| 菫青石の恋 〜 second season 〜 第三十一章 |
| ワイエスという名を聞いた途端、目の前に浮かんだ男の姿にハボックはガタガタと震える。過呼吸を起こしてヒィヒィと喉を鳴らすハボックに、サナが慌てて立ち上がった。 「ジェイコブ!」 必死に空気を吸い込もうと浅い呼吸を繰り返すハボックの手をサナはギュッと握る。その間にジェイコブが棚の抽斗から紙袋を取り出して広げた。 「ジャンさま、これを口に当ててください!」 そう言いながらジェイコブは広げた紙袋をハボックの口元に当てる。空気が入るよう少し隙間を残すようにして更に言った。 「大丈夫です、落ち着いて。ゆっくり深く息をしてください。息が吸えなくなったりはしませんから。ゆっくり……大きく…」 ジェイコブに言われるままハボックは紙袋を当てたままなるべくゆっくりと息を吸う。そうすれば少しずつ呼吸が落ち着いてきて、ハボックの手を握り締めていたサナはホッと息をついた。 「……は…ふ、ぅ……」 ぐったりと車椅子に沈み込んだハボックからジェイコブがそっと紙袋を取る。サナはハボックの手をそっと撫でながら言った。 「ごめんなさい、ジャン。驚かせてしまって……」 言って覗き込んでくる深い翠の瞳にハボックはそっと首を振る。 「オレの方こそごめんなさい……ちょっと…びっくりして……」 もう聞くことのない名だと思っていた。ショックの大きさを伺わせる色をなくした顔に、サナは少し躊躇ってから言った。 「話をしても?今日はもうこれ以上話したくないというなら───」 「平気っス。……もう、逃げる訳にはいかないっスから」 そう言って見つめてくる空色の瞳にサナは胸が痛くなる。それでも微かに笑って頷くと、ジェイコブが並んで座れるよう近づけた椅子に腰を下ろして言った。 「私はロバートの伯母なの。私の妹がロバートの母親で、ロバートは……本当にどうしようもない子だった」 サナは甥の事を思い浮かべて顔を顰める。 「頭はよかったけれどむしろそれが仇(あだ)になった。問題ばかり起こしてそれを妹が必死に尻拭いして。子供の頃は仕方ないにしても大人になってもそうだから、もういい加減に放っておけと妹には随分言ったのだけど聞く耳持たなくて、ロバートの所行は酷くなる一方だった」 サナはそう言って深いため息を吐いた。 「それでも貴方のお母さま、マリアと出会ってあの子は変わった。優しく思いやりのある振る舞いをするようになって、妹も私もこれでやっと真っ当な人間になったと喜んでいたのよ。でも、それは全部嘘だった、自分の欲望を満たす為に仮面を被ってただけ。あの子は貴方とマリアにとんでもない事を……ッッ」 サナは呻くように言って撫でていたハボックの手をギュッと握り締める。ワナワナと全身を震わせる老婦人の背をジェイコブが労るように撫でた。 「どれだけ詫びたところで赦されない、あの子の犯した罪は決して償いきれない、私は一生かけて貴方たちに償い続けなければらないと思っていた。でも、具体的にどうしたらいいのか判らずにいた時、あなたのお祖父さまが私にチャンスをくださったの」 「おじいさんが?」 どう言うことなのだろうと尋ねるように見つめてくるハボックにサナは頷く。 「あの事件の記憶をなくしてしまった貴方が記憶を取り戻した時に、絶望のうちに心をなくしてしまわないよう最後の砦になって欲しいと私に託してくれた。貴方を引き取った時にはお祖父さまはもう病を患っておられて、長くは貴方を守れないと判っていたのでしょう。あの遺書を私に託してくださったの」 そう言われてハボックはジェイコブが持っていた遺書の事を思い出す。自分の身体のことより孫であるハボックの将来を何より案じてくれていたのであろう祖父を思って、ハボックは唇を噛み締めた。 「ジャン、貴方が記憶を取り戻したのがよかったのか悪かったのか、私には判らない。でも、こうして貴方に会えたのはお祖父さまが会わせてくれたのだと思う……勝手な言い分かもしれないけど」 サナは苦く笑ってハボックの手を握っていた手に力を込める。 「貴方にとってこんな申し出は迷惑なだけかもしれない。