菫青石の恋 〜 second season 〜  第十一章


 扉に鍵をかけて階段を下りる。カーテンが閉まった管理人室の窓の前を通り過ぎてアパートの玄関まで出てきたロイは、その場にがっくりとしゃがみ込んだ。
「なんてこった……」
 両手に顔を埋めてそう呟く。漸く望みが叶うと思ったのも束の間、最低な結果に終わってロイはどっぷりと落ち込んでいた。
「そんなに飢えて恐ろしげな顔をしてたか?私は……」
 尋常でないほどハボックは怯えていた。セックスそのものの経験がないというハボックを怖がらせないよう、極力優しく触れたつもりだったのだが。
「確かに相当興奮はしてたかもしれんが……」
 好きな相手に初めて触れるのだ、興奮するなと言う方が無理だろう。それでも必死に自分を宥めつつゆっくりと進めたつもりだ。それでも、怯えきったハボックの顔と悲鳴を思い出せば十分ではなかったかと思わざるを得ない。
「こんな事は初めてだ……」
 正直初めて女性と関係を持った十代の少年の時から今まで、セックスで相手に不快な思いなどさせた記憶がなかった。
「はあああ……」
 ロイは肺の中の空気を全部吐き出すほどの勢いでため息をついて立ち上がると、深夜の通りをよろよろと帰っていったのだった。


 パタンと扉が閉まり鍵のかかる音がする。ロイが出ていってしまってから暫くしてもハボックは身動き一つ出来なかった。
 欲しいと言われて驚き躊躇ったものの、ロイの強い想いに抱かれてもいいと思った。自分とてロイを好きなのだ。ロイの言うとおり好きあう者同士、もっと相手を近くに感じたいと思うのは極自然なことなのだろうから。初めての経験に怯む気持ちはあったが、ロイを信じてロイに任せておけばいい。そう思ったはずだったのに。
『ジャン』
 そう呼ぶ声が脳裏に蘇り、ハボックは大きく体を震わせる。それは聞き慣れたロイの声ではなく、誰か知らない男のものだった。
(誰……?あんな声、知らないのに……)
 聞いたことのない筈の声はだが、ハボックの心に底知れぬ恐怖を呼び起こす。ほんの少し思い出しただけで体は震え、恐怖に心臓が飛び出そうになった。薄暗い部屋で自分に圧し掛かるロイが違う男のように見え、その手が触れた瞬間悲鳴が唇をついて出た。怖くて怖くてどうすることも出来なくて。
(マスタングさんに悪いことしちゃった……)
 自分を好きだと言ってくれ、欲しいと言ってくれた。何も知らない自分を怖がらせたりしないよう、精一杯優しく触れてくれたのに。
「マスタングさん……ッ」
 ロイに対して申し訳ないと思う気持ちと、ロイの想いにきちんと答えることが出来なかった後悔と、そして。心底に横たわる恐怖と。
せめぎあう諸々の感情に心をかき乱されて、ハボックはポロポロと涙を零したのだった。


「おはようございま───」
 ガチャリと開いた扉に反射的に挨拶の言葉を口にしようとしたフュリーは、ロイの顔を見て思わず口を噤む。まるで墓場から出てきたゾンビのような足取りで司令室に入ってきたロイは、足を止めるとのろのろとフュリーの方へ顔を向けて言った。
「ああ、おはよう、フュリー曹長」
 目の下にくっきりと隈を作って寝不足で開ききらない目で見つめてくるロイに、フュリーはパチパチと眼鏡の奥の目を瞬かせる。それから心配そうにロイの顔を覗き込むようにして言った。
「あの……どこか具合が悪いんですか?顔色よくないですけど」
 そう聞かれてロイはフュリーをじっと見る。無言のままじっと見つめられて、居心地の悪くなったフュリーが何か言おうとした時、ロイが漸く口を開いた。
「いや、どこも悪くはないよ、ちょっと考えごとをしていたら眠れなくてね」
 ロイはそう言ってため息をつく。そのまま執務室に行きかけて何かを思いついたように足を止めると再びフュリーを見て言った。
「私の顔はそんなに獣じみてイヤラシいかな、フュリー曹長」
「は?」
「近づいたら悲鳴を上げて逃げたくなる程、恐ろしいかい?」
 そう言うロイの顔は寝不足で、いつもの美丈夫ぶりはなりを潜めている。それでも決して獣とか恐ろしいとかいう言葉とは大きくかけ離れていて、フュリーは首を傾げて答えた。
「それはまあ、寝不足でちょっと疲れてるなぁって顔はされてますけど、別に獣じみてもいなければ恐ろしくもありませんよ?寝不足でも十分カッコいいと思います」
 最後の方はどうやら落ち込んでいるらしいロイへの気遣いでそう言うと、フュリーはにっこりと笑う。だが、ロイは再び深いため息をつくと、何も言わずに執務室に入ってしまった。
「どうしたのかなぁ、大佐。寝不足になるほどの悩み事ってなんだろう」
 いつでも自信満々のロイの見たこともない様子に、心配して眉を寄せるフュリーだった。


