菫青石の恋 〜 second season 〜  第二十六章


「お判りいただけましたか?モーガン様。ジャン様を守るというなら我々にこそその権利がある」
「いや、だが、しかし……ッ」
 ハボックの祖母が亡くなったときに調べた限りでは、ハボックに身内などいなかった。それを今頃になって遺書を持った者が現れるとは。
「一つ伺いますがどうして三年前ジャンの祖母が亡くなった時に来られなかったんです?どうして今になって?」
 親類縁者ならその時でなくとも亡くなった事に気づいてもいい筈だ。それを三年もたった今になって現れるとは、いくら連絡を取ったのがこちらからと言えど解せない事が多すぎた。
「奥様が仰られた筈です、“最後の砦”だと。ジャン様が思い出さなければ、我々はずっとジャン様の前に現れる事はなかったでしょう」
 その言葉にハボックが身を乗り出す。ジェイコブを見上げて言った。
「行きます、オレ!その人のところに連れていって下さいッ」
「ジャン!」
 身を乗り出すハボックの肩を引き戻してモーガンが叫ぶ。ダメだと首を振るモーガンをじっと見つめたハボックは泣き出しそうな顔で言った。
「ごめんなさい、リック。今までずっとオレを見守ってくれたことには本当に感謝してるっス。感謝しても仕切れないくらい……。でも、オレ、この人と一緒に行く。行かなきゃならないんだ」
「ジャン……」
 思い詰めた瞳できっぱりと言い切るハボックにモーガンは絶句する。それでも首を振りながら何とか言葉を探した。
「マスタング大佐は……そうだ、マスタング大佐はどうするんだ?いきなり君がアパートからいなくなってしまったらびっくりするだろう?せめて大佐が戻ってきてきちんと説明してからでも遅くないじゃないか」
「それじゃダメなんス、リック」
 モーガンの言葉にハボックは悲しそうに笑う。手にしていたナイフを差し出して言った。
「抽斗の奥に入ってた、これ。一体なんなのか、ずっと判らなかった。でも全部思い出した今なら判るっス。これは……これは、オレの罪の証」
そう言ってハボックはナイフを鞘から抜く。錆びたナイフについている物を伸ばした指先でそっと触れたモーガンはハボックを見て言った。
「これは……血痕?」
 どす黒い汚れは確かに血痕だった。
「どうしたんだ、このナイフ。これは誰の血だ?」
 当然のこととしてモーガンが尋ねたがハボックは微笑んだだけで答えなかった。ナイフを鞘に戻すとモーガンに差し出す。
「マスタングさんに渡してください。ごめんなさいと……伝えて」
「自分で伝えろ!」
 怒鳴ってモーガンはハボックの払いのける。ハボックの手からナイフが飛んで鈍い音を立てて転がった。
「ごめんなさい、リック」
 まっすぐに見上げてハボックが言う。モーガンが何も言えずにいる間にハボックはジェイコブを振り向いて言った。
「お願いします、ジェイコブさん」
「かしこまりました、ジャン様」
 軽く頭を下げて答えるとジェイコブは車椅子を押して部屋を出ていく。店を通り抜け外の通りへと出ていくジェイコブの後を追ってモーガンは店を飛び出した。
「待てッ!」
 近くに停めてあった車の扉を開けて、ジェイコブはハボックを助手席に座らせる。車椅子をたたんで後部座席に乗せるジェイコブの腕を掴んでモーガンは怒鳴った。
「待ってくれ、そんなに急いで連れていくことないだろう?もう少しきちんと話をしてからでも…ッ」
 必死に言い募るモーガンに構わずジェイコブはドアを閉めて運転席に回る。モーガンは助手席の窓を手のひらで叩いて言った。
「ジャン!待ちなさい!ジャン!」
 だが、ハボックは唇を噛み締めて俯いたまま答えない。その時、車がゆっくりと動き出してモーガンは慌てて車の扉を掴んだ。
「ジャンっ!」
 加速する車からモーガンの手が離れる。スピードを上げる車の後を追って走りながらモーガンは走った。
「ジャーンっ!!」
 もう追いつけないと悟ってモーガンはゆっくりと足を止める。遠ざかるテールライトをモーガンは呆然と見つめて立ち尽くしていた。


