| 菫青石の恋 〜 second season 〜 第十八章 |
| 「あんまり顔色がよくないですね、大丈夫ですか?」 その声にぼんやりと窓の外を見ていたハボックはハッとして振り向く。そうすれば心配そうに自分を見つめているヘルパーのメアリと目があった。 「あ…うん……大丈夫」 そう言って笑って見せればメアリも笑みを返してくる。 「ならいいですけど、まだまだ寒いですから体調崩さないようにして下さいね」 「うん、ありがとう」 メアリはハボックが大丈夫なのを見て取ると、乾いた洗濯物を畳むのを再開した。メアリが手早く洗濯物を畳むのをハボックは暫く見ていたが、やがて口を開いて言う。 「ねぇ、メアリ。オレ、引っ越すことになりそう」 「えっ?そうなんですか?」 ハボックの言葉にメアリが驚いて洗濯物を畳む手を止めた。話を促すように見つめてくる明るい緑の瞳を見返してハボックが続ける。 「ほら、あの……いつも来てくれるでしょ、その……」 「マスタング大佐ですか?」 何となく言いにくそうな言葉をメアリが拾って言った。 「あ、もしかしてマスタング大佐と一緒に住むんですかっ?」 ハボックが言うより先に察したメアリが言う。 「うわあ、凄い、いいなぁッ」 あのマスタング大佐と、と興奮するメアリにハボックは顔を赤らめた。 「今出張に行ってるんだけど、帰ってきたら一緒に住もうって」 「そうなんですか、よかったですねぇ」 紅い顔で言うハボックにメアリはにっこりと笑う。自分が娘の急病で帰った日、熱を出して倒れたハボックをロイが助けた事は聞いていた。その後、ちょくちょく訪ねてくるようになったことも。いつも家に籠もりきりで寂しい生活を続けているハボックを外に連れ出そうとしてくれるのを、メアリは好ましく思っていたのだ。 「あ、でもそうなったら私はお役御免ですね。それはちょっと残念だなぁ」 メアリはこの足の不自由な青年が気に入っていた。歩けないからと言って暗く塞ぎ込むことも卑屈になることもなく、いつも優しい笑みを浮かべている青年を見ているととても優しい気持ちになれ、彼の世話をする為に通ってくるこの時間がとても好きだったのだ。だが、ハボックがロイと暮らすと言うなら、ヘルパーの自分はもう必要ないだろう。 「その事なんだけど、メアリ。オレは続けて来て欲しいと思ってるんだ」 「え?でも、マスタング大佐と一緒に住むならヘルパーは必要ないんじゃないですか?」 不思議そうに首を傾げるメアリにハボックが言う。 「マスタングさんは仕事があるし、住む場所が変わるだけでオレの生活はそんなに変わらないと思うんだ。だからこれからもメアリに助けて貰えたらって思うんだけど」 迷惑?と上目遣いに見つめてくる空色の瞳にメアリはクスリと笑う。こんな表情が妙に庇護欲をそそる事をこの青年は気がついているのだろうか。 「迷惑なんて事あるわけないじゃないですか。喜んでお手伝いしますよ」 「ほんと?よかった。断られたらどうしようかと思ってた。メアリならオレの事もよく判っててくれて安心だもの」 嬉しそうに笑って言うハボックにメアリが言った。 「それじゃあお引っ越しの準備もしなくちゃいけないんじゃありませんか?」 「うん、そうなんだけど、急な話だしとりあえず当座必要なものだけ持って出て、残りは後でゆっくり運ぼうかなって。どれだけのものが必要かよく判らないし。メアリには迷惑かけちゃうけど」 「マスタング大佐の家にも既に色々あるでしょうしね。私なら全然構いませんよ。どういう風にするか決まったら教えて下さい」 「うん、ありがとう、メアリ」 全部話してハボックはホッとした表情を浮かべる。メアリは洗濯物を畳む手を動かしながら言った。 「洗濯物畳んだら買い物に行って来ちゃいますね。あ、でも引っ越すならあんまり買わない方がいいのかな」 「そうだね」 メアリは畳み終わった洗濯物を持って立ち上がると寝室に入っていく。クローゼットにしまうと戻ってきてコートと鞄を手に取った。 「じゃあ急いで行ってきます」 「ありがとう、気をつけてね」 ハボックが言えばメアリがにっこりと笑って部屋を出ていく。後に残ったハボックはホッと息を吐いて窓の外へと目を向けた。 「メアリにも話したし……持っていくものの準備しなきゃ」 ロイが帰ってくるにはまだ日にちがあったが、ロイが迎えに来てくれたらすぐにもアパートを出たかった。ハボックは外から視線を戻すと車椅子を操って寝室へと入っていった。 「それじゃあ失礼します。