菫青石の恋 〜 second season 〜  第十七章


 暗く沈んだ部屋の中で苦しげな呼吸が聞こえる。それに混じってうなされているような呻き声が、途切れることなく部屋の中を流れていった。


 暗闇の中、ハボックは立ち竦んでいた。歩けない自分が何の支えもなしに立てる筈はなかったが、それに気づく余裕すらないほどハボックは怯えきっていた。
「どうしてまた……?」
 これは夢だ。それはハボックにも判っている。何日か続けて同じ夢にうなされたハボックだったが、漸く自分の気持ちにきちんと向き合ったことでもう夢はみないと思っていたのに。
「逃げなきゃ……」
 このままではまたあの男がやってくる。都合のいいことに今の自分は車椅子もなしに立っているのだ。脚を動かしてあそこに見える扉から出ていけばいい。そう思えば思うほど、だが、ハボックの脚は鉛のように重くなって全く動こうとはしなかった。
「やだ……動けよッ、このッ!なんで動かないんだッ!」
 ハボックが泣きそうな顔でそう呻いた時。
「なぜ?それはお前が咎人だからだ」
「……ッッ!!」
 息がかかりそうな距離でそう囁く声が聞こえてハボックは飛び上がった。その拍子にバランスを崩して床に倒れ込む。声のした方を見上げれば、闇に顔を塗り潰された男が立っていた。
「忘れたか、ジャン……ずるい奴だ。そうだ、昔からお前はそうだった……」
「な……なん……」
 後ずさるような格好で見上げるハボックに、男はスッと屈み込むと手を伸ばした。
「ずるくて……逃げたんだ……」
 そう囁いた男の手がハボックの頬に触れる。そのゾッとするような冷たさにハボックの唇から悲鳴が迸った。


「ヒィィィッッ!!」
 高い悲鳴を上げてハボックはカッと目を見開く。誰もいない部屋の中、闇に沈んだ天井を見上げてハアハアと荒い息を吐いた。
「あ……ああ……」
 満たされてもう二度と見ない夢だと思っていた。だが、実際は今まで以上に鮮明な男の姿にハボックは混乱しきっていた。そして。
「顔が……」
 男の顔は今まで見た夢と同様闇に塗り潰されてはいた。だが、その闇は今までよりずっと薄く男の顔が透けて見えるのだ。ただの闇に塗れたのっぺりとしていた顔にぼんやりとはいえ目鼻が見える。それがハボックにはたまらない恐怖を呼び起こした。
『それはお前が咎人だからだ』
 男の声が蘇ってハボックはゾクリと震える。
「どういう意味……?」
 自分が忘れているなにかがあるというのだろうか。
「こわい……」
 そう呟いたとき、指のリングがキラリと光ってハボックは手を胸元に引き寄せた。
「マスタングさん……ッ」
 その名を呼べば全ての悪夢が消え去るというように、ハボックはリングを抱き締めてロイの名を呼び続けた。


 寝室から車椅子を操って出てきたハボックは、ブラインドを上げて明け始めた空を見上げる。結局あの後一睡もできなかった。眠ればまたあの男が出てきて知りたくもないことを話す気がして恐ろしくて仕方なかったのだ。今も気を抜けば男の声が蘇る気がしてハボックは激しく頭を振った。
「イヤだ……」
 何かしていたら気が紛れるかもしれない。ハボックはその考えに縋るように、車椅子をキッチンへ向けたのだった。


「うーん」
 ロイはベッドの上に身を起こすと思い切り伸びをする。
「今日も一日会議会議か……」
 うんざりしたように言ったロイはコキコキと首を回してベッドから降りた。裸足のまま窓に歩み寄りカーテンを開ける。そうすれば明けたばかりの綺麗な空が広がっているのが見えてロイは目を細めた。
 この空と同じ色の瞳を持つ愛しい相手はまだベッドの中だろうか。それともそろそろ起き出して自分と同じように空を見上げているだろうか。そんな風に考えるとハボックがすぐ傍にいるように感じてロイはうっすらと微笑んだ。
「ハボック」
 イーストシティに戻ったらその日の内にハボックを迎えに行こう。引っ越しの準備が出来ていないと言ったって構わない。ハボックさえいれば他の身の回りのものなど要りはしないのだから。漸くその心を手に入れて、ロイにはもうこれ以上離れて暮らすなど考えられなかった。
 そんな風に考えているとハボックの声を聞きたくてたまらなくなる。ロイは少し迷ったものの受話器を取るとダイヤルを回した。ホテルの交換手を通し目指す相手に繋いでもらう。眠っているところを起こしてしまうかもと思いもしたが、自分からの電話であればハボックは決して怒らないだろう。恋する男の身勝手さでそう思った時、ガチャリとフックが上がる音がして愛しい相手の声がした。


