菫青石の恋 〜 second season 〜  第三十章


 鳥がさえずる声にハボックはゆっくりと目を開ける。見慣れない天井をぼんやりと見上げていたが、ベッドの上に体を起こすと辺りを見回した。
「あれ…?オレどうして……」
 夕べはなかなか寝付けず、ちょっとうとうとしてはよく判らない夢に起こされるという感じだった。そのせいですっきりと目覚めず暫くぼうっとしていたハボックだったが、ハッとして慌てて辺りを見回した。
「そうだった、オレ……っ」
 “最後の砦”だと名乗った女性に指定されたレストランに行けば、現れたジェイコブという男に連れられて夕べ遅くこの屋敷についた。もう遅いからと女性には会えないままベッドに入ってしまった事を思い出したハボックは、枕元の時計を見てギョッとした。
「うそっ、もうこんな時間ッ?」
 時計の針は間もなく十一時を指そうとしている。普段なら七時にはきちんと起きているのにと、ハボックは慌ててベッドの周りを見回した。
「服……昨日着てた服、どこだろう」
 夕べ、ジェイコブが寝着に着替えさせてくれた時服はどうしただろう。思い出せず服も見当たらない状況で、ハボックは仕方なしにそのままの格好でベッドの端ににじり寄る。ベッドサイドに置かれた車椅子に手を伸ばすがギリギリのところで届かない。
「ん……あとちょっと…っ」
 そう呟いてもう少しだけベッドから身を乗り出す。次の瞬間グラリと体が傾いで、ハボックは伸ばしていた方の手とは反対の手でブランケットを掴んだ。落下を免れてホッと息を吐けば扉をノックする音が聞こえる。
「は、はいっ」
 ブランケットに掴まった不安定な状態で体を支えたまま答えれば扉が開く。入ってこようとしたジェイコブは、ブランケットに掴まって落ちそうな体を支えているハボックを見て目を丸くした。
「ジャンさまっ?」
「あ……おはようござ───うわッ?!」
 顔を上げて困ったように笑いながら言いかけた途端、ブランケットがずるずると動いてベッドから落ちそうになる。
「危ないッ!」
 落ちるとギュッと目を瞑れば、聞こえた声に続いて体を支える力強い腕を感じて、ハボックは恐る恐る目を開けた。
「あ……」
 ジェイコブが落ちそうになった己の体を受け止めてくれた事に気づいて、ハボックはホッと息を吐く。ジェイコブはハボックの体を抱き上げるとそっとベッドに座らせた。
「ありがとう、ジェイコブさん」
 そう礼を言えばジェイコブが眉を寄せる。
「“ジェイコブ”もしくは“ジャック”です、ジャン様」
「えっ、でも…っ」
「私は使用人なのですから“さん”づけで呼ぶ必要はありません。それからご用がおありの時はベルを鳴らしてください」
 ジェイコブはそう言って枕元に置いてあった小さなベルを取り上げてハボックに見せる。振って見せればチリンと優しい音色が響いた。
「でもオレ、自分の事は出来るだけ自分でしてきたし……あ、そうだ。オレの服、どこっスか?昨日着てた服、着替えようと思ったんスけど」
 二日続けて同じ服はどうかと思ったが、他に服など持ってきていない。ハボックの言葉にジェイコブは笑みを浮かべて答えた。
「昨日の服はクリーニングに出しました。ジャン様のお召し物はこちらで用意してあります」
 ジェイコブはそう言ってクローゼットに歩み寄る。カチャリと扉を開ければシャツやらズボンやらが吊されているのを見て、ハボックは目を丸くした。
「えっ?オレのお召し物って……で、でもオレっ」
 確かに屋敷にはやってきたが服を用意してもらう理由がない。慌てるハボックに構わず、ジェイコブはクローゼットから服を取り出すとベッドの上に置いた。
「お目覚めになったのでしたら着替えてしまいましょう。奥様がお待ちですから」
「あっ!!」
 ジェイコブの言葉にハボックは大きな声を上げる。拙いと言うように口元に手を当ててジェイコブを見上げた。
「オレ、こんな時間まで寝ちゃっててっ!どうしようっ!」
 ベッドから落ちそうになって、寝坊したことをすっかり失念していた。今日初めて会う相手なのに初っ端からこんな事でとオロオロとするハボックにジェイコブは優しく言った。
「大丈夫ですよ。お疲れだったのですから。自然と起きるまで起こさないようにと奥様が仰られたのです」
「ほ、ホントに?」
 不安そうに見上げてくる空色の瞳にジェイコブは頷く。ベルを取って大きく鳴らせば、すぐにメイドが熱い湯を張った桶を持ってきた。
「さあ、急いで支度をしてしまいましょう。お腹も空いたでしょう?」
 ジェイコブは言ってタオルを絞るとハボックの顔を拭く。ネグリジェに手をかけてボタンを外していくジェイコブを見上げて、ハボックは居心地悪そうに言った。
「あ、あのっ、オレ、自分で出来るっスから!時間はかかるけど、ホントに、その……」
 確かにヘルパーのメアリや管理人の女房のアン達の手を借りることはあっても、基本的に自分でやるようにしていたのだ。まるで子供のように着替えにまで手を出されて、ハボックはシャツを掴んで唇を噛んだ。
「これも私の仕事なのですが」
 ジェイコブは困ったように笑ってハボックを見る。上目遣いに見上げてくる空色の瞳に苦笑して言った。
「判りました。ジャン様がそうなさいたいと仰るのであればそうしましょう。ただし、本当に誰かの手が必要なときは遠慮なさらずに私なりメイドなりお呼び下さい。さっきのような事になったら大変ですから」
「……はい」
 ハボックはホッとしたように頷くとネグリジェを脱ぎシャツに腕を通す。ボタンをはめズボンに手を伸ばせばジェイコブが手を貸してくれた。
「……ありがと、ジャック」
 いつもより楽に着替えを済ますことが出来て、ハボックは素直に礼を言う。それに微笑んで答えるとジェイコブはハボックを抱き上げ車椅子に移した。
「さあ、参りましょう。奥様がお待ちです」
「…うん」
 不安を押し隠してハボックが頷く。ジェイコブはそんなハボックに優しい笑みを浮かべると車椅子を押して部屋を出た。


