菫青石の恋 〜 second season 〜  第十二章


「〜〜〜〜ッッ」
 ロイはフックに置いた受話器を握り締めてブルブルと震える。
「ヤッターッ!よかったァッッ!!」
 万歳と両手を突き上げて叫ぶと、はああ、と安堵のため息をついた。
「よかった、本当によかった……」
 もう二度と顔を見たくないと言われたらどうしようかと思っていたが、ハボックの方でもまた会いたいと思ってくれていることが判って、ロイは椅子の背に体をぐんにゃりと預ける。気づかぬうちに相当緊張していたようで、ロイは肩や首を解すように回した。
『数分なんかじゃ嫌っス。もっとゆっくり話をしたいっス』
『マスタングさんが来てくれるなら、それでもう』
 ハボックの声が脳裏に蘇ってロイは首を回しながらにへらと笑う。
「まさかハボックがあんな事をいうなんて」
 いつだってハボックは遠慮がちでロイに何かを強請るなどと言うことはなかった。ロイのちょっとした誘いですらなかなか乗ってこないのがじれったいほどであったのに。
「ふ……ふふふ」
 昨日の落ち込みが嘘のように嬉しくて嬉しくてたまらず、ロイは顔をだらしなく崩して笑う。丁度その時扉をノックする音と同時にホークアイの声がして、ロイは慌てて顔を引き締めた。
「おはようございます、大佐。こちらの書類にサインを頂きたいのですが。それから今日の予定ですが───」
 書類をロイの前に差し出して言ったホークアイは、ファイルを開きかけた手を止めてまじまじとロイを見る。僅かに眉を寄せ、不気味なものを見るような顔つきでロイを見て言った。
「何かありましたか?大佐」
「えっ?いや、特になにもないが」
 答えるロイの隈が浮かんだ顔には、だが誰がどう見ても“Happy”と書いてあるように見える。一体なにがそんなに嬉しいのだろうと思いはしたものの、なにもないと言われてしまえばそれ以上追求するわけにも行かず、ホークアイはファイルを開いた。今日の予定を一つずつ告げていき最後の会食まで来たとき、それまで黙って聞いていたロイが口を開いて言った。
「会食はキャンセルしてくれ、予定が入った」
「………は?ですが、この会食は一ヶ月前から念入りにお願いしておいた筈ですが」
 業務での会食が大嫌いなロイがデートの予定など入れてしまわないように、再三再四言っておいた筈だ。現に昨日も今日の会食は必ず出るよう、口を酸っぱくして言っておいた筈なのに。
「仕方ないだろ、急用なんだ」
「どういった急用でしょう」
「私の人生がかかっている。今日を逃したら私は首をくくらなきゃならん」
 それくらい大事な用なんだ、と真剣な眼差しで見つめてくるロイにホークアイは渋面を作って見せた。
「大佐、プライベートが大事なのは判りますが、ご自分の立場も考えてくださらないと」
「立場などクソ食らえだ」
「大佐」
 ロイの言いように流石のホークアイも声を荒げる。そのままじっとロイを見つめれば、ロイも負けじと見つめ返してきた。
「頼むよ、中尉。本当に大事な用なんだ。今日を逃せば二度と取り返しがつかない。たとえ中尉がなんと言おうと、今日の会食にでる気はないよ」
 珍しくそうまで言うロイにホークアイは眉間の皺を深める。
「たとえなにがあっても出る気はないと?」
「ない」
「大佐」
「君ならなんとかしてくれるだろう?」
 そう言われてホークアイはピクリと眉を跳ね上げた。信頼してくれるのはいいが、過度の期待は迷惑だ。それもこう言うことに関しては。それでも今回はどうにも譲る気がないらしいロイに、ひとつため息をついてファイルをめくったホークアイは少しして言った。
「午後の会議を一つ明日にずらします。会食の時間を六時からに変更してもらいましょう、但し、相手の都合がつけば、ですが」
「君が言えば必ず都合がつくだろう、中尉」
「大佐」
 珍しく不機嫌を隠さずにロイを睨むホークアイにロイは苦笑する。それからまっすぐにホークアイを見つめて言った。
「ありがとう、中尉。感謝する。この埋め合わせは必ずするから」
「高くつきますよ、大佐」
「たとえどれほど高くとも払う価値があるよ」
 そう言うロイにホークアイはふと興味にかられる。彼にこれほどまでに言わせる“急用”とはなんなのだろう。
「先方と連絡を取ってみます」
 それでも口に出して尋ねることはせずにホークアイはそう言うと執務室を出ていく。尋ねなかったのは関わらない方がいいと無意識に自衛本能が働いたせいなのか。気づかないままホークアイが出ていった扉を、ロイは笑みを浮かべて見つめていた。


