| 菫青石の恋 〜 second season 〜 第三十六章 |
| 「ああ、もうすぐ時間じゃん!どうしようっ」 ソファーに座っていたハボックは戸棚の上の時計を見て立ち上った。うろうろと落ち着かなげにリビングを歩き回り、戸棚のガラスに映る自分の姿を見ておかしなところがないかチェックする。今日、母親のマリアがハボックの新しい父親となる男を連れてくることになっていた。 ジャン・ハボックは三日前に十二になったばかりの少年だ。母親譲りの蜂蜜色の金髪と空色の瞳が印象的な子供で、すらりと伸びた手足としなやかな体つきは子鹿を思わせ、母親似の愛らしい顔と相まって学校でも男女を問わず人気があった。もっとも当の本人はそんな事など全く気づいておらず、飛んだり跳ねたりボール遊びや釣りに夢中な、初恋なんて言葉も知らないのではと思えるようなやんちゃな子供に過ぎなかった。だから正直なところびっくりしたのだ。三日前の誕生日、マリアから突然結婚を考えている相手がいると聞かされた時には。 『ロバートというの。とても優しい人なのよ』 母のマリアはそう言って恥ずかしそうに笑った。ハボックの父親はハボックが生まれてすぐ病気で他界していて、その後ずっとマリアは女手一人でハボックを育ててきた。母一人子一人、仲睦まじく暮らしてきた母に好きな相手がいると知ったときはちょっぴりショックではあった。だが、頬を染めて相手の事を話す母は少女のように可愛らしく幸せそうで、そんな様子を見ていれば駄々をこねて反対する気にもなれない。ハボックは会って貰えるかと心配そうに尋ねる母を見つめて言った。 『母さんはそのロバートって人が大好きなんだね』 『ええ、とても』 『ロバートと結婚してもオレの事も好きでいてくれる?』 そんな事を言う息子をマリアは目を見開いて見つめる。腕を伸ばして息子の細い体を抱き締めて言った。 『当たり前でしょうッ!……ロバートの事が好きよ。でもそれは好きの種類が一つ増えただけで、ジャンの事も大好き。今までもこれからもずっとずっとジャンが好きよ』 そう言って抱き締めてくる母親の腕の暖かさにハボックは微笑む。少し体を離してマリアの顔を見て言った。 『ならいいや。母さんが好きな人ならきっといい人だよね。それにオレ、父さんってどんな感じだろうって思ってたし』 ハボックが生まれてすぐ亡くなった父親の事をハボックは写真でしか知らない。友達が父親の話をするのをほんの少し羨ましいと思ったこともあったのだ。だから新しく父親が出来るという事は嫌だと思うより好奇心の方がずっと大きかった。 『いいよ、母さん。ロバートに会わせて。オレの新しい父さんになる人に』 『ありがとう、ジャン』 そんな会話を交わしたのが三日前。マリアとしてはもう少し時間をかけてゆっくりと話を進めるつもりだったが、相手の男がハボックがいいと言うなら一日でも早く会いたいと言ったこともあって、今日、ハボックはロバートと会うことになったのだった。 そわそわと落ち着かないハボックの耳に呼び鈴の音が飛び込んでくる。 「来たぁッ!!」 ピョンとソファーから飛び上がったハボックが玄関まで迎えに出ようかどうしようかと迷っている間に、足音と話し声が聞こえてリビングの扉がガチャリと開いた。 「ただいま、ジャン」 「おっ、おかえりなさいッ、母さんッ」 普段のやりとりさえ声が上擦ってひっくり返ってしまう。ハボックはマリアの後から入ってきた長身の男を目をまあるくして見上げた。 「ジャン、ロバートよ。ボブ、息子のジャン」 「はじめまして、ジャン。ロバート・ワイエスだよ。会えてとても嬉しい」 「あ……ジャン、です。はじめまして……」 差し出された手をおずおずと握り返せば握った手をグイと引かれる。あっと思った時にはハボックはロバートの胸に抱き締められていた。 「本当に会えて嬉しいよ。君のお母さんを盗ったって怒られるんじゃないかとずっと心配だったから」 「そ、そんなこと……」 厚い胸に抱き締められてハボックはドギマギしてしまう。そっとロバートを見上げれば利休色の瞳がハボックを見下ろしていて、ハボックは慌てて下を向いた。 「お茶を淹れるわ。座っていて」 「ああ、ありがとう」 マリアの声が聞こえてリビングから出ていく気配がする。それでも抱き締める腕を弛めず、優しくハボックの金髪を撫でるロバートにハボックは困ったように言った。 「あ、あの……」 そろそろ離してくれないだろうか。そう思ったものの“離せ”というのも悪い気がする。