菫青石の恋 〜 second season 〜  第二十七章


「何故……?どういうことだ、ハボック……」
 ロイは呟いて指輪を握り締める。そうすれば恥ずかしそうにしながらもにっこりと笑ったハボックの姿が頭に浮かんだ。
『マスタングさん』
 不自由な身を気にして、なかなかロイの気持ちを受け入れようとはしなかったハボックだったが、それでも最後には指輪を受け取ってくれた。ロイがイーストシティに戻ったらすぐにも一緒に新しい生活を始める筈だったのに。
 ロイは手にした手紙に視線を戻す。あまりに短い別れを告げる手紙からは、何故ロイの前から逃げるように消えてしまわなければならないのか、その理由は全く判らなかった。
「こんな……こんな手紙で納得出来る筈がないだろう…ッ」
 ロイは呻くように言うと手紙と指輪をポケットにねじ込み部屋を出る。階段を駆け降りると管理人室の窓を叩いた。
ガラスを割ってしまいそうな勢いに管理人の男が慌てて顔を出す。叩いているのがロイだと判って驚きに目を丸くした。
「マスタング大佐?どうかしましたか?」
「ハボックはどこだ?どこに行ったか聞いていないかッ?」
 ロイが足繁くハボックのところへ通ってくるようになって、時折言葉を交わすようになっていた。だが、何時の時もロイはにこやかで紳士的で、こんな風に取り乱していたのは最初にハボックの部屋の様子を見させて欲しいと言って飛び込んできた時だけだった。
「え?ハボックさん、いないんですか?」
「いない。夕べから連絡がとれない」
「夕べから?でも、ハボックさん、一人で外出なんて出来ないですよ?」
 ハボックの部屋は二階だったから、エレベーターのないこのアパートでは自力で外出するなど不可能だった。まさか自分に敵対する何者かがハボックの存在を知って無理矢理連れ去ったのだろうか。
 その可能性に思い至ったロイが真っ青になってアパートを飛び出そうとした時、部屋の奥からアンが顔を出して言った。
「ハボックさんなら夕べモーガンさんと出かけたみたいだけど」
「モーガンさんと?」
 管理人の女房のアンはロイを見て頭を下げると管理人の言葉に頷く。
「はっきり見た訳じゃないけど、昨日買い物から帰ってきたら丁度モーガンさんの車が走り去るところだったんですよ。もしいないならモーガンさんと出かけたあと帰ってきてないんじゃないかしら」
「モーガンというのは?」
 ロイが尋ねれば管理人が答えた。
「ハボックさんの後見人の弁護士さんです。確か三番街でお仲間と二人で弁護士事務所を開いてる筈です」
「三番街だな、ありがとう」
 ロイは礼もそこそこにアパートを飛び出していく。全速力で目指す通りまで駆けていくと、モーガンの弁護士事務所を探した。
「あれか」
 きょろきょろと辺りを見回していれば“モリス&モーガン弁護士事務所”と書かれた看板が目に入る。ロイはガラスの扉の取っ手を掴むと乱暴に開けようとしてガチッと鍵のかかった音に思い切り舌打ちした。
「営業前か」
 懐から懐中時計を取り出し時間を確認する。確かに店を開けるには些か早い時間で、ロイは苛々としながらガラス越しに中を覗き込んだ。その時。
「あの、うちの事務所にご用ですか?」
 そう聞こえた声にロイは慌てて振り向く。訝しそうに自分を見つめる男を見返して、ロイは尋ねた。
「貴方がモーガン?」
 聞かれて男は首を振る。
「いや、私はモリスです。モーガンなら……今日は少し遅れるかと思いますが」
 モリスはそう言って事務所の鍵を開けた。ロイを中へと促しながら尋ねる。
「どういったご用件でしょう。私で判る事でしたら伺いますよ」
「ジャン・ハボックの事だ。夕べモーガン氏がハボックをアパートから連れ出したと聞いたんだが」
 どこにいるのか教えてくれ、と切羽詰まった様子で言うロイをモリスはしげしげと見つめた。
「ああ、どこかで見たことがあると思ったら!マスタング大佐ですね、焔の錬金術師の」
 新聞に載っているのを見たことがある。だが、本人が来るとは思ってもみなかったからすぐには判らなかったのだ。
「すみません、名乗るのが遅れて。ロイ・マスタングと申します。今すぐモーガン氏と……ハボックと会いたいんだが」
 モリスの言葉に名乗っていなかった事に気づいたロイが、改めて言って手を差し出す。モリスは差し出された手を握り返して答えた。
「ウィリアム・モリスです。モーガンと一緒に弁護士事務所やってます。お噂は予々」
 華やかな経歴を誇る若き錬金術師の噂はいいもの、悪いものを問わずイーストシティの人々の関心事の一つだ。だが、ロイはそんなモリスの言葉には構わずに言った。
「二人はどこです?遅れるというのはどこかに出かけているという意味ですか?」
 そう聞かれてモリスは困ったように口を噤む。だが、問いかけるロイの視線にため息をついて言った。
「モーガンは家にいる筈です。夕べ色々あって……したたかに飲んでましたからまだ寝てるんじゃないかな」
「色々って……何があったんですッ?ハボックに何かッ?!」
 ロイは咄嗟に手を伸ばすとモリスの胸倉を掴む。グイと捻り上げるように締め付けられて、モリスは顔を歪めてロイの腕を叩いた。
「マ…マスタング大佐っ」
 悲鳴のような声にロイはハッとして手を離す。「すまない」と呟くロイにゲホゲホと席をしたモリスは息を整えて言った。
「私が話すよりモーガンから直接聞いた方がいいでしょう───これが住所です」
モ リスはそう言って住所を走り書きしたメモをロイに差し出す。ロイは紙面に目を落として受け取るとギュッと拳を握り締めた。
「ありがとう。騒がせてすまなかった」
「モーガンには電話を入れておきます!」
 飛び出していくロイの背にモリスが叫ぶ。ハッとして振り向けば手を振って笑うモリスに、ロイは軽く手を挙げるとメモに記された住所目指して走っていった。


