菫青石の恋  第三十六章


 ゆっくりと梯子を上って屋根裏に上がるとそこは明り取りの窓から射し込む夕陽でオレンジ色に染まっていた。窓の近くで全身を金色に染め上げて座っているハボックの姿にロイは目を見開く。言葉をかけられずに黙ったまま見つめていれば、ハボックがゆっくりと振り向いた。少しの間ハボックはその空色の瞳でロイを見つめていたが、ふいと視線を窓の外に戻すと呟くように言う。
「マスタングさん、オレ、この家、出て行きます」
 ハボックはそう言うとゆっくりと立ち上がった。まっすぐにロイを見つめて続ける。
「今まで色々ありがとうございました。マスタングさんといられて凄く嬉しかった。でも、もう十分っスから。オレはここを出て行きますからマスタングさんはマスタングさんとつり合う人とどうか幸せになって下さ――」
 ハボックがそこまで言ったとき、立ち尽くしていたロイの腕が伸びてハボックを引き寄せた。突然ギュッと抱き締められて、ハボックは逃れようとしてもがく。
「や…マスタングさん、離し…っ」
「離さない。お前がなんて言おうとも絶対離さないと言っただろう」
 ロイはそう言って噛み付くように口付けた。
「んんっ…んーっっ」
 きつく舌を絡めてくるロイをハボックは必死に押しやる。だが逃れようとすればする程、唇は深く合わさりきつく抱き締められた。
「あ…ふ…」
 ロイはハボックの体を抱き締めながらその耳元に唇を寄せる。薄い皮膚に歯を立てればハボックの体がビクリと震えた。
「お前が欲しい、ハボック…っ」
 ロイがそう囁けばハボックの瞳が見開かれる。
「ずっとずっと欲しかった。でも、欲望をぶつけてしまえばお前の傷を広げてしまうと思っていた。大事にしたかったんだ、大切に抱きしめて誰よりも幸せにしてやりたくて…。その為には自分の欲望は押さえ込まなくてはいけないと思っていたんだ。独りよがりの優しさで、それがお前の為だと思い込んで、お前が私の態度をどう受け止めるかなんて考えてもみなかった。挙句の果てにはお前を不安にさせて、こんな顔をさせて…っ」
 ロイはそう言うとハボックの頬を撫でた。
「もう二度とこんな顔はさせないと誓ったくせに、何をやっていたんだろう、私は。お前が好きだ、お前が欲しい。お前の全てを私にくれ、ハボック」
 そう言って見つめてくる黒曜石の瞳をハボックは呆然と見つめる。それからゆっくりと首を振った。ロイを押しやるようにして俯くと何度も首を振るハボックをロイはギュッと抱き締める。
「愛してる、ハボック。愛してるんだ。お前の全てが欲しい」
「もう十分だって言って…っ」
「何が十分なんだ?まだ何も始まっちゃいないだろうっ」
 そう言われてハボックは目を見開いてロイを見つめた。ロイは空色の瞳を覗きこんで言う。
「お前と一緒に暮らし始めて、でもまだ私達は何も始めてない。私はお前と一緒に歩いて行きたいんだ。この先もずっと一緒に」
 そうしてハボックの目元に触れて言った。
「お前の全てを私にくれ、ハボック」
 そう告げて真摯に見つめてくる黒曜石の瞳に。
 ぱた。
 ぱたぱた。
 見開かれた空色の瞳から涙が零れて落ちる。
「泣くな、お前が泣くと空が泣いているみたいだ」
 ロイがそう言えばハボックの顔がくしゃくしゃと歪んだ。
「うっ…くぅっ…うっうっ」
 子供のように泣きじゃくるハボックをロイが抱き締めればハボックがロイに聞く。
「オレもアンタを欲しいと思っていいんスか…?オレはこんなに汚れてるのに…」
 浅ましいと、汚らわしいと詰られたりはしないのだろうか。
「私がお前を欲しいと思うように、お前も私が欲しいと思ってくれればとずっと思っていた。それに私はお前が汚れているなどと思ったことはただの一度もない」
 優しく笑ってそう告げるロイに。
「オレもアンタが欲しい…オレをマスタングさんのものにして…っ」
 そう囁くハボックの唇をロイは己のそれで塞いだ。

