菫青石の恋 〜 second season 〜  第二十一章


 モーガンは駐車場に車を停めると急いで車を降りる。“モリス&モーガン法律事務所”と書かれたガラスの扉を押しあけて中に入れば、コーヒーサーバーを手にしたモリスが奥から顔を出して言った。
「リック、なんだ、結構早かったじゃないか」
 電話の調子からもっと話が長引くのかと思っていた。だが、この程度の時間で帰ってこれたのなら大した事態ではなかったのかと言うモリスに答えず、モーガンはドサリと椅子に腰を下ろした。ふう、とため息をついて椅子に背を預ける友人を見てモリスは眉を跳ね上げる。モーガンの分もコーヒーをカップに注ぐと、それをモーガンの前に置き自席に座ってカップに口を付けた。
「どういった用件だったんだ?」
 モーガンの様子からどうやらそう簡単な事態ではないらしいと察したモリスが尋ねる。モーガンはカップを掲げて視線で謝意を伝えると、コーヒーを一口啜って言った。
「俺もまだよく判っていないんだが、昔のことを思い出したっていうんだ」
「思い出したってジャンが?なにを?」
 不思議そうに尋ねるモリスの顔をモーガンはじっと見つめる。あんまりじっと見つめられてモリスが居心地悪そうに身じろぎする頃になって漸くモーガンが言った。
「“オレは薄汚い人殺しだ”」
「えっ?」
「ジャンがそう言ったんだよ。自分は薄汚い人殺しって」
「どういう意味だ?」
「判らん」
 驚きに目を見開いて尋ねるモリスにモーガンは顔を顰める。
「夢を見たんだと言ってた。繰り返し何度も何度も同じ男の夢を見て、最初のうちははっきりしなかった男の顔が誰のものか判ったとき、自分が人殺しだって思い出したって言うんだよ」
「人殺しって、本当に殺した訳じゃないだろう?その夢の中の男を傷つけたかなにかしたってことか?」
「夢の中の男……ロバートとか言ってたな、そいつを殺したんじゃないと言っていた」
「じゃあ誰を?」
「判らん。それ以上は言えないと言ってた。とにかく自分が人殺しだと思い出したからにはマスタング大佐と一緒に暮らすことはできないから今すぐあのアパートを出たいと言ってな」
「どういうことだ、さっぱり訳が判らんな」
「俺もだよ」
 一通り話を聞いたものの、相変わらず首を傾げているモリスにモーガンも頷く。ガブリとコーヒーを飲み干すと乱暴にカップを机に戻して言った。
「とにかく明日までに引っ越し先が見つからなかったら窓から飛び降りると言ってるからな」
「はあっ?飛び降りるっ?本気か?お前を急かす為に言ってるだけじゃないのか?」
 ギョッとして言うモリスの言葉にモーガンはさっき会ったハボックの顔を思い出す。綺麗な空色の瞳に浮かんだ絶望の色を思い出せば、決してハボックが脅しの為にそう言ったのではないことが知れた。
「いや、あの子は本気だろう。そうまでしてもマスタング大佐の前から姿を消したいんだ」
 そう言ったモーガンの脳裏に数日前のハボックの声が蘇る。ロイと暮らすことになったとそれは嬉しそうに話していた。彼が思いだした事がなんであれ、そうまで喜んでいた相手との同居を取り消そうと思うのは余程の事だ。
「理由はよく判らんが、とにかく今はジャンの言うとおりにしてやって、それからじっくり話を聞いた方がいいだろう」
「そうだな。万一本当に窓から飛び降りられたらかなわんからな」
 そう言うモリスに頷いてモーガンはため息混じりに立ち上がった。