「──ン様、……ジャン様」
 車の振動に身を任せてうつらうつらしていたハボックは、聞こえてきた声に続いて軽く肩を揺すられてうっすらと目を開ける。肩を揺する手の方を見れば心配そうに見つめる男に気づいて、ハボックは目を瞬かせた。
「申し訳ありません、着きましたので」
 そう言われてハボックはハッとしてシートに凭れていた体を起こす。カァッと顔を赤らめてジェイコブに言った。
「ご…ごめんなさいっ、オレ、すっかり寝ちゃって!」
「構いません。長旅でお疲れになったでしょう」
 ジェイコブはハボックが目を覚ましたのを見るとにっこりと笑う。ジェイコブはハボックを抱き上げると既に下ろしてあった車椅子にそっと乗せた。
「すみません、オレ……重いっしょ?」
 初老の域に差し掛かっているジェイコブにハボックがすまなそうに言えばジェイコブが答える。
「いえいえ、そんなことはありませんよ。むしろその年にしては軽すぎるくらいです」
 ジェイコブはそう言ってハボックを車椅子に下ろして続けた。
「それに私はこれでも鍛えていますからね。ジャン様の二人くらい簡単に持ち上げられます」
 そう言って笑うジェイコブは確かに頑健な体つきをしている。ジェイコブはハボックを載せた車椅子を押して細いスロープを上がりながら言った。
「本当ならすぐに奥様のところへお連れするべきなのですが、今夜はもう遅い。奥様はご高齢で無理はできませんからお休みになっています。朝になったら奥様のところへお連れしますから」
「うん、ありがとう、ジェイコブさん」
 肩越しに言うハボックにジェイコブが笑みを浮かべる。スロープの先に続く屋敷に近づけば中から出てきたメイドが扉を開けた。深々と頭を下げるメイドの前を通ってジェイコブは車椅子を奥へと押していく。一番奥の扉の前まで来るとジェイコブが口を開いた。
「こちらがジャン様のお部屋です。湯を使われますか?」
「今日はもう遅いから」
「判りました。では脚湯を用意させましょう」
 言ってベルを鳴らせば先ほどのメイドが盥に熱い湯を張ったものを持ってくる。ジェイコブはハボックをベッドに腰掛けさせると靴と靴下を脱がせ丁寧に足を洗い始めた。
「あの……そんな事してもらわなくても…ッ」
「じっとなさっていて下さい」
 なんだか落ち着かなくてハボックが言えばジェイコブは顔を上げずに答える。手早く足を洗うと柔らかいタオルでそっと水気を取った。
「こちらにお着替えを」
 ジェイコブはそう言って長いワンピース型の寝間着を差し出す。服を脱ごうとすればすぐさま手を貸してくるジェイコブに、ハボックは顔を赤らめて言った。
「平気っス、ジェイコブさん。オレ、一人で着替えられるっスから」
「これが私の仕事ですから」
 ジェイコブは言ってハボックの服を脱がせメイドが新たに持ってきた桶の湯でハボックの顔や手を拭いてしまう。ネグリジェを着せてハボックの体をベッドに横たえるとブランケットを掛けてやりながら言った。
「お疲れでしょう、今夜はゆっくりお休み下さい」
「ありがとう、ジェイコブさん」
 そう言って見上げてくる瞳にジェイコブが言う。
「私のことはジェイコブか、ジャックとお呼び下さい」
 ジェイコブは笑ってそう言うと「おやすみなさいませ」と下がってしまった。ハボックは薄暗い天井をぼんやりと見上げる。そうすれば途端に自分が切り捨ててきてしまったものの大きさに気づいて、ハボックは震える唇を噛み締めた。
「マスタ───」
 口をついて出そうになった名前を慌てて飲み込む。自分で望んで切り捨てたのだ。もう二度とその名を口にすることなど赦されない。
「……ぅ……っ、…ッ」
 ブランケットを握り締めて、ハボックはただ声もなく涙を零し続けることしか出来なかった。


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