 執務室に入るとロイは体を投げ出すようにして椅子に腰を下ろす。べちゃあと机に懐いてロイはため息をついた。
 夜もだいぶ更けて家にたどり着いたロイは、ベッドに入ったものの次々と浮かぶ考えに全く寝付けなかった。
(やはりもっといっぱいキスをしてからにすべきだったかもしれん)
(いや、キスの前にもっと“愛している”と伝えるべきだったんだ。そうでなくてもハボックは私がどれほどアイツに惹かれているか判っていないところがあるんだから)
(それなのに早々にベッドに連れ込んで押し倒してしまったから…っ)
(シャツを脱がせて抱き締めた時、相当鼻息が荒かったかも……)
(いやでも、あんなにかわいいハボックを目の前にしたら誰だって……ッッ)
 初めてのセックスに失敗した少年のように悶々と思い悩んでロイは深いふかいため息をつく。
「でも……かわいかった……」
 冷たい机に頬を押しつけてそっと目を閉じれば自分を見上げてくるハボックの顔が目に浮かんだ。恥じらいに頬を染め、緊張で大きく目を見開きながらも自分を信じて受け入れようとしてくれた。
「それなのに……私はなんてバカなんだ……ッ、あんなに怯えさせてしまうなんてッ」
 ゴンゴンと机に額を打ちつけてロイは呻く。暫くの間自分を罵っていたが、やがてゆっくりと視線を上げると目の前の電話を見た。じっと見つめて、それからゆっくりと受話器に手を伸ばす。触れようとして、だがロイはあとほんの数センチと言うところで手を止めた。
(怒っているかもしれない……)
 初めてのセックスであそこまで嫌な思いをさせてしまったのだ。もう二度とロイの顔など見たくないと思っているかもしれない。ロイは一瞬よぎった考えに眉を寄せたが体を起こすと受話器を握り番号を回した。
(一度くらいの失敗で後込みしてどうする!しっかりしろ、ロイ・マスタング!本気でハボックを好きなんだろう?!)
 ロイは心の中で自分を叱咤すると、呼び出し音に続いて相手の声が聞こえてくるのを待った。


 リンと鳴り出した電話にハボックはビクリと体を震わせる。車椅子を電話のところまで動かすと、迷った末受話器を取った。
「……もしもし」
 小さな声でそう言えば電話の向こうで息を吸い込む音がする。
『ハボック、私だ』
 それに続いて聞こえた声にハボックは目を見開いて受話器を握り締めた。ハボックが何か言うのを待つように、少し間を置いてから再びロイの声が聞こえる。
『その……夕べは悪かった……遅くに押し掛けた上、あんな……』
 いつもなら考えられないほど歯切れの悪いロイに、ハボックは何か言わなくてはと思うが上手い言葉が見つからない。受話器を握り締めたまま唇を噛んでいたハボックは、暫くの沈黙の後聞こえてきた言葉にハッとして顔を上げた。
『朝っぱらからすまない。一言謝りたくて……また連絡する』
 じゃあ、と言って切れそうになる電話にハボックは慌てて叫ぶ。
「マスタングさんっ!」
『……なんだ?』
 切羽詰まった声で叫べば一瞬の間の後ロイの声が聞こえてハボックはホッと息を吐いた。
『ハボック?』
 それでもまたそのまま沈黙を続けていると、ロイが心配そうに呼んでくる。ハボックは受話器を握り締めて何度も息を吸うとやっとのことで言った。
「オレの方こそすみませんでした……マスタングさんに不愉快な思いさせてしまって……」
『そんなことはない、私の方こそ怖がらせてしまって悪かった。初めてだと判っていたのに……』
 ロイの言葉に怖かったのはロイではないのだと言おうとして、ハボックはあの時の自分の恐怖を説明できない事に気づく。どうしたらいいのだろうと悩んでいると、ロイが遠慮がちに尋ねてきた。
『今夜そっちに行ってもいいか…?……あ、勿論何もしない、話をしに行くだけだからッ!話をしたくないなら顔を見るだけでもいいッ』
「……でも、マスタングさん、忙しいんじゃ……」
『仕事なら何とかする、ほんの数分でいいからっ』
 必死に言い募るロイの声を聞いていたハボックはひとつ息を吐いて目を閉じる。それから目を開けて受話器を握り直すと言った。
「ほんの数分なんかの為に来ないでください」
『…ッ、ハボ……っ』
「数分なんかじゃ嫌っス。もっとゆっくり話をしたいっス」
 そう言えば受話器の向こうで息を飲み、それからゆっくりと安堵のため息を零すのが聞こえる。それを聞いてハボックは笑みを浮かべると強請るように言った。
「ケーキ食べたいっス。二人でケーキ食べてお茶飲んで……話をしたいっス」
『判った、ケーキを持っていくよ。他に何か欲しいものがあるか?』
「ないっス。マスタングさんが来てくれたら、それでもう」
 ハボックの言葉に受話器の向こうで優しく笑う気配がする。ハボックは今夜の約束を取り決めると受話器をそっと戻したのだった。


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