菫青石の恋 〜 second season 〜  第三十三章


 まだ人を訪ねるには早いと一旦車に戻ったものの、やはり待ちきれずにロイは屋敷の門の前に立つ。情報屋によれば古い屋敷に住むのは古くからの町の名士だという話だった。そんな相手がどうしてハボックを連れ去ったのか、ハボックとの繋がりは今の時点では判らなかったが、そんな事は後でいいとロイは大きく息を吐き出すと門の横に取り付けられた呼び鈴を鳴らした。
 耳を澄ませば家の奥でベルがなる音がする。少ししてインターフォンから男の声が聞こえた。
『はい、どちらさまでしょう』
 聞こえた声にこれがジェイコブだろうかと思いながらロイは口を開く。
「朝早くに申し訳ありません。私はロイ・マスタングと申します。そちらにジェイコブさんという方がいらっしゃいませんでしょうか?お話を伺いたいのですが」
 真っ先にハボックの事を尋ねたいと思いながらもロイは口に出してはそう言う。少しの間インターフォンからは何も聞こえてこず、ロイが切れてしまったのかと心配し始めた頃になって漸く男の声が聞こえた。
『ジェイコブは私です。ですが、お話する事は何もありません。どうぞお引き取り下さい』
「な…ッ、待ってくれっ、ハボックがそこにいるんだろうッ?話を…話をさせて欲しいんだッ!」
『どうぞお引き取り下さい、マスタングさま』
 その声を最後にブツッと音を立てて接続が切れてしまう。
「おいッ!」
 一瞬呆然としていたロイは、次の瞬間高い門扉をガシャッと音を立てて掴むと、グイと己の体を持ち上げ乗り越えてしまった。そのまま玄関へ向かって走ろうとすれば、屋敷の中からライフルを持った男が現れた。
「お引き取りくださいと言ったはずです。不法侵入で訴えますよ」
「ハボックと会わせてくれ、頼む」
「お引き取り下さい」
「ジェイコブ!」
 頑なに帰れと繰り返すジェイコブをロイは怒りに震えながら見つめる。ジェイコブはそんなロイに怯みもせずに言った。
「私を燃やしますか?マスタング大佐。ですが、私は例え燃やされたとしても貴方をここから先へは通しません」
 そう言い切るジェイコブにロイは目を見開く。
「ここは奥様がジャン様を守るための最後の砦です。何人たりと近づけるわけには参りません」
 そう言うジェイコブの悲壮なまでの決意を感じ取ってロイは息を飲んだ。
「……ハボックと会えないならその“最後の砦”だという女性に会わせてはもらえないか?頼む」
「お引き取り下さい」
 何を言ってもとりつく島のないジェイコブにロイは唇を噛み締める。力ずくで中に入るのは容易かったが、そうやってハボックと会ったところで何の解決にもならないだろう。むしろ話をこじらせる結果になりかねない。
「明日、もう一度来る。せめてハボックに私が来たと伝えてくれ」
 そう言っても何も答えてはくれないジェイコブに、ロイは深いため息をついて屋敷を後にしたのだった。