すっかり困りきってロバートの腕の中で身を強張らせていたハボックだったが、僅かに身じろげば抱き締めていた腕が弛む。漸くロバートの腕から抜け出してホッと息を吐いたものの、なんだか気恥ずかしくて顔を上げられずにいるハボックを、ロバートはじっと見つめていたのだった。 「荷物はこれだけなの?ボブ」 「ああ、殆ど服しかないからね。食器なんかはこっちにあるもの使わせて貰っていいんだろう?」 「ええ、勿論よ」 あれから一週間もしないうちにロバートとマリアは入籍し、ロバートはハボックとマリアが住む家に引っ越してきていた。新たに夫婦の寝室となった部屋に荷物を運び込んでいる二人を扉のところからそっと伺うハボックに気づいて、ロバートはニッと笑ってハボックに近づいてくる。ドキリとして見上げてくる空色を見つめてロバートは言った。 「改めてよろしく、ジャン。これからはマリアに相談出来ないような男の秘密は何でも私に打ち明けてくれ」 そう言って悪戯っぽく笑う男にハボックもホッとして笑い返す。 「まあ!男の秘密ってなによ、私を仲間外れにする気?」 それを聞いてむくれるマリアをまあまあと宥めながらロバートはハボックにウィンクしてみせた。それから少し考えて言った。 「私の事はロバートでもボブでも、好きなように呼んでくれたらいいよ、ジャン」 「あ、はい……ロバート」 そう言われてハボックはホッと息を吐く。正直なんと呼べばいいのか迷っていたのだ。ハボックが恥ずかしそうにそう呼べばロバートが満足そうに頷いた。 「よし、じゃあ今日の晩飯は家族になった記念に私が腕を振るおう」 「えっ、ロバートって料理出来るのっ?」 「多少はね。今の時代、男も料理くらい出来ないと駄目だぞ」 「オレ、スクランブルエッグくらいしか出来ないや」 「なら私が教えてやろう。マリア、キッチンいいかな?おいで、ジャン」 一応尋ねはしたものの、ろくに返事も聞かずにロバートは部屋を出ていってしまう。ハボックがチラリと母を見れば優しく頷くのに顔を輝かせて、ハボックはロバートを追って部屋を飛び出していった。 「……よかった、仲良くなれそうで」 そんな二人を見送って安心したように呟くと、マリアはロバートの服をクローゼットにしまっていった。 「母さん、ロバートって凄いよ。ジャガイモの皮なんてあっと言う間に剥いちゃうんだ。オレが一個剥く間に三個剥いちゃうんだもん」 慣れないナイフとハボックが格闘している間に、ロバートは次々と下拵えをすませてあっと言う間に用意を整えてしまったらしい。尊敬の眼差しで見つめてくる少年に笑い返してロバートは言った。 「あんなの慣れだよ。ジャンも練習すればすぐ上手くなる」 「そうかなぁ」 必死になって剥いたジャガイモは三割方量が減ったような気がする。首を傾げながら切り分けた肉を口に運んだハボックは目を輝かせて言った。 「美味しいっ!このお肉、すっごく美味しいっス!」 「気に入ってくれて嬉しいよ、ジャン」 「もう、母さん、料理しなくていいよ。ロバートに全部任せちゃえば?」 「まあっ」 正直な息子にマリアが声を上げる。そんな二人にロバートはクスクスと笑って言った。 「私はそれでもいいけどね。どうせ仕事は家でするし、もう少し事務の仕事は続けるんだろう?」 「ええ、人手が足りないからってすぐにやめるのは無理みたい」 ごめんなさい、と俯くマリアの手をロバートはキュッと握り締める。 「気にしないで。それに弟子がいるから大丈夫だよ」 な?と言って寄越すロバートに、ハボックはパッと顔を輝かせて頷いた。 「そうだよ、オレがロバートの手伝いするから大丈夫!」 そう言って笑いあう二人の顔をマリアは交互に見つめる。 「仲良くなってくれるのは嬉しいけど、私だけ仲間外れにされてるみたい」 ため息をつきながらそう言うマリアにロバートは笑うと握った手を持ち上げ甲に口づけた。 「そんな事ないさ、愛してるよ、マリア」 「ボブ」 優しく囁くロバートと頬を染めるマリアを見て、ハボックはわざとらしくカチャカチャと音を立てて肉を切る。 「もうっ、イチャイチャするのはオレのいないところでして!」 「やだ、ジャン。イチャイチャだなんてっ」 慌てるマリアとベェと舌を突き出してみせるハボックと、よく似た母子を見つめてロバートはうっすらと笑みを浮かべた。 |
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