「ジャン!待ちなさい!ジャン!」
 バンバンと窓ガラスを叩いて怒鳴るモーガンの声がガラス越しに聞こえる。だが、ハボックは唇を噛み締めたまま俯いた顔を決して上げようとはしなかった。運転席に乗り込んできたジェイコブがハンドルを握りアクセルを踏み込む。ゆっくりと走り出す車からモーガンの手が離れその姿が後ろへと遠ざかるのをミラー越しに見て、ハボックは目を見開いた。自分を呼ぶ声が小さくなり聞こえなくなった時。
「……ひ…ぅ……クゥ…ッ」
 空色の瞳からポロポロと涙を零して俯くハボックにジェイコブが言う。
「今なら戻れますよ、ジャン様」
 その声にハボックは弾かれたように顔を上げた。まっすぐに前を見つめて運転するジェイコブの横顔をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと首を振る。
「……いいえ、このまま連れていってください」
「……かしこまりました」
 ハボックは言って手の甲で涙を拭うと、車のライトが照らし出す道をじっと見つめた。


 バンッと大きな音を立てて開かれた扉にモリスは立ち上がる。険しい表情を浮かべるモーガンに言った。
「連絡がないから心配したぞ、リック」
 そう言うモリスに答えずモーガンは靴音も荒く歩くとドサリとソファーに腰を下ろす。ガシガシと髪を掻き毟るモーガンにモリスは尋ねた。
「ジャンはどうした?彼女と会ったんだろう?彼女は何者だったんだ?」
 そう聞かれてモーガンは両手で顔を覆う。
「行っちまった……」
「え?」
「一人で行っちまった」
「どういう意味だ?おい、リック!」
 モーガンは呻くように言ったきりモリスの質問に答えなかった。
(どうしてジャンを連れていったんだ、どうして……ッ)
 どれだけハボックが追い詰められていたのか、もっと考えるべきだった。たとえあの遺書がなかったとしても、ハボックはあのジェイコブと名乗った男についていこうとしたに違いない。
「くそ…ッ」
 モーガンは低く唸るとバンッとソファーを叩いた。


 列車がゆっくりとホームに止まるのをロイは苛々として待つ。扉が開くやいなやホームに飛び降りるとロイは足早に歩き出した。
 あの後何度電話をかけてもハボックは出なかった。スケジュールでは翌朝ホークアイと共に司令部に顔を出した後、列車でイーストシティに帰る予定だった。だが、ここ数日感じていた不安がハボックと連絡がつかないという形で現実のものとなった時、ロイにはこのまま何もせず夜を過ごす事など出来なかった。何度目かの電話でもむなしく呼び出し音が響くだけと判った瞬間、ロイは電話を叩き切りホークアイに告げることなく最終の列車に飛び乗ったのだった。
「ハボック……っ」
 本来なら司令部に向かうのが筋だと言うことは判っている。だが、ロイは胸を占める不安に追い立てられるようにハボックのアパートに向かっていた。駅から車を拾ったものの、途中の道路が事故による通行止めになっているのが判ると車から降りアパートへの道を走る。アパートに近づくにつれ大きくなる不安に押し潰されそうになりながら、ロイは漸くたどり着いたアパートを見上げた。ハアハアと肩で息をついて、ロイは階段を駆け上がるとポケットから取り出した鍵で扉を開ける。
「ハボック!!」
 勢いよく開けた扉から飛び込んだロイは、名を呼びながら部屋の中を見て回る。全ての扉を開いてハボックがどこにもいないことが判ると、ロイは浅い息を繰り返しながら視線をさまよわせた。
(何があった?どこに行ったんだ、ハボック?)
 その時、テーブルに置かれた封筒にロイは気づく。表に記された自分の名にロイは目を見開いた。震える手をそろそろと伸ばし封筒を取る。封を開き折り畳まれた便せんを開き目を走らせた。


 マスタングさん
 ほんの一瞬だったけれど
 アンタの傍にいられて幸せでした。
 アンタを愛して、見られる筈のない夢を見て
 これ以上望むものなんて何もない。
 今度生まれ変わったらその時はきっと
 恥じることのない自分でアンタを探すから。だから。
 さようなら、マスタングさん。
 ありがとう。
 いつどこにいても、誰よりも一番大好き。


 最後にコロンと封筒から転がり出たものにロイは目を移す。テーブルの上に転がるハボックに渡した筈の指輪を、ロイは震える手を伸ばして握り締めた。


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