菫青石の恋 〜 second season 〜  第二十章


「おはようございます、マスタング大佐」
「おはよう、ホークアイ中尉」
 軽いノックの音に扉を開ければ美人の副官が一分の隙もない姿で立っている。後ろ手に扉を閉めて廊下に出れば、ホークアイが言った。
「最近はお目覚めがよろしいようですね」
 以前のロイならこうして朝迎えに上がれば、寝起きの不機嫌丸だしの顔で姿を現していた。だが、今回の出張で、少なくとも朝のロイは不機嫌とは無縁のようだった。
「毎朝君に不快な思いをさせるのも申し訳ないと思ってね」
 とても本気とは思えぬ台詞を口にするロイにホークアイは僅かに眉を跳ね上げる。だが、朝一番の仕事がロイの不機嫌を宥めるのでない事は確かに精神衛生上好ましい事であるのは確かなので、ホークアイはにこやかに笑って言った。
「それはとても助かります」
 嘘でも『そんなことはない』とは言ってくれない相手だと判ってはいても、ロイはホークアイの言葉にクシュと鼻に皺を寄せる。ホークアイを促してホテルのレストランに向かいながら言った。
「そんなに昔の私は朝から手に負えなかったかな」
「朝が特に手に負えませんでした」
「……中尉」
 きっぱりと言い切られてロイは情けなく眉を下げてホークアイを見る。哀れな上司の顔にホークアイはクスリと笑って言った。
「でも、本当に今回の出張、苦労せずに起きてらっしゃるようですね。何か心境の変化でもあったのですか?」
 今までどうやっても変わらなかったのにと思いながらホークアイが聞けばロイが嬉しそうに目を細める。その見たこともないほど幸せいっぱいの笑みを浮かべるロイにホークアイはピンと来て目を瞠った。
「一緒に暮らすことになったんだ。落ち着いたらみんなにも紹介するよ」
「まあ」
 ロイが菓子を買いに行くのを口実に足の不自由な青年の元へ足繁く通っていたのは知っていた。どうやら本気で彼とつきあっていく気らしい。恋多き男がいよいよ年貢の納め時というところまで来ている事を知って、俄に興味を駆られたホークアイが尋ねた。
「どういう人なんですか?失礼ですが男はごめんだと仰っていたと記憶しますが」
 この男はとにかくモテる。女性だけでなく男性からもかなり積極的なアプローチがあるのは周知の事実ではあったが、ロイは『男なぞ絶対にごめんだ』と嫌悪感も露わにしていた筈なのだ。
「ハボック以外の男は今でもごめんだ」
 ロイはそう言ってあからさまに顔を顰めてみせる。だが次の瞬間幸せそうに目を細めて言った。
「なんだろうな、彼の側にいるとホッとする。全てを赦されてここにいていいんだと思えるんだ。欠けていた全てのパーツが埋め尽くされて全き存在になれる気がする」
 この罪深く欠けたところだらけの私が、と笑うロイをホークアイは意外な気持ちで見つめる。全く人生とは判らないものだ。どんな相手にすら本気にならなかった男が、まだ二十歳になるやならずやの青年につかまってしまうとは。
「大佐にそこまで言わせることが出来るなんて、紹介して頂くのが楽しみです」
 相手が男であれ女であれ、それでロイが幸せなら周りがとやかく言う話ではない。
「楽しみにしていてくれ。中尉もきっと気に入るよ」
 にこやかに言うロイに続いてレストランに入りながら、ホークアイは頷いたのだった。


