| 菫青石の恋 〜 second season 〜 第十九章 |
| そうやってどれだけの時間を過ごしていたのだろう。気がつけば窓の外の空が白み始めていて、ハボックは小さく身じろいだ。暫くそのままでいたが、ゆっくりと窓に近づき外へ目をやる。今日の天気を伺わせる空は、ハボックの気持ちとは裏腹に透き通るように晴れ渡っていた。視線を下ろせば通りの向こうに洋菓子店が見える。あと少しすれば開店の準備のために店員達がやってくるのだろう。 「………」 じっと店を見つめていたハボックは震える息を吐いて目を閉じる。淡い憧れを抱いて洋菓子店にやってくるロイをこの窓から見下ろしていたのはいつだったろう。まださして昔のことではないはずなのに随分と遠くまで来てしまった気がして、ハボックが緩く首を振った時、リンと電話のベルが響いた。 「……ッ」 こんな時間に電話をかけてくるのは一人しかいない。ハボックは目を見開いて鳴り続ける電話を見つめていたが、キュッと唇を噛むと車椅子を近づけ受話器を取った。 「はい」 『ハボック?すまん、起こしたか?』 「……いえ、起きてたんスけど……すみません、お待たせして」 『どこか具合でも悪いのか?』 そう聞かれてハボックは緩く首を振りながら答える。 「大丈夫、元気にしてるっス」 『そうか、それならいいんだが』 少し安心したような声が受話器から聞こえてハボックは笑みを浮かべた。ギュッと受話器を握り締めて尋ねる。 「マスタングさんは?元気なんスか?」 『いっそ具合でも悪くなればくだらん会議に出ずに済むんだが』 半ば本気で言っているらしいロイにハボックは軽い笑い声を上げた。それを聞いたロイからも笑い声が返ってハボックは胸がキュンと痛くなった。 『お前の笑う声を聞くと安心する。このままずっと聞いていたい』 不意に切ない声が耳を打ち、ハボックは目を見開く。ハボックがなにも言わずにいればロイが続けた。 『あと少しだから。帰ったら真っ先に迎えにいく。待っていてくれ、ハボック』 「……はい」 小さな声で頷けばロイが安心したように笑う。今日も変わらず忙しいのだろう、申し訳ないように二言三言喋って電話を切ろうとするロイに、ハボックが慌てて声を上げた。 「マスタングさん、オレっ」 『ん?どうした?』 優しく返る声にハボックは唇を噛み締める。一度ギュッと目を閉じて開くと言った。 「オレ、マスタングさんと会えて幸せっス。マスタングさんを好きになれてよかったって思うっス」 『ハボック』 「これからもずっとマスタングさんが好きです」 そう言えば受話器の向こうで一瞬息を飲む気配がする。それからその気配が緩く解けてロイの声が聞こえた。 『ありがとう、ハボック。私も同じだ。お前に会えてお前を好きになってよかった。これからもずっとお前が、お前だけが好きだ』 そう声が聞こえたあと、二人の間を沈黙が支配する。決して不快ではない、寧ろ二人の間を強く結びつけるような沈黙のあとロイが言った。 『すまん、そろそろ時間だ』 「はい、電話、ありがとうございました」 ハボックがそう言えば今度こそ電話が切れる。ツーツーと発信音が響く受話器を握り締めたハボックの手を、透明な滴が濡らした。ハボックは握り締めていた受話器をそっとフックに戻す。嗚咽が零れる唇を手で覆うようにして身を縮めていたハボックは、やがて体を起こすと手の甲で涙を拭いた。 リック・モーガンは鳴り響く電話の音に顔を歪める。ベッドの中から手を伸ばすと受話器を掴みとり耳に押し当てた。 「……はい」 起き抜けの不機嫌な声で言えば受話器の向こうで躊躇う気配がする。モーガンは一つため息をついて体を起こすと頭をボリボリと掻きながら言った。 「もしもし?もう起きたからオッケーだよ。どちらさま?」 そう尋ねればホッと息を吐くのに続いて声が聞こえた。 『リック、朝早くからごめんなさい、ハボックっスけど』 「ジャン?」 聞こえてきた声にモーガンは目を瞠る。ベッドから足を下ろしながら言った。 「おはよう、早いな、どうしたんだい?」 