菫青石の恋  第九章


「ハボック、おい、ハボック」
 ぼんやりと休憩室のソファーに座っていたハボックは自分を呼ぶ声にハッとして顔を上げる。
「あ、時間?ごめん…」
 そう言って慌てて立ち上がったハボックは眩暈がして咄嗟にソファーに手をついた。黒づくめの服を着た男、ブルーノがハボックの顔を覗き込む。
「大丈夫か、顔色が悪いな」
 そう言って手を伸ばすとハボックの額に触れて顔を顰めた。
「熱があるじゃないか」
「たいしたことない、平気」
「ハボック」
 部屋を出て行こうとするハボックの腕をブルーノは咄嗟に掴む。ハボックの青白い顔を見て言った。
「お前、この間セントラルに行ってから様子が変だな。よほどシュトフに酷い事されたんじゃ…」
 だが何も答えないハボックにブルーノは唇を歪める。
「あの野郎、やけにお前に執着してるからな。資産家の出だかなんだかしらねぇが金に物言わせやがって」
「ここは金のあるヤツがいい思いをするところだろう。オレ達は商品なんだ。商品は何されても文句は言えないんだ」
 ハボックの言葉にブルーノは目を瞠る。ハボックはブルーノの手を振りほどくと聞いた。
「次の客、誰だっけ…?」
「ん?ああ、マスタング大佐だ。あの人はいいよな、紳士的だし――ハボック?どうかしたのか?」
「…な、んで、マスタング大佐が来てるの?」
「何言ってるんだよ、いつも時間が取れるときは2日とあけずにくるじゃないか」
(だって、あんなとこ見られたのに…)
 セントラルに出張中のロイに、公園のろくに身を隠すこともできないような場所でシュトフに犯されているところを見られてしまった。あんな浅ましい姿を見られて、もう二度と会えないと思っていたのに。
「おい、ハボック。お前、本当に大丈夫か?」
 真っ青になっているハボックをブルーノが心配して言う。だが、ハボックは何も言わずにブルーノを押しのけると部屋を出て行ったのだった。

 ノックをして扉を開ければそこにはいつものようにロイが座っていた。ハボックは中へ入って扉を閉じるとそこから動かずにロイを見る。何も言わずに自分を見るロイにハボックは口を開くと言った。
「なんで来たんスか?」
「ハボック?」
「あんなとこ、見たのに、なんで?」
「会いたかったからだ。それにお前も待っているからと言ってくれたろう?」
 まっすぐに見つめてくる黒い瞳から目を逸らしてハボックは浅い呼吸を繰り返す。何度も唾を飲み込むとロイを見ずに言った。
「あんな人目につくところでセックスしてるの見て、軽蔑しないんスか?それともそんなの男娼だから当たり前だと思ってるんスか?」
「ハボック、私は――」
「帰ってくださいっ!!」
「ハボックっ?!」
「もう二度とこないでくれっ!!」
 ハボックの言葉に驚いて立ち上がるロイから逃れようとするようにハボックは扉に背を預ける。あんなところを見たにもかかわらず、ロイが変わらず訪ねてくるのはロイが自分の事を男娼だと割り切っているからだとハボックは思った。自分とは住む世界の違う、決して手の届かない人だとはわかっていたが、それでも客と男娼としてなどではなく、友人程度には思ってくれないだろうかとロイの訪れを待っていたハボックは自分のそんな考えが単なる夢にしか過ぎないのだと思い知らされた気がした。例えそこが人目につく場所だろうが客に求められれば抗わずに脚を開いている自分をそれが男娼だから当たり前なのだと思われているのだとしたら、それはあまりにも耐えがたかった。自分が進んで男に身を任せているのだと思われているのだとしたら。
「ハボック、私はお前が――」
「もう、待ちません。アンタが来るのを待ったりしませんっ!」
「ハボック…っ?」
「もう二度と待ったりしないっ!だからここへは来ないで…っ」
 ハボックはそう言うと部屋を飛び出していってしまう。
「ハボックっっ!!」
 慌てて追いかけたロイだったが、だが幾つか角を曲がるうちにその姿を見失ってしまう。
「ハボック…」
 自分の想いを告げるどころか突然会いに来るなとハボックに突っぱねられて、ロイは呆然としてただ立ち竦んでいたのだった。