 ジェイコブは廊下に出ると二つ隣の部屋にハボックを連れていく。扉をノックし、中に向かって声をかけた。
「奥様、ジャン様をお連れしました」
 ジェイコブはそう言って扉を開ける。ゆっくりと中へ入れば窓際に置かれた椅子に老婦人が腰掛けていた。
「ジャン」
 目を見開いて見つめてくるハボックに、老婦人は顔を歪めて立ち上がる。ハボックの手をギュッと握るとハボックをじっと見つめた。
「あの……貴方がオレの“最後の砦”……?」
 あまりにじっと見つめられてハボックは困りきって俯いてしまう。チラリと上目遣いに見上げて尋ねるハボックに、老婦人はハッとしたように目を見開いた。
「ごめんなさい、つい」
 老婦人は申し訳なさそうに笑うとハボックの手を離す。ジェイコブが近くに寄せた椅子に腰を下ろして言った。
「来てくれて嬉しいわ、ジャン」
 そう言って見つめてくる老婦人をハボックは見返す。一瞬悩むように口を閉ざした老婦人は、だが、口を開いて言った。
「私の名はサナ。サナ・ワイエスよ」
 その名を聞いた瞬間、ハボックの瞳が大きく見開かれる。車椅子に背を貼り付けるようにして浅い呼吸を繰り返しながらガタガタと震えた。
「ワ…ワイエス…?ワイエスって……ロバートの…ッッ」
 悲鳴のような上擦った声がハボックの唇から零れた。


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