 モーガンが足早に部屋を出ていってからも、暫くの間ハボックは動くことが出来なかった。ハボックの話を聞いたモーガンはハボックが言ったことを全部は本気に取っていないだろう。特にハボックが自分を人殺しだと言ったことはまるっきり信じていないに違いない。それでもここから出たいと言ったハボックの為に引っ越し先を探してくれるだろう事は、モーガンという人物を知っているハボックには確信できた。ハボックは車椅子を窓辺に寄せるといつものように外を眺める。空はいつもと変わらず綺麗に晴れ渡っていたし、通りを行く人々はいつもと変わらぬ生活を送っているように見えた。だが、ハボックには過ぎゆく雲にも行き交う人々の姿にも以前のように想像を巡らすことは出来なかった。心は昏く塞ぎ込み足首には重い足枷がついているかのようだ。そして足枷に連なる鎖の端を掴んでいるのは。
「ロバート……」
 その名を口にするだけで体が小刻みに震え出すのをどうすることも出来ない。ロバートから受けた痛みを思い出した途端込み上げた吐き気に、ハボックは手のひらで口元を覆った。
「ぐぅ……ッ」
 肩で息をして必死に吐き気を押さえようとすれば涙が滲んでくる。ハボックは車椅子の上で小さく身を縮めて、ガタガタと震え続けた。


 レストランで食事を済ませるとロイは早々に司令部へと向かう。送迎の車から自分で扉を開けて降りると、半歩遅れてついてくるホークアイに向かって言った。
「決済が必要な書類があるならどんどん持ってきてくれ。それから会議の類はなるべく前倒しに。休憩はいらん」
「適度の休憩は効率を上げるためにも必要かと思いますが」
「休憩する間に仕事を済ませてとっとと帰りたいんだよ、私は」
「大佐」
 何故そんなに急いで帰りたいのか聞くだけ阿呆らしいと思えるほど、恋の焔を黒い瞳に宿して言うロイにホークアイは眉を跳ね上げる。レストランに入る前の会話からも相当ロイがハボックという青年に入れ込んでいることは想像出来たが、まさかここまでとは思っておらずホークアイは軽く首を傾げた。
(一度どういう人物か、調べておいた方がいいかしら)
 他人の恋路に口を挟むほど野暮ではないが、やはり軍の要職を務めるロイがそこまで入れ込む相手がどういう人物なのかは気にかかる。
(まだ二十歳になるやならずの青年だと聞いたけれど)
 ロイをうまく丸め込んで意のままにしようなどと言う人物をロイが相手にするとは思えなかったが調べておくに越したことはない。ホークアイはイーストシティに戻ったらするべき事の項目にハボックの名を頭の中で刻み込むと、ロイに続いて廊下を歩いていった。


「で、まずは引っ越し先を探すのか?」
 モリスは新しいコーヒーのカップを手に戻ってくると尋ねる。モーガンはアドレス帳に書き留めた親しい不動産業者の番号を見ながら答えた。
「とりあえずな。まずはあそこから出してやらんとジャンが落ちつかんだろう」
「その後は?ジャンに話を聞くのか?」
 そう聞かれてモーガンはアドレス帳から顔を上げてモリスを見る。腕を組んで大きく息を吐くと言った。
「それなんだがな、一体どこまで話してくれるか」
 引っ越し先で落ち着きを取り戻して話してくれるならいい。だが、さっきの様子では簡単には話してくれそうもないように思えた。
「マスタング大佐とのこともあるだろう?」
「問題はそれだ」
 今は仕事でイーストシティを離れているらしいが、戻ってきてハボックがアパートにいないと判れば大騒ぎになるだろう。その時ハボックの後見人としてどう振る舞うか、ハボックの真意がはっきりしない現状ではどうにも決めかねるというのが正直なところだ。
「ジャンの亡くなった祖父母の方から何か判らないのか?」
 モリスにそう言われてモーガンは軽く目を瞠る。ボリボリと頭を掻きながら照れ隠しのように言った。
「なんで思い出さなかったかね」
「いきなり人殺しだと告白を受けて自殺まで仄めかされて、流石のお前さんも気が動転したんだろう」
 ニヤニヤとからかうように言われてモーガンは顔をくしゃりとする。立ち上がってキャビネットの中から古い書類を探しながら祖母が亡くなったときのハボックの事を思い出していた。まだ16になったばかり、足も不自由となればたった一人の身内の死は悲しいだけでなく不安でたまらなかったに違いない。それでも病床にあった祖母にいずれはと覚悟を決めていたのだろう。
『なにからなにまでありがとうございます。オレなら大丈夫っスから』
 相続の手続きやら今後の暮らしについての手配やらを済ませたモーガンに、そう言って笑って見せた少年の瞳が思い出される。なにがあったのかはまだ判らないが、ハボックが漸く見つけた幸せを手放さずにすむよう、出来るだけのことはしてやりたいと思うモーガンだった。


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