菫青石の恋 〜 second season 〜  第三章


「すみません、こんな事になってしまって……。本当に代わりのヘルパーを寄越さないで大丈夫ですか?」
 わたわたと玄関先で帰り支度をしながらヘルパーが言う。見送るために玄関まで来ていたハボックはにっこりと笑って答えた。
「大丈夫。買い物はして貰ったし、多少汚れてても埃じゃ死なないから」
「今度来るときはピカピカに磨きますねっ」
「うん、ありがとう。ほら、早く行って行って。マリーが待ってるよ」
「はいっ、それじゃあ失礼します!」
 ヘルパーの女性は最後にそう叫んでお辞儀をすると玄関から飛び出していく。バタバタと遠ざかる音を聞きながらハボックは玄関の鍵を閉めた。
 今、イーストシティでは風邪が流行していた。いつもハボックのところに通ってくるヘルパーの女性も、保育所に預けている三歳の娘が高熱を出したので至急引き取りに来てほしいと連絡が入って慌てて帰っていったところだった。
「大したことないといいけど……」
 そう口にした途端、ハボックはゲホゲホと咳込む。ハボック自身夕べから酷い咳と頭痛が治まらないでいた。
「外に出たわけでもないのにどこからもらってくるかなぁ……」
 半ば自嘲気味に呟いてハボックはハアとため息をつく。なんだか体がゾクゾクしてハボックは自分の体を抱き締めながら時計を見た。時計の針が10時を回っていることに気づいてハッとして車椅子を回した。
「もう来る時間……、……ッッ!ゲホゲホッッ!!」
 ヒュッと息を吸い込んだ拍子に激しく咳込んでしまう。ぼうっと頭が霞んで、だがハボックは車椅子を動かす手を止めずに急いで窓辺へと向かおうとした。その時、ガッと戸棚の角に車椅子をぶつけ、そのまま側にあったラックの脚に車椅子の車輪を乗り上げてしまった。
「あ」
 僅かに傾いだ車椅子の上に棚に置いてあった置物が降ってくる。
「……ッ?!」
 驚いて思わず身を捩ったせいで車椅子の傾きが大きくなった。半ば朦朧としたハボックは普段ならなんと言うことなしに戻せるその傾きを戻すことが出来ずに床へと倒れ込んでしまった。
「ッッ!!」
 ダンッと大きな音と共に体が床に投げ出される。ハボックはあまりの痛みに身動き出来ないでいたが、やがて低く呻いて体を起こそうとした。
「……ぅ、ッツウ!」
 だが、力を入れた途端、走った痛みに再び床に突っ伏してしまう。ハボックは冷たい床に頬を預けたまま、家具の間から覗く窓を見上げた。早く起きあがらなければとは思うものの痛みに力が入らない。ハボックは持ち上げていた顔を床に戻してがっかりとため息をついた。
「だめだ、間に合わないや……」
 ハボックはそう呟いてしょんぼりと目を閉じる。ふと、このまま起きあがれなければ、次にヘルパーが来る三日後までこのままだという考えが頭を掠めた。
「ちょっと休めば平気……」
 そう呟いたハボックは、だがそのまま目を開けることが出来なかった。


