がカンカンになってますぜ」
「ああ、そうだな」
 ロイは答えてハボックの頬に触れる。名残惜しそうに何度か撫でると後の事は管理人に任せ、ブレダに続いて部屋を出た。急かされて車に乗り込めばブレダが勢いよくアクセルを踏み込む。瞬く間に遠くなるアパートをロイは肩越しに振り返って見つめた。
『オレは……ハボック、ジャン・ハボックっス……』
 そう答えて自分を見上げた空色の瞳が蘇る。
「ハボック、か……」
 漸く知り得た相手の名を、ロイは愛おしそうに呟いた。


「あら、目が覚めた?ハボックさん」
 パチリと目を開ければ元気のよい声が聞こえてハボックは視線を巡らせる。そうすれば管理人の女房のアンがハボックを覗き込んで言った。
「ハボックさん、熱だして倒れたんですよ、覚えてます?」
「熱…?」
「そう。いきなり軍人が飛び込んできて、ハボックさんの部屋を見せろって。あんまりしつこく言うから部屋を見に来たらハボックさんが倒れてて、びっくりしたのなんのって」
 覚えてない?と聞かれれば不意にハボックの脳裏に自分を覗き込む黒曜石の瞳が浮かんだ。
『私はロイ・マスタングだ。よかった、気がついて』
 そう言ってホッとしたように細められた瞳を思い出せばトクリと心臓がなる。ハボックは数度瞬くと、聞いた名前を繰り返した。
「マスタング……?どこかで聞いたような……」
 その時、グラスと水差しをトレイに載せて寝室に戻ってきたアンが言う。
「それにしてもあの軍人さんがマスタング大佐とは、驚きましたよねぇ。ああ、私が鍵を持って行けばよかった」
 感嘆のため息と共にアンが吐き出した名前にハボックは目を瞠った。
「ロイ・マスタング大佐……」
 その名ならハボックも知っていた。いや、このアメストリスで彼の名を知らない者はいないと言っていいくらいだろう。
「あの人がマスタング大佐……」
 ハボックは震える息と共にそう呟くと、そっと目を閉じた。


 食事を済ませたハボックは扉をノックする音に顔を上げて首を捻る。こんな時間に尋ねてくる人物など思いつかず、扉の前まで車椅子を移動させると外に向かって言った。
「はい?」
「こんな時間に申し訳ない。ロイ・マスタングと言いますが」
「えっ?」
 その声に驚いて扉を開けばロイがケーキの箱を持って立っている。ぽかんとして見上げてくるハボックにロイはにっこりと笑って言った。
「ちょうど近くまできたのでね。お見舞いがてら寄ってみたんだ」
 そう言うロイにハッと我に返ったハボックは、ロイを中へと通す。リビングへと入っていくロイの後からついていきながら言った。
「この間はありがとうございました。本当はお礼に伺わなくちゃって思ったんスけど、オレ、こんなだからなかなか行けなくて」
 すみません、と俯くハボックにロイは笑って手を伸ばす。
「気にすることはない。元気になったようで安心したよ」
 そう言って髪に触れてくるロイに、ハボックは困ったように首を竦めて答えた。
「はい、おかげさまで」
 ロイは手にした箱を掲げて見せると言った。
「そこの店でケーキを買ってきたんだ」
「あっ、今お茶淹れますねっ」
 慌ててキッチンへと車椅子を向けるハボックをロイは押しとどめる。
「場所を教えてくれれば私が淹れるよ」
「でもっ」
「勝手に弄られるのは嫌か?」
 そう聞かれてハボックは慌てて首を振った。ポットと茶葉の場所を指させば、ロイは手早くハーブティーを淹れてダイニングのテーブルにケーキと一緒に並べた。
「すみません、やらせてしまって」
「かまわない。私の方こそ急に押し掛けてしまってすまなかった」
 でも、と言ってロイは続ける。
「どうしても会いたかったんだ」
「え?」
 そんな事を言われてハボックは驚いたようにロイを見る。その空色の瞳をじっと見つめてロイは言った。
「あの窓からいつも外を見ていただろう?息抜きに菓子を買いに来た時、いつだったか気がついて……。それ以来何故だか気になって仕方なかったんだ。会ってみたくて菓子を口実に店に通ってはいつも窓を見上げてた。気がつかなかったか?」
「……すみません」
 ロイがあの店に通っていたのは知っていた。それどころかロイが店に来る時間を心待ちにしていたのだ。だが、まさかロイが店に通っていた理由がそんなところにあったのだとは思ってもみず、ハボックはどう答えたらいいのか困りきって俯いてしまった。そんなハボックをロイはじっと見つめていたがやがて口を開いた。
「また来てもいいだろうか?」
「えっ?」
 ロイの言葉にハボックが驚いて顔を上げる。
「迷惑でなければ、また来てもいいか?」
「迷惑なんて事は……」
 言って視線をさまよわせるハボックにロイは笑いかけた。
「じゃあ、また寄らせてもらう。ああ、ほら。せっかく買ってきたんだ、食べてくれ。私があの店で一番気に入っているやつなんだ」
 そう言って嬉しそうに笑うロイに、ハボックは小さく頷くとキュッと唇を噛んだ。