引っ越しの事とか、決まったら連絡ください」 「うん、ありがとう、なるべく早く連絡するね」 ハボックに手を振ってメアリは帰っていく。扉を閉じて鍵をかけるとハボックは部屋の中へと戻った。 「マスタングさん、早く帰ってこないかな……」 メアリにも話をしたし、数日分の衣服もボストンバッグに詰めてしまった。管理人の夫婦にも自分がここを出ることは話したが、元々アパートの管理に関しては任せきりだったから特に大きく変わるところはないだろう。後はロイが迎えに来てくれさえすれば、もうなにも心配する事はない筈だった。 「マスタングさん……」 恐ろしい夢に追い立てられるように、ハボックはただ一刻も早くロイが自分をここから連れ出してくれるのを待っていたのだった。 「また夜になっちゃった……」 ハボックは両手で顔を覆ってため息をつく。ロイが迎えに来てくれる日が早くくればいいと思うものの、その為には幾つも夜を越えなくてはならない。眠らずに済ますことは到底出来なくて、ハボックは迫りくる悪夢の予感に震える体を抱き締めた。少しでも悪夢に抗おうとハボックはラジオを聞いたり本を読んだりしながら夜が過ぎていくのを待つ。だが、元々朝はきちんと起きて夜になったら夜更かしせずに寝る、という規則正しい生活を長く続けてきたハボックにとって、そろそろ睡魔との戦いも限界だった。 「眠い……眠りたくない、の、に……」 ハボックはそう呟いて幼い仕草で目をこする。次の瞬間倒れ込むように車椅子に背を預けると、あっと言う間に眠りの淵に引きずり込まれていった。 「もうやだ…ッ」 何度も訪れた夢の世界はすっかり馴染みのものとなってしまった。今夜もまたあの男がやってきて恐ろしい言葉を囁くのかと思うと、ハボックの心を恐怖が覆い尽くそうとする。扉がひとつあるきりのなにもない部屋に立ち尽くしていたハボックは、空気の重さに耐えきれずに一歩足を踏み出した。 「歩ける……」 今まで逃げ出しそうとして歩こうとしても頑として動こうとしなかった足が今日は動く。これならあの男に合わずに済むかもしれない。ハボックは僅かにホッとした表情を浮かべると、立っていた部屋の中央から扉に向かって歩いていった。走ったら転びそうな気がして、それでも精一杯の早足で扉まで辿り着くとハボックはノブに手を伸ばす。一瞬浮かんだ扉が開かなかったらという考えに反して、ノブは何の抵抗もなく回り、ハボックは扉を押し開けた。チラリと後ろを振り返り、急いで中に入る。後ろ手に扉を閉めたハボックは、入った部屋の中を見てギクリと体を強張らせた。 入った部屋は寝室のようだった。中央に置かれたベッドとそのすぐ側には抽斗がいくつかついたサイドテーブル。カーテンが引かれた窓の側には机、反対側にはクローゼットの扉があった。 「……あ……」 薄いブルーを基調にした部屋は子供の部屋のように見える。恐ろしいものなど何もない部屋なのに、ハボックはこみ上げてくる恐怖で体の震えが止まらなかった。元いた場所に引き返そうとして振り向いたハボックは、入ってきた扉がないことに気づいた。 「…ッ?!な……どうしてっ?」 バンッと壁を叩いて逃げる扉を探していたハボックは、不意に聞こえてきた笑い声に凍り付いた。 「逃げることなど出来ないと言っただろう、ジャン」 低い声に恐る恐る振り向けば、あの男がベッドに腰掛けている。顔を隠すように俯いた額に手を当てている男から少しでも遠ざかろうと、ハボックは扉の消えた壁に背をすり付けた。 「お前は逃げることなど赦されない。あの時も今もそして」 男は言って額に当てていた手を下ろす。ゆっくりと顔を上げて言った。 「これからも、一生、な」 顔を隠す闇をなくした男の顔がハボックの目にはっきりと映る。 「ロバート……」 その顔を見たハボックの唇から一つの名前が零れた。 「ッッ!!」 弾かれたように目を開いたハボックは肩を弾ませて息をする。付けっ放しだったラジオから低く音楽が流れていたが、ハボックの耳には聞こえてこなかった。 「は……はは……」 ハボックは車椅子に背を預けたまま乾いた笑いを零す。たった今夢の中で見た男の顔を思い出してヒクリと喉を鳴らした。 「……どうして…忘れていられたんだろう……」 男の顔が忘れていた記憶を呼び覚ます。 「オレは汚らわしい人殺しだ……ッ」 ぐったりと車椅子に沈み込んだハボックの唇から呻くような声が零れ落ちた。 |
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