「ハボック、貴様っ、どういうことだっ!マスタング大佐に会いたくないなんて!!」
 バンッと机を叩いて怒鳴る支配人を前にハボックはうな垂れる。それでも唇を噛み締めると言った。
「どうしても嫌なんです。会いたくないんです」
「何でだっ?セックスを求めない、話をするだけで、しかもあんなに金払いのいい客は他にいないんだぞっ!」
「その分他の客を取りますからっ!だからマスタングさんだけは…!」
「何人とればマスタング大佐1人分の払いになると思ってるんだっ!!」
 支配人の言葉にハボックは言葉を失う。唇を震わせて立っていたがやがて意を決したように言った。
「じゃあ、エゴロフに連絡取ってください。あの人、金ならいくらでも出すって言ってるでしょう?」
「エゴロフはダメだ、ハボックっ!」
 側で聞いていたブルーノが叫ぶ。支配人の方を見ると言った。
「支配人だって知ってるんでしょう?エゴロフはダメだ、性質が悪い。アイツに食い物にされて死んじまったやつだっているんですよ?アイツだけはどんなに金を詰まれても入れるなってずっと言ってたじゃないですかっ!」
 ブルーノの言葉に考え込んでいた支配人だったがハボックを見つめると言う。
「何をされても我慢できるか?」
「支配人っ!!」
「お前は黙ってろ、ブルーノ。ただ話をしてればいいマスタング大佐と会いたくなくてエゴロフを呼べと言ったのはコイツだ」
 鋭い目つきでハボックを見つめると言葉を続ける。
「遊びで商売やってるんじゃないんだよ。マスタング大佐が嫌だと言うならそれに見合うだけの金を払えるヤツの相手をするのは当然だろう。そうだな、ハボック」
「はい、支配人」
「よし、じゃあエゴロフに連絡を取るぞ」
 そう言って部屋を出て行く支配人の背を見送ったブルーノはハボックを振り向いて言った。
「ハボック、お前、どうして…っ」
「いいんだ、いいんだよ、もう」
 もう自分には何も残されてはいないのだからと、堕ちるところまで堕ちてしまえばいいのだ。
 そう思って笑みを浮かべるハボックにブルーノは何も言うことが出来なかった。

「どういうことだ?どうしてハボックに会えないっ?」
 ロイは受話器の向こうの相手に怒鳴る。この間ハボックに「二度と来るな」と言われて以来、何度ハボックとの時間を取ろうとしても、断られる日々が続いていた。
『申し訳ありませんが予約が立て込んでおりまして』
「今までは会えていただろうっ?何故突然会えなくなるんだっ?!」
『今までとは事情が変わったのです。他の者でしたら手配できますが』
「ハボックでなければ意味がないっ!!」
『そういうことでしたら時間が取れるようになり次第こちらからご連絡させていただきます』
相手はそう言うとロイの返事を待たずに電話を切ってしまう。ロイは受話器を握り締めたまま呆然としていたが、我に返ると叩きつけるように受話器を置いた。 
「どうして、どうしてだ、ハボック…っ」
 ようやく自分の気持ちに気づいたロイは、ハボックにその事を伝えて、そうして彼をあそこから連れ出したいと思っていた。そのためには何でもするつもりだったし、それほどまでにハボックが欲しかった。だが、肝心のハボックが会ってくれないのでは話にならない。
「…一体どうしろというんだ…っ」
 ロイは窓の向こうのハボックの瞳と同じ色の空を見上げて爪が食い込むほど手を握り締めた。


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