「ありがとうございました」
「無理を言ってすまなかったね」
「いいえ。いつもたくさん買っていただいてますし。また何かありましたらお申し付けください」
 にっこりと笑う店員に頷いてロイは店を出る。そうして通りを挟んで建つアパートの暖かい光が零れる窓をじっと見上げた。
 会食が終わる時間を考えて、どうにも洋菓子店があいている時間には間に合いそうにないと考えたロイは、あらかじめ店に連絡を入れて閉店後にケーキを買えるように手配しておいた。まだまだ話し足りなそうな相手を振りきって早々に会食の席から逃げ出したロイは、通常の営業は終了していたものの、灯りをつけて待っていてくれた店でケーキを買ったのだった。
「よし」
 ロイは自分に活を入れるようにそう言ってひとつ息を吐くと通りを渡る。今日この時をどれほど待っていただろう。一日がこれほど長く感じられたのは初めてだった。ロイはアパートの入口を入ると昨日と同じくカーテンの閉まった管理人室の窓の前を通り過ぎ、階段を上っていったのだった。


「マスタングさん、まだ仕事終わらないのかな……」
 ハボックはそう呟いて棚の上の時計を見る。針はもう九時に近くなっていたがロイからの連絡はなかった。
「急な話だし、マスタングさん、ずっと忙しそうだったもの……」
 何とかするとは言っていたものの、ロイの立場ではなかなか自分の都合だけではどうすることもできない用事もあるだろう。たとえ来られなくなったとしても仕方のないことなのだ。その上。
「一緒にケーキを食べたいなんて、馬鹿なこと言っちゃった」
 忙しいロイにそんな時間の制限をかけるようなことを強請るなんて、自分はなんて馬鹿なのか。もしかしたらこの忙しい時にそんな事をロイ・マスタング相手にいうなんて、立場をわきまえない馬鹿者だと怒っているのかもしれない。夕べだってロイの気持ちに答えられないどころか、まるで無理矢理襲われたような悲鳴を上げてしまった。考え始めればどんどんどんどん思考がマイナス方向へと向かっていく。唇を噛み締めてハボックが車椅子の上で震える息を吐き出した時。ガチャリと鍵の開く音が聞こえてハボックはハッとして顔を上げる。玄関から続く扉が開いて、ロイがケーキの箱を手に入ってきた。
「遅くなってすまなかった、ハボック」
 そう言うロイの端正な顔をハボックは目を見開いて見つめる。なにも答えないハボックに、ロイはふと不安になってハボックを呼んだ。
「ハボック?」
 もしかしたらまだ自分の事を怖がっているのだろうか。それとも怒っているのか。まずはきちんと謝った方がいいかもとロイが思った時、ハボックがロイから目を背けるようにして俯いた。ロイは持っていたケーキの箱をテーブルに置くと車椅子の側に跪く。ハボックの顔を覗き込むようにして見上げれば、ハボックがポツリと言った。
「今日はもう来ないかなぁって」
「ハボック」
「忙しいのに無理言ってごめんなさい」
 泣きそうな顔でそう言って笑うハボックにロイは目を見開く。
「昨日も……。オレ、上手に出来なくて……あんな悲鳴上げたり……」
「ハボック」
 ロイから目を逸らしてハボックは唇を噛んだ。膝の上で握り締めた手が震えているのを見て、ロイはハボックを見上げて尋ねる。
「触っても?」
 そう聞かれて一瞬目を見開いたハボックは、だがおずおずと頷く。ロイは震えるハボックの手を己の手でそっと包み込むとハボックを見つめて言った。
「お前は何も悪くないよ、ハボック。昨日の事は焦りすぎた私がいけなかったんだ。それに今日の事も、途中で一度連絡を入れるべきだった。昨日の今日なのに、不安にさせてすまなかった」
 ロイはじっと見下ろしてくる空色の瞳を見つめ返す。そうすれば沸き上がってくるのは愛しさばかりで、ロイは腕を伸ばすとハボックの体をそっと抱き締めた。
「私はお前に甘えているな。私よりずっと年下のお前に。お前にならきっと何をしても何を言っても赦されると心のどこかで甘えているんだ」
 すまない、と耳元に囁く声にハボックはふるふると首を振る。ロイは少し体を離すとハボックを間近から見つめて尋ねた。
「キスしてもいいか?」
 そう聞かれてハボックはロイをじっと見つめる。それから目を閉じると自分からおずおずと唇を寄せた。その唇がロイのそれに到達するより早く、グイと引き寄せられて迎えにきたロイの唇がハボックのそれを塞ぐ。後頭部を抱え込まれ貪るように口づけられて、ハボックは震える手でロイの上着を掴んだ。
「ん……んふ……」
 息苦しくて唇を開けばすぐさまロイの舌が入り込んでくる。きつく舌を絡め取られ、口内をまさぐられて呼吸もままならない。角度を変えて何度も何度も口づけて、ロイは漸く唇を離した。
「は……ぁっ……」
 なだれ込んできた空気に、ハボックが息を弾ませる。ロイはハボックをギュッと抱き締めるとその耳元に囁いた。
「好きだ、ハボック」
 その声に目を見開いたハボックはロイの体を抱き返す。
「オレも……」
 消え入りそうな声でそう囁いた唇は、次の瞬間再び荒々しく塞がれたのだった。


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