そう言いながらモーガンは頭の中で車椅子に座るハボックの姿を思い浮かべる。ハボックはモーガンが後見を務めている青年だった。三年ほど前ハボックの唯一の肉親である祖母が他界した時から遺された財産を彼の為に整理管理し、足の不自由なハボックが一人で生活出来るように取りはからってやっている。つい先日、電話で話したばかりなのにこんな朝早くから何事だろうと思いながら尋ねれば、ハボックが躊躇いがちに言った。 『引っ越しの話なんスけど』 「ああ、この間言ってた。誰と一緒に住むんだっけ?」 先日突然住んでいるアパートから引っ越すと言ってきた。モーガンは額をトントンと叩いて記憶を引っ張り出す。出てきた記憶にパチンと指を鳴らして言った。 「そうそう、マスタング大佐だ。引っ越す日にちが決まったのか?」 イーストシティどころかアメストリスでも知らない人のいない名士、ロイ・マスタング大佐と暮らすことになったと聞いたときは驚いたものだ。これが他の訳の判らない人間だったらハボックの財産目当てかと疑うところだったが、相手がロイであるならそう言う理由での同居ではないのだろう。 「ジャン?」 返事が返ってこないことを訝しんで名を呼んだが受話器の向こうは沈黙したままだ。眉を顰めてモーガンがもう一度呼べばハボックが早口に言った。 『マスタングさんと一緒に住むのはやめました。でもオレ、ここから引っ越したいんス』 「どういうことだい?」 先日電話で話した時はとても嬉しそうにロイとの事を話していた。それがろくに日もたたないうちにこんな事を言い出すなど考えられない。モーガンの問いにハボックが答えた。 『理由は言えません。でも、いますぐここを出たいんです。どこかオレでも住めるところ探してください』 「ジャン、理由も聞かずにそんな事が出来るわけないだろう?」 家を出たいなぞ余程の事だ。それも同居が決まっている相手とは住まないというのだからその理由を聞かないわけには行かなかった。 「マスタング大佐と何かあったのか?」 『マスタングさんとは何もありません』 一番考えられる理由を口にしてみたが、即座に否定されてモーガンは眉間の皺を深める。 「何もないならどうしていきなり同居をやめるだの余所へ引っ越したいだのという話が出てくるんだ。理由はなんだ、ジャン」 『言えません、今すぐ引っ越し先を探してください』 「ジャン!理由を───」 『探してくれないなら窓から飛び降りるッ!!』 「な……っ?」 切羽詰まったような叫び声が聞こえてモーガンはギョッとする。荒い息遣いが聞こえてくる受話器を耳に押し当てて早口に言った。 「今すぐそっちに行くから。だから馬鹿な真似はしないで待っているんだ、いいな、ジャン」 『リック……ッ』 「いい子だ、ジャン。待ってるんだぞ、電話を切るがすぐ行くからな」 モーガンはそう言ってそっと受話器を置くとベッドから立ち上がる。クローゼットに駆け寄ると乱暴に扉を開け急いで服を着替えた。部屋を出ようとしてもう一度受話器を取ると空で番号を回す。なかなか出ない相手に苛々と足踏みをしていたモーガンは受話器のフックが上がる音を聞くなり言った。 「もしもし、ウィルっ?」 『モリスです。ただいま留守に───』 「ふざけるなっ、急いでるんだ、こっちは!」 『……朝早くに人を叩き起こして言う台詞じゃないな、リック』 不機嫌な声にモーガンは「すまん」と一言言って張り上げた声のトーンを落とす。受話器を握り直すと一緒に法律事務所を経営する友人に向かっていった。 「ジャン・ハボックを覚えているだろう?あの子からたった今電話があったんだ」 『ああ、あの足の不自由な。どうかしたのか?』 「様子がおかしい。今からちょっとアパートに行ってくる。事務所に行くのが遅れるかもしれんが」 『判った。何か判ったら連絡をくれ』 そう言うモリスに礼を言ってモーガンは電話を切る。上着と鞄を引っ掴むと部屋から飛び出していった。 |
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