 ベルの音にジェイコブはハボックの部屋の扉をノックして中へと入っていく。ベッドの上にはもう着替えを済ませた青年が腰掛けて、ジェイコブが来るのを待っていた。
「おはよう、ジャック」
「おはようございます、ジャン様」
 にこやかに言って近づけば青年の空色の瞳が見上げてくる。その穏やかな色合いに目を細めるとジェイコブは言った。
「もう着替えも済ませてしまわれたのですか?呼んで下さればお手伝いしましたのに」
「夕べのうちに服、出してもらってたし。顔洗うの、手伝ってもらってもいい?」
「はい、ジャン様」
 何でも言いつけてくれと言ってあるにもかかわらず、相変わらず遠慮がちに言うハボックにジェイコブは優しく笑う。メイドに用意させた湯でハボックが朝の支度を整えるのを手伝うと、その細い体を車椅子へと移した。
「サナおばあちゃんはもう起きてるの?」
「はい、ジャン様が起きられたらご一緒にお食事をと仰られてます」
「わ、また待たせちゃった?」
「大丈夫ですよ」
 慌てるハボックを宥めてジェイコブは車椅子を押して部屋を出る。ダイニングルームへとハボックを連れていけば丁度サナが来たところだった。
「おはよう、ジャン」
「おはようございます、サナおばあちゃん。ごめんなさい、お待たせして」
「大丈夫よ、私も今起きたところだから」
 そう言ってにこやかに笑う老婦人にハボックはホッとして笑う。向かい合わせに席につけば楽しげに話しながら食事を始める二人をジェイコブは優しく見つめた。
『明日、もう一度来る。せめてハボックに私が来たと伝えてくれ』
(伝える必要はない。お二人にはお知らせない方がいいんだ。せっかくこうして穏やかに過ごしていらっしゃるのだから)
 脳裏に浮かぶ黒髪の男の姿を打ち消して、ジェイコブはそう思ったのだった。


「この町に宿はないだろうか?」
 今朝、電話を借りたパン屋の女性にロイは尋ねる。にべもなく追い返されはしたものの、ロイはこのまま引き下がるつもりは全くなかった。
(ハボックと一緒でなければ絶対に帰るものか)
 そう考えながら尋ねたロイに女性が答えた。
「ありますよ、この通りを少し行った先の右手に小さなホテルがあります」
 女性はそう言ってから躊躇いがちに続ける。
「町に滞在されるんですか?軍の方が来られるような問題が何かあるんでしょうか」
 軍服姿のロイにふと不安になったのだろう、そう尋ねる女性にロイは苦笑して答えた。
「いえ、滞在はごくプライベートな関係です。仕事が終わって直接来てしまったので着替える暇がなくて」
 ロイの答えに女性は安心したように笑う。確かにこの格好では人目を引いて仕方ないという事に気がついて、ロイはとりあえず数日分の着替えと身の回りのものを買おうと女性に店の場所を教えてもらい、パンを買って店を出た。まず最初に宿に部屋を取り車を駐車場に止めるとロイは買い物をするために町に出る。小さな町ではさして店の数も多くはなかったが、ロイは何軒か回って服と必要な雑貨を買ってホテルに戻った。着替えを済ませて買ってきたパンを齧る。狭いホテルの部屋でもそもそと食事をする間にも、浮かんでくるのはハボックの事ばかりだった。
「ハボック……ッ」
 ほんの目と鼻の先にハボックがいる。あそこなら力ずくで奪い返すのも訳ないだろう。例えジェイコブがライフルを持ち出したところで、そんなものは大した障害にもなりはしない。ロイは心の中で自分を急き立てるものを首を振って押さえ込むとため息をついた。
「駄目だ、そんな事をしたらハボックを取り戻すどころかなくしてしまう」
 ハボックとも“最後の砦”だという女性ともきちんと話をしなくては駄目なのだ。
 ロイは深いため息をついてあの屋敷に住んでいるという女性の事を考えた。情報屋の話に寄れば、あそこに住んでいるのはサナ・ワイエスという高齢の女性の筈だった。子供はなく夫も大分前になくしたサナは使用人達と共にあの家に住んでいるとの事だった。
「ジェイコブは彼女の執事か」
 ライフルを構えて立ちはだかったジェイコブの姿を思い出してロイは呟く。彼からは大切な女主人と新たに家に招いた青年を、全てのものから守り抜くという決意が感じられた。
「サナは一体何からハボックを守っているんだろう」
 失っていた過去を思い出した時、その過去からハボックを守る最後の砦だといって現れたサナ。自分を薄汚い人殺しだと言ったハボック。何も判らないままに目の前の扉を閉ざすような仕打ちにロイは俄に苛立ちを募らせる。
「サナの事が判れば何か判るんだろうか」
 このままじっとしている事も出来ず、ロイは立ち上がるとホテルを出て町の中へと出かけていった。


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