 車を路肩に寄せるとモーガンは車から飛び降りる。鍵をかけるのもそこそこに目の前のアパートに駆け込むと階段を二段抜かしで駆け上がった。目指す扉の前に立ったモーガンは、朝早い時間であることも構わず乱暴に扉を叩く。それと同時に中にいる筈の人間の名を呼んで相手が出てくるのを待った。もの凄く長い時間待ったような気がしたが、実際にはほんの数分のことだったのだろう。ガチャリと鍵が外れる音がして扉が開く。車椅子に座った青年の姿を見た途端、モーガンは玄関にしゃがみ込んだ。
「……よかった」
 あまりに切羽詰まった電話の声に、自分がつく前に発作的に窓から飛び降りてしまっていたらどうしようかと思ったのだ。とりあえずそんな最悪の事態は避けられたようだとモーガンはため息をつくと、ヨイショと立ち上がった。
「まったく、びっくりさせないでくれ、ジャン。朝から心臓が止まるかと思ったよ」
「ごめんなさい、リック」
 苦笑してそう言えば空色の瞳が見上げてくる。その苦渋に満ちた表情にモーガンはハッとすると扉を閉めて言った。
「中へ入っていいかい?さっきの電話が一体どういうことなのか、話を聞かせてくれ、ジャン」
 そう言うモーガンにハボックは車椅子を操って中へと戻っていく。後について部屋に入ったモーガンは、キッチンに入ると勝手に冷蔵庫を開けた。
「水を貰っていいかい?慌てたら喉が乾いてしまった」
「紅茶かコーヒーでも淹れましょうか?」
「……そうだな、何か飲んだ方が君も落ち着くだろう。私が淹れてもいいかな?」
 そう言って家主の許可を貰ったモーガンは手早くコーヒーを淹れる。ハボックの為には少しミルクと砂糖を多めに入れたそれを、モーガンは青年の前に差し出した。
「ほら。これを飲んで落ち着いたら話を聞かせてくれるかい?」
 ハボックはカップを差し出すモーガンの顔をじっと見上げていたが、小さな声で礼を言ってカップに手を伸ばす。ハボックがカップにそっと口をつけるのを見ると、モーガンは椅子を引いて腰掛けコーヒーを飲んだ。そうして暫く互いに何も言わずにいたが、やがてカップをテーブルに置いたハボックが視線を膝に落としたまま言った。
「ここを出たいんです、リック」
「電話でもそう言っていたな。そもそもマスタング大佐と住むことになったという話だったろう?それがどうして突然そんなことになったんだい?」
 そう尋ねればハボックが顔を上げてモーガンを見る。震える唇が言葉を吐き出そうとするのを遮ってモーガンは言った。
「言っておくが理由は言えないというのはなしだ。理由が言えないなら君の希望を聞くことはできないよ」
「リック…っ」
 誰が聞いてももっともと思える事を口にしたモーガンにハボックが泣きそうに顔を歪める。再び俯いて唇を噛み締めたまま黙り込んでしまったハボックを見て、モーガンは優しく言った。
「この間電話で話した時はマスタング大佐と住むことになったととても嬉しそうに話していた。それなのにそれから二日もたたないうちに『一緒に住むのはやめた。アパートを出たいから住む場所を探してくれ』と言われても、簡単には頷けないよ。そもそもマスタング大佐はこの事を知っているのかい?」
 そう尋ねればハボックの体が大きく震える。答えを聞かないでもロイが何も知らされていないことは一目瞭然だった。
「ジャン、そんな事をしたらマスタング大佐がどう思うか考えてみたのかい?せっかく一緒に住むと決めたのに理由も判らず一方的に住むのをやめたと言われたら。……一体何があったのか、教えてくれないか?ジャン」
 ハボックはいつでも自分のことより他人のことを慮るタイプの人間だった。そんな彼が突然こんな事を言い出すなんて余程の事だろう。何とかしてその理由を聞き出そうとモーガンは根気よく尋ねる。だが、俯いたきり何も言おうとしないハボックにモーガンがどうしたものかと考えあぐねていると、漸くハボックが口を開いた。
「思い出したんです、昔のこと」
「昔のこと?何を?」
 ロイとの同居を思いとどまらせるほどの事とはなんだろう。モーガンがそう思いながら尋ねればハボックが言った。
「オレは人殺しなんです、リック。薄汚れた人殺し。だからマスタングさんとは一緒に住めません」
 そう言うハボックの言葉にモーガンは目を見開く。それからスッと目を細めて言った。
「人殺しとは穏やかでないな。そもそも思い出したというのはどういう事だ?」
 人を殺した記憶を忘れたりなど出来るだろうか。ハボックの言葉の意味を捉えかねて尋ねるモーガンにハボックが言った。
「夢を見たんです。オレは狡いから記憶の奥底に自分がしでかした罪を封じ込めてた。でも、この間から何度も夢を見るようになって」
 ハボックはそう言って一度目を閉じる。それからもう一度目を開くとモーガンをまっすぐに見つめて言った。
「男の夢でした。闇の中で男が言うんです、いつまで逃げるつもりだ、って。段々夢を見る回数が増えるうちにその男の顔がはっきりして。それがロバートだって判った時、オレは全てを思い出したっス。オレは薄汚い人殺しだって」
 そう言って見つめてくる空色の瞳に浮かぶ苦悶の色は、決してハボックが嘘を言っている訳ではないと告げている。モーガンは驚きを隠しながらハボックを見返して言った。
「そのロバートっていう男を君が殺したというのか?」
 そう尋ねればハボックが首を振る。重ねて尋ねようとしたモーガンより先にハボックが言った。
「これ以上は言えないっス。でも、オレは薄汚い人殺しだ。理由としてはこれで十分っしょ?」
 そう言うハボックの瞳に浮かぶ絶望の色にモーガンは言葉をなくす。数年前、祖母が死んで一人きりで遺された時ですらこんな顔はしていなかった。深い息を吐いたモーガンは考えを巡らすように視線をさまよわせる。少ししてハボックの顔を見ると言った。
「判った。少し時間をくれ、ジャン」
「一日しか待てないっス。それ以上かかるならオレは死んでマスタングさんの前から消えるしかない」
「ジャン」
「母さんが自分の命と引き替えにくれた命だから、本当ならそんな事はしたくないっスけど」
 もし間に合わなければ彼は迷わずそうするのだろう。そんな決意をその瞳に見て取ってモーガンはグッと唇を引き結んだ。
「判った。とにかく私からの連絡を待って、早まったことをするんじゃないぞ、ジャン」
 モーガンはそう言ってハボックの手をギュッと握ると足早にアパートを出ていった。


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