| 菫青石の恋 〜 second season 〜 第三十五章 |
| 漸く開かれた扉をくぐればジェイコブが険しい顔をしてロイを迎え入れる。通されたリビングのソファーから一人の老婦人が立ち上がった。 「初めまして、マスタング大佐。私がサナ・ワイエスです」 そう言って優しく微笑む女性は真っ白な髪を結い上げ、ブラウスの肩に萌葱色のストールをかけている。サナは答えて名を名乗るロイを見つめて言った。 「もう何度となく来られたと聞きました。ごめんなさい、存じ上げなくて」 「私が奥様にお繋ぎする必要はないと判断したのです。奥様が悪いわけではありません」 すぐさま主人を庇うように口を挟むジェイコブをサナが窘める。サナは困ったように笑って言った。 「ジェイコブは過保護なのです。私のことをまるで娘のように扱うから困ってしまって」 ごめんなさい、ともう一度謝罪の言葉を口にして、サナはロイに座るよう促す。ロイがソファーに腰を下ろすのを見て、向かいに腰を下ろしたサナは尋ねた。 「ご用件を伺いましょう。マスタング大佐、あなたは何をしにここへ来られたのですか?」 「用件などもうお判りでしょう?ハボックに会わせていただきたい」 「会ってどうなさるおつもりです?」 「連れて帰ります」 きっぱりとそう言いきって見つめてくる黒い瞳をサナは見つめ返す。ロイの強い黒曜石の輝きを暫くの間受け止めていたサナは、やがて一つ瞬いて尋ねた。 「ジャンは貴方と会うことを望んでいないかもしれない。ここへ来る前、ジャンは貴方に何か話をしたのかしら?」 そう聞かれてロイは僅かに顔を歪める。愛していると告げた自分に残されたのはたった数行の短い手紙だけだった。 「いいえ、直接には。短い手紙を貰っただけです。後は彼の後見人の弁護士から話を聞きました」 ロイはそう言って少し迷ってから懐のナイフを取り出す。そのナイフにギクリとサナが身を強張らせるのを見つめながらロイは言った。 「ハボックが残していったナイフです。刃にに血が付いていました。ハボックが自分の事を“薄汚い人殺しだ”と言ったという話もききました」 「それを聞いていてナイフも見ていて、それでも尚貴方はジャンに会いたいと仰るの?ジャンを連れて帰ると?……何故そこまで?」 「彼を愛しているから」 躊躇う事なくきっぱりと言い切るロイにサナは目を瞠る。ロイは手を伸ばしてナイフを取るとそっと撫でながら言った。 「確かに私はまだハボックの事をよく知りません。でも、窓辺に佇む彼を初めて見たあの時から、私はずっとハボックが好きだった。あの空色を間近に見たい、あの空色に見つめられたいと想い続けていた。漸く知り合う事が出来て、もっとハボックを好きになった。好きで好きで、誰よりも大切でずっと傍にいて欲しいと、そう思っていたし今でもそう思っています」 切々と心の内を語るロイをサナはじっと見つめる。それから視線を落として言った。 「ジャンが車椅子で生活しなくてはいけなくなったのはロバートのせいです。ロバートがあの子から何もかも奪ってしまった」 サナは言ってストールをギュッと握り締める。辛そうに眉間に皺を寄せる老婦人をロイが急かすでなくじっと見つめていれば、やがてサナが口を開いた。 「ロバートの酷い仕打ちのせいでジャンは記憶をなくし歩くことが出来なくなりました。私はジャンがなくしてしまった記憶を取り戻した時、少しでもジャンの支えになれるようにと“最後の砦”となりました。そうなるように取りはからってくれたのは、ジャンの亡くなったおじいさまです」 そう告げるサナの言葉にロイはモーガンが言っていた遺書の事を思い出す。 「何故ハボックの祖父が貴方を庇護者として選んだのです?そもそもロバートというのは誰ですか?」 ハボックの祖父が遺言で遺してまでサナをハボックの保護者とした理由が判らない。そもそもの発端となったらしいロバートという人物の事も、まだ何も判らないままにロイが尋ねればサナはロイをじっと見つめて言った。 「マスタング大佐、私はジャンがとてもかわいい。出来る事ならあの子の事をずっとずっと見守っていきたい。でも、ご覧の通り私は高齢であの子の傍にいられるのはきっと後もう僅かでしょう」 「奥様ッ」 サナの言葉に傍らで二人の話を聞いていたジェイコブが目を剥く。サナはジェイコブの腕を宥めるように叩いて続けた。 「勿論私がいなくなっても、ジェイコブ達がジャンを守ってはくれるでしょう。でも、出来ることならあの子の傍にあの子を心から愛して支えてくれる誰かにいて欲しいのです」 そう聞いて、ロイは思わず腰を浮かしかける。だが、軽く首を振るサナにグッと唇を噛んで座り直した。 「貴方はまだ何も知らない。知らないでジャンを愛していると仰る。でも、私の話を聞いても同じ事が言えるかしら?」 サナは挑戦的にロイを見て続ける。 「ジャンは今、二階にいます。貴方がここに来ていることは知りません。貴方がこのまま黙って帰れば何も知らずに過ごしていくでしょう。その方がもしかしたらジャンの為なのかもしれない」 「私が貴方の話を聞けば、ハボックを迎えにいく権利が出来ますか?もしそうなら、話を聞かせてください」 知らないと責めるなら教えて欲しい。そう言えば僅かに迷う老婦人にロイは続けた。 「ハボックを愛している。私はどうしても彼が欲しい。ずっと誰のことも本気で愛することが出来なかった私がやっと巡り会った相手なんだ。私にハボックを迎えにいく権利をくださいッ、お願いしますッ!!」 ロイはそう言うなりソファーから降り床に額をこすりつける。あの焔の錬金術師と謳われる男の形振り構わぬ様子にサナは大きく目を見開く。呆然とロイを見つめていたサナは、やがてゆっくりと立ち上がるとロイに近づきその肩に手を載せた。 「頭を上げてください、マスタング大佐」 「ワイエスさん」 サナは見つめてくる黒曜石に微笑んでロイに座るよう促す。自分も並んで腰を下ろしてサナは言った。 「力ずくでだってジャンを連れ戻せたのに、貴方はずっとそうしなかった。今もこうして私に頭まで下げて……。それほどまでにジャンが大事?」 「はい、私の命より何より」 そう告げるロイにサナは笑みを深める。 「貴方にならジャンを任せていいのかもしれない。……マスタングさん、話を聞いて頂けますか?」 「勿論です」 頷くロイを見つめるサナの顔から笑みが消えた。サナは心を落ち着かせようとするかのように目を閉じる。それからゆっくりと目を開くと、サナの言葉を待っているロイを見つめて言った。 「あれは今から七年ほど前、ジャンが十二になったばかりの頃の事です。私の妹にはロバートという息子がおりました。この子がとんでもない男で、なまじ頭がいいばかりにろくでもない事ばっかりしでかして……、このロバートが突然結婚すると言い出した相手がジャンの母親のマリアでした。マリアはとても美しく聡明な女性で、夫を早くに亡くして女手一人でジャンを育ててきたと聞きました。マリアに出会ってからのロバートは人が変わったように真面目になって、これならきっと結婚したらジャンと三人幸せな家庭を築いてくれると思ったのです。でも、それが全ての悲劇の始まりだった」 サナはそう言って一度言葉を切ると、ゆっくりと七年前のことを話し出したのだった。 |
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