もしかしたら単に私の良心を宥めるためだけと思うかもしれない。でも、私は貴方を守りたい。過去からも未来からも貴方を傷つける全てのものから貴方を守りたいの、ジャン」 「………ッ」 そう言って真摯に見つめてくる瞳にハボックは息を飲む。暫くの間黙ったまま翠の瞳を見つめていたが、やがて視線を落とすとポツリと言った。 「オレ……初めて好きになった人がいました。凄く凄く好きで…一生一緒にいられたらいいなって。でも、昔のこと思い出して、その人は立派な人でこの国をしょって立つ事のできる人だから側にはいられなくて……」 「ジャン」 そんな風に言わせる原因がどこにあるかを思ってサナは顔を歪める。だが、ハボックは責める言葉を口にするどころか笑みを浮かべて言った。 「恨んでなんかいません。ロバートの事も貴方の事も……。でも、オレにはもう行くところがないんです」 ハボックはそう言ってサナを見つめる。 「オレ、ここにいてもいいっスか?」 「…ッ、ええ、勿論、勿論よ、ジャン」 サナは泣きそうに顔を歪めて腕を伸ばすとハボックの身体をギュッと抱き締めた。 「ありがとう、ジャン、ありがとう」 囁くように言って抱き締めてくる老婦人にハボックは恥ずかしそうに笑う。 「オレの方こそありがとうございます。えっと……サナ、おばあちゃん?」 そう呼べば老婦人は嬉しそうに笑った。 それから少し話をして、ハボックは部屋に戻る。車椅子を押すジェイコブを見上げてハボックは言った。 「ねぇ、この家にはサナおばあちゃんの他には誰か住んでいるの?」 「お身内が、という意味でしたらどなたもおられません。ジャン様だけです」 「旦那さんは?子供はいないんスか?」 何となく本人には聞けないでいたことをハボックはジェイコブに尋ねる。ジェイコブはハボックの身体をソファーに移してお茶の用意をしながら答えた。 「ご主人様は亡くなられました。お子さまはおられません」 「妹さんは?その、ロ、ロバートのお母さんの……」 聞かれてジェイコブはなにも言わずに首を振った。それがどういう意味なのかハボックが尋ねるより早くジェイコブが言う。 「奥様のお身内はジャン様だけです。奥様はずっとジャン様を見守ってこられた。いつかジャン様が助けの手を必要とされた時に、手を差し伸べるタイミングを逸してしまう事のないよう、陰ながらずっと見守ってこられたのです」 「サナおばあちゃんが……?」 目を見開いて呟くハボックのすぐ側にジェイコブは跪いた。 「奥様を拒まないで下さってありがとうございます、ジャン様。本当に、本当にありがとうございます」 「ジャック?」 突然そんな事を言い出すジェイコブをハボックは驚いて見つめる。ジェイコブはハボックの手を取ると額に押しつけて言った。 「奥様はずっとジャン様を見守る事だけを生き甲斐にされてきた。いつかジャン様を支える日がくるのを、“最後の砦”としての役目を果たす為だけにずっと生きてこられたのです。もし、あそこでジャンさまに拒まれていたら、奥様は……っ」 「ジャック……」 ジェイコブは額に押し当てていたハボックの手を掲げるようにしてハボックを見つめる。 「これからは私がジャン様の足となりましょう。奥様の為に奥様の分もジャン様の為に働きますから」 そんな風に言う男の瞳に女主人を誰よりも慈しむ色を見て取ってハボックは笑みを浮かべた。 「オレの方こそ、ありがとう、ジャック。オレ、こんなで色々迷惑かけちゃうっスけど、これからずっとよろしくね」 「はいっ、ジャン様!」 ジェイコブは心底嬉しそうに言って笑うと、立ち上がりお茶の支度を整えハボックのすぐ側にテーブルを引き寄せカップを置く。 「ありがとう、ジャック」 そう言って笑うとハボックはカップを取り上げた。温かい湯気を上げるカップに口を付けながら考える。 (ここにならオレ、いてもいいんだ……ここでなら…あの人の事想っていても……) そう思ってハボックはそっと目を閉じた。 |
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