「こんばんは、ハボック」
 ノックの音に扉を開けばそこには笑顔も爽やかな二枚目が一人。
「マスタングさん」
 ハボックは困ったような笑みを浮かべながらもロイを中へと通した。
「今日は葡萄を持ってきたよ」
 ロイはそう言って手にした袋を掲げてみせる。車椅子を器用に操ってリビングへと戻ってきたハボックは言った。
「マスタングさん、食事は?」
「軽く済ませてきた。キッチン、借りるぞ」
 ロイはハボックの金髪を掻き混ぜて言う。そうして葡萄の袋を手にキッチンへと行き、手を洗うとボウルに水を張り葡萄を放り込んだ。手早く洗って皿に盛るとそれをもってリビングに戻ってくる。リビングのテーブルに皿を置けばハボックが言った。
「すみません、ダイニングでもいいっスか?そっちのテーブル、車椅子には低いんで」
「だが、こっちの方が寛げるだろう?」
「でも……って、ちょ…ッ、マスタングさんっ」
 困ったように言うハボックにロイはそう言うと車椅子に近づく。そうして軽々とハボックを抱き上げてしまった。
「ヤッ、やだ…ッ、下ろしてくださいッ!」
 頬を赤らめてもがくハボックの体をロイはソファーにそっと下ろす。小さなペアソファーに座るハボックの隣に並んで座ると言った。
「下ろしたぞ。ほら、葡萄だ」
 そう言って葡萄の皿を引き寄せる。ハボックは紅い顔でロイを見ていたが、ツイと目を逸らして言った。
「すみません、手間ばっかりかけて…」
「手間?何がだ?」
 ハボックの言うことが心底判らないと言うようにロイはキョトンとする。ハボックは、膝の上に置いた手をギュッと握って言った。
「マスタングさん、こんなしょっちゅう来たら大変っしょ?オレならもう大丈夫っスから。毎日じゃないけどヘルパーの人も来てくれるし、これまでもそうしてやってきたんだし」
 ハボックはそう言ってロイを見るとにっこりと笑ってみせる。そんなハボックをロイは不満げに見つめた。


 子供の頃の病気が元でハボックが歩くことが出来ないとロイが知ったのは何度目かにアパートを訪れた時だった。車椅子で生活するハボックは殆ど家にこもりきりで唯一の慰めは、窓から季節で移り変わる空を見上げ、通りを行き交う人々を眺める事だった。そうして通りを見下ろすハボックと、通りに面した洋菓子店に通うロイと、先に気づいたのはどちらだったのだろう。まるで運命が知らせたかのようにハボックの窮地にロイが駆けつけた事で、二人は出会う事が出来たのだ。


 それ以来ロイは仕事の帰りにハボックの家に訪ねてくるようになった。週に2、3度ヘルパーが来ていたからロイがハボックの為に何かしてやるというわけではなかったし、ロイが差し入れに持ってくるのは例の洋菓子店のケーキか果物が殆どだった。ロイがハボックのところに来るのは、ひとえに会いたいからという理由からに他ならなかった。


「私が来るのは迷惑か?」
「そんな事ないっス!」
 ロイの言葉をハボックは即座に否定する。だが、何も知らずにただ淡い恋心を抱いて見つめていた時と今では事情が違っていた。
(この人が焔の錬金術師だったなんて……)
 この若さで大佐位にあるロイをただ者ではないとは思っていたが、まさかイシュバールの英雄と呼ばれる男だとは思ってもみず、ハボックはあまりの立場の違いにすっかり気後れしてしまっていた。
 俯いて黙り込んでしまったハボックの横顔をロイはジッと見つめる。脚の上でギュッと握り締められた手にそっと手を重ねて言った。
「ハボック、明日一緒にピクニックに行かないか?」
「えっ?」
「車で小一時間ほど行ったところに公園があるんだ。明日は天気も良さそうだし、一緒にどうだろう」
 笑みを浮かべて言うロイをハボックは目を見開いて見つめていたが、やがて視線を落として首を振った。
「ありがとうございます。お気持ちだけ頂いておきます」
「ハボック」
「オレ、こんなでアンタと一緒に公園歩けるわけじゃないし、きっと一緒に行ってもつまらないだけっスよ」
「それはお前が?私はつまらないなどとは思わないが」
 そう言うロイをハボックは顔を上げて見つめる。泣きそうに揺れる空色の瞳を見つめ返してロイは笑みを浮かべた。
「明日9時に迎えに来る。出かける用意をして待っていてくれ」
 ロイはそう言ってハボックの髪をひと混ぜして立ち上がる。
「車椅子に移るか?」
 そう尋ねればハボックは首を振った。
「送れませんけど」
「構わないよ。それじゃあ明日9時に」
 ロイはそう言ってハボックの頬に触れて出て行く。パタンと扉が閉まる音を聞いたハボックは、ギュッと唇を噛んで手を握り締めた。


 翌朝。ノックに答えて扉を開いたハボックの姿を見て、ロイは目を見開いた。
「すんません、マスタングさん。オレ、やっぱり……」
 そう言って俯くハボックはまだ部屋着のままだ。ロイはそんなハボックをじっと見つめていたが、ハボックの脇をすり抜けて部屋の中に入っていってしまう。寝室に入ると勝手にクローゼットを開けて服を探し出した。
「マスタングさんっ」
 車椅子を動かしてハボックが慌てて入ってくる。選び出したシャツとズボンを手にロイはハボックに言った。
「今日はとてもいい天気だよ。外で食うサンドイッチはきっと旨い。一緒に行こう、ハボック」
 その言葉と共に差し出された服を、ハボックは躊躇った末に受け取る。
「リビングで待ってる」
 ロイはそう言ってハボックを残して出て行った。


「マスタングさん」
 少しして着替えを済ませたハボックが出てくる。ロイはにっこりと笑うとソファーから立ち上がった。
「よし、行こう」
 そう言って車椅子を押して部屋を出る。外に止めた車のところまで来ると助手席の扉を開け、ハボックを座らせた。車椅子を畳んで後部座席に積むとぐるりと回って運転席に腰を下ろす。ハボックの顔を見てにっこりと笑った。
「じゃあ出発だ」
 ロイはハンドルを握りアクセルを踏み込む。そうして二人は短いドライブへと走り出した。


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