 キッチンに入るとハボックは冷蔵庫から卵を取り出す。ボウルで溶き解し砂糖を入れさらにラムと牛乳を加えた。レーズンブレッドの耳を落とし適当な大きさに切って耐熱容器に並べる。パンの上に卵と牛乳を混ぜたものをかけ、しっとりしたところで水を張った天板に置き時間を設定してボタンを押した。丁度その時電話のベルが鳴り響いてハボックはギクリと身を強張らせる。ほんの少し迷ったものの、のろのろと車椅子を操ってキッチンから出たハボックは、受話器を取ろうとして電話の相手があの男だったらなどという考えが浮かんで手を止めた。そんなわけがある筈ないと慌てて首を振って受話器を取ったハボックは聞こえてきた声にホッと胸を撫でおろした。
『ハボック?すまん、起こしたか?』
 心配そうに聞く声にハボックは目を細める。それから首を振って答えた。
「いいえ、起きてたっス。キッチンの方にいたんで」
 待たせちゃってごめんなさい、と言えばロイが言う。
『随分早起きだな。朝から何を作ってたんだ?』
「マスタングさんが好きだって言ってたパンプディングっスよ。マスタングさんこそ早起きっスね。毎日忙しくて疲れてるでしょうに」
『さっさと終わらせれば早く帰れるからな』
 そういうロイの言葉にハボックは目を瞠った。不意にさっきの夢が蘇って恐怖と不安で胸が詰まる。ギュッと受話器を握り締めてハボックは言った。
「早く帰れそうなんスか?」
『……いや、今のところはまだ』
「……そ…スか……」
 ロイから返ってきた答えに落胆を隠しきれずにハボックは呟く。そうすればすぐさまロイの声が聞こえた。
『なるべく早く帰る。帰ったらその日の内に迎えに行くから。翌朝は私の為にプディングを焼いてくれ』
「マスタングさん……」
 ハボックは受話器がロイそのものであるようにギュッと抱き締める。少しして残念そうにロイが言った。
『すまん、そろそろ用意をして出ないと』
「あ……はい……お仕事頑張ってくださいね」
『おまえも無理するな。ああ、それと、とりあえず身の回りのものをまとめておきなさい。私が帰ったらすぐそこを出られるように』
 その言葉にハボックは込み上げる声を必死に飲み込む。出張から帰ったらではなく今すぐに迎えに来てくれと叫びたくて、だがハボックはギュッと目を閉じると一言だけ「はい」と答えた。
『じゃあ……愛しているよ、ハボック』
「オレも……オレも、マスタングさん」
 受話器を握り締めて早口で囁けばロイが笑う気配がする。カチリと接続が切れて発信音だけが響く受話器をハボックはいつまでも握り締めていた。


 夜もだいぶ更けて、本を読んでいたハボックは疲れた目を指で揉む。いつもならここで本を閉じて寝室に向かうところだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。
「マスタングさんが帰ってくるまで眠らないでいられるかな……」
 土台無理な相談だと判っていながらハボックはそう呟く。それでも眠る気には到底なれず、ハボックは再び本に目を落とした。
「……っ」
 目がショボついてハボックは目をこする。疲れた目を休める為だけに目を閉じたハボックだったが、まるでそれを待っていたかのように睡魔が襲いかかりハボックはあっと言う間に眠りの淵に引きずり込まれてしまった。


 ハッとして目を開ければこの間の夢と同じように闇の中に一人立っている。目を閉じたあの一瞬で眠ってしまった事が俄には信じられず、ハボックは呆然として闇を見つめた。
「どうして……?」
 まるで夢そのものが意志を持ってハボックを己の中に引きずり込んでいるようだ。ハボックが泣きそうになりながら鉛のような脚をなんとか踏みだそうとした瞬間、ハボックは聞こえた声に悲鳴を上げた。
「まだ逃げる気か?ジャン……」
「ヒ……ッ!」
 息を飲んで視線を上げれば目の前に男の顔がある。この間の夢より更に目鼻がはっきりした顔で、男はニヤリと笑った。
「いい加減に諦めろ。逃げられないのはお前が一番よく知っているだろう……?」
「誰っ?誰なんだよ、アンタっ!」
 堪えきれずにハボックが叫ぶ。そうすれば男が低く笑った。
「誰?そんなのお前が一番よく知っている筈だぞ」
「知らないッ!オレはアンタなんて知らないッッ!!」
 ハボックが喚けば男の笑い声が響く。
「相変わらず狡いな、ジャン……そんなに言うなら教えてやろうか?」
 男はそう言ってズイとハボックに顔を寄せた。
「思い出せ、ジャン、私は───」
「やめてッッ!!」
 男の声を打ち消すようにハボックが大声で叫ぶ。その声にハボックはハッと目を開けた。
「ハァッ……ハッ……」
 荒く息を弾ませてハボックは辺りを見回す。そこが見慣れたアパートの部屋であることを確認して、ハボックはぐったりと車椅子に沈み込んだ。
「マスタングさん……早く帰ってきて…ッ」
 そう呟いてハボックはリングをはめた手をギュッと握り締めた。


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