「大佐!さっさと買ってきてください!」
「ああ」
 運転席から叫ぶブレダにロイはおざなりの返事をする。振り返って見上げた窓にはいつもの姿が見えなかった。
(いない……)
 せっかくホークアイをやり過ごして出てきたというのに肝心の青年の姿がなくて、ロイはがっかりと肩を落とす。
(どうしたんだろう、どこかに出かけてるのか?それともたまたま?)
 青年の姿に気づいてロイが通うようになってから、一度たりと彼があの窓辺にいなかった事はなかった。いつだって見上げればその空色の瞳で優しく街を、人々を、そしてロイをも見つめていたのだ。
(どうしたんだろう)
 偶然外しているだけかもしれない。ロイはそう思って店の中に入る。いつもの菓子を袋に詰めて貰って出てきたロイが、期待を込めてもう一度見上げた窓にはやはり青年の姿はなかった。
「…………」
 直接会えないまでも、来れば必ずその顔を見ることが出来た。だが、突然こうして顔すら見えなくなってしまうと、自分と彼との結びつきは何もないことにロイは気づいてしまう。落胆のため息をついて窓を見上げたロイは、何故だか首筋をチリチリと焼く痛みに眉を顰めた。
「なんだ……?」
 ロイがそう呟いた時、運転席からブレダが苛々と言う声がする。
「大佐!買ったんなら早く乗ってください!」
「ああ、判ってる」
 そう言って車に乗ろうとしたロイは、だが、パッと顔を上げるともう一度窓を見た。
「少尉、預かっておいてくれ!」
「えっ?ちょ……大佐っ?!」
 いきなり菓子の袋を押しつけられてブレダは目を丸くする。なんなんだと問いかけるブレダに答えず、ロイは通りを渡るとアパートへと走った。
「大佐っ!」
 袋を助手席に放り出してブレダが車から降りてくる。ロイがアパートに駆け込むのを見て慌てて後を追った。
「大佐!……いったいどうしたんだよっ」
 突然の事で何がなんだか判らない。アパートで何かあったかと見上げたが、三階建てのアパートはいつもと変わらず静かだった。
「……と、大佐、どうしたんですっ?」
 急いで後を追ってきたブレダがアパートの中に飛び込めばロイが管理人室の窓越しに話しているのが目に飛び込んでくる。問いかけながら走り寄ったブレダの耳に切羽詰まったロイの声が聞こえた。
「だから!部屋の鍵を貸して欲しいと言っている。二階の一番東よりの部屋だ!」
「いきなりそんな事を言われましても……」
 ロイの剣幕に怯えながらも管理人が言う。確かに突然飛び込んできた軍人に部屋の鍵を貸せと言われても、すぐさま「はい」と差し出せるものでもなかった。
「大佐、どうしたんですか、突然」
「姿が見えないんだ」
「え?」
 ロイの言っている意味が判らずブレダが聞き返す。そうすれば普段なら考えられないような苛々とした様子でロイが言った。
「いつもこの時間には必ず窓辺に座っていたのに、今日に限って姿が見えないんだ」
 ロイはそう言って窓の向こうの管理人にググッと顔を近づける。
「頼む。責任は全て私がとる。だから彼が無事かどうかだけ確かめさせてくれ」
 高圧的な態度に出るでなくそう言って必死に頼み込んでくる軍人に、管理人も折れざるを得なかった。一つため息をつくと壁に掛かっているマスターキーを取り上げる。立ち上がって一度姿を消すと、廊下に面した扉から出てきた。
「アンタが言っているのは多分このアパートの大家さんの部屋だね。階段をあがって右の突き当たりの部屋だ」
 管理人の男はそう言うと先に立って階段を上がっていく。ロイはのんびりとしたその足取りに苛々しながらついて上ると、男が突き当たりの部屋の鍵を開けるのを待った。男は一度部屋をノックして返事がない事に首を捻りながら鍵を鍵穴に差し込む。
「おかしいな、一人で出かける筈はないんだが」
 ぶつぶつとそう呟きながら管理人が扉を開けるや否や、ロイは男を押し退けるようにして部屋の中に飛び込んだ。玄関からの短い廊下を抜け、奥の部屋に入ろうとしたロイは床に横倒しになっている車椅子に目を瞠る。その向こうに倒れている人影に気づいて、車椅子を飛び越えるとその体を抱え起こした。
「おいっ、しっかりしろ、大丈夫かっ?!」
 そう叫んでロイは腕の中の白い顔を見つめる。蜂蜜色の髪に縁取られたその顔はいつも窓辺に座っていたあの青年のものに間違いなかったが、ロイが真っ先に惹かれた空色の瞳は閉じられたままだった。
「おいっ!」
「大佐っ」
 後から部屋に入ってきたブレダも心配そうにロイの腕の中の青年を見る。ロイは青年の額にそっと触れて眉を顰めた。
「酷い熱だ」
「熱?……おい、この近くに医者はいるか?彼がかかりつけの医者がいるなら尚いいんだが」
 ロイの言葉にブレダはおろおろと成り行きを見守っている管理人にそう声をかける。二人のやりとりを頭の隅で聞きながら青年の顔を見つめていたロイは金色の睫が震えたのにハッと目を見開いた。ロイの視線の先で青年はゆっくりと目を開く。そうすればあの空色が現れて、ロイはホッと息を吐いた。
「しっかりしろ、大丈夫か?」
「………アンタは……」
「私はロイ・マスタングだ。よかった、気がついて」
 ロイはそう言って青年の体を抱き上げる。ペアソファーにそっとその体を下ろして言った。
「もう大丈夫だ。今、医者を呼んだ。何も心配しないでいい」
「……アンタ、どうしてここに…?」
 不思議そうに見つめてくる空色の瞳にロイは苦笑する。その金髪を優しく撫でて言った。
「いつもあの窓辺に座ってただろう?私が洋菓子店に来るときは必ず。それなのに今日は姿が見えなかったから。何でもないのだろうとは思ったんだが、どうしても気になって無理を言って管理人に開けてもらったんだ。よかった、そのままにして帰ってしまわなくて…っ」
 ロイはそう言って顔を歪める。青年はロイの顔をじっと見つめていたが囁くように言った。
「……マスタング、さん?」
「そうだ。おまえの名は?」
「オレは……ハボック、ジャン・ハボックっス……」
 自分の名を呟く青年の頬にロイはそっと触れる。
「そうか……。もう大丈夫だ、ハボック」
 そう言って笑う黒い瞳にハボックはホッと息を吐くと意識を失った。


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