 ベッドの上にハボックの体を横たえる。白いシーツに広がる金糸に縁取られた頬にそっと手を添えてロイはハボックに口付けた。最初は啄ばむようにそれから段々と深く、舌を絡め歯列をなぞり頬の内側を丹念に擦っていけば次第にハボックの息が上がっていく。ロイがシャツのボタンに手をかけるとハボックの体がピクリと震えた。宥めるように口付けを落とすとロイはボタンをゆっくりと外していく。シャツの前をはだけ、現れた白い肌に唇を寄せた。首筋から鎖骨に舌を這わせ肩からシャツを落とそうとすればハボックの手がシャツを掴む。最初は恥らっているのかと思えたが、ハボックの様子がおかしい事にロイは眉を顰めた。
「ハボック」
 そう呼べば瞳をキュッと閉じて襟元を握り締める。指が白くなるほど力を込めて握っているハボックの手にそっと触れてロイは言った。
「何を隠している?」
 そう尋ねればハボックがハッと目を見開く。まっすぐに見つめてくる黒曜石の瞳に縛られたように瞬きすらできないでいるハボックにロイは言った。
「見せろ」
 そう言って握られた指を1本1本外していく。ハボックの背に手を回してその身を起こそうとした時、初めてハボックが抗うように身を捩った。
「やっ…やだっ」
 逃げようとする体を引き戻してロイは強引にシャツを剥ぎ取ってしまう。白い肌にくっきりと浮かんだ焼印を目にしてロイは息を飲んだ。
「…誰にやられた?」
 低い怒気を含んだ声にハボックは身を震わせる。何度か浅い呼吸を繰り返した後、消え入りそうな声で答えた。
「シュトフ大佐に…身請けが決まった後、所有の、し、るしだって…」
 ハボックはそう言った瞬間、背に走った鋭い痛みに悲鳴を上げる。ロイが肌に浮かぶ焼印に噛み付いたのだと気付いたのはその歯が更に肉に食い込んだ後だった。
「い…たっ」
 ロイが歯を立てた箇所から血が流れるのを感じる。ハボックはシーツを握り締めて痛みに耐えていたが、やがて肩越しにロイを振り向くと言った。
「焼いてください…」
 掠れた声でそう言えばロイが唇を離す。ハボックはロイの方へ向き直るとロイの唇についた血を舌先で舐めて言った。
「アンタの焔で焼き潰して…。どんなに醜い痕になってもいいっスから。こんなものつけたままアンタに抱かれたくない。だから…っ」
 そう言うハボックの唇をロイが塞ぐ。きつく舌を絡めた後僅かに唇を離し、「わかった」と呟いた。
 ロイはハボックの体を離すと立ち上がって部屋を出て行く。少しして発火布の手袋と細い筆とインク壺を持って戻ってきた。
「醜い痕などにはさせん」
 ロイはそう言うと見上げてくる空色の瞳を見つめる。
「私が誰だか忘れたのか?私はロイ・マスタング、焔の錬金術師だ」
 そう言えばハボックの瞳が一度大きく見開かれ、それから笑みに解けた。ロイはハボックに軽く口付けて言う。
「モルヒネを使うか?」
 ロイの問いにハボックが首を振った。
「つけられた時もそんなもの使わなかったっス。気が遠くなるような痛みと肉の焼ける匂いの中、オレは印が肌に刻まれるのを感じてた。だから、今度もそんなものいらない。アンタがオレの体からこの忌まわしい印を消してくれるのを感じていたいっス」
 ロイを見つめてそう言うハボックにロイは口付けるとベッドに俯せになるように言う。ハボックは言われるままにベッドに伏せた。噛み付いた傷口から滲む血を拭うと筆にインクを含ませ傷口を中心に錬成陣を描いていく。細い筆が肌をなぞるくすぐったさと傷の痛みとにハボックはキュッと唇を噛んだ。
「医療用の錬成術なんだ。以前戦地にいた頃施術しているのを見たことがある。大きな傷には使えないがこの程度の傷なら私でも何とかできる」
 ロイはそう言って錬成陣を描いてしまうと筆を置く。シュッと手袋を嵌めると言った。
「傷を焼くのと修復と同時にやる。動くな」
 そう言われてハボックは小さく頷くと瞳を閉じる。シーツを握り締める手が微かに震えているのを見てロイはハボックの傷にキスを落とした。
「私を信じろ、ハボック」
「は、い…」
 消え入りそうな声で答えるハボックの頬にもう一度口付けてロイは左手の指でハボックの傷口に触れる。手袋を嵌めた右手をかざして言った。
「いくぞ」
 言うと同時に指をすり合わせる。眩い光と紅蓮の焔が煌めきハボックの唇から悲鳴が迸った。
「アアア―――ッッ!!」
 ギュッとシーツを握り締め、空色の瞳を大きく見開きながらそれでもハボックは言われたとおり必死に動かずにいた。焼印の刻まれた皮膚が焼け爛れていく感触とその細胞が再生されていく感触に、全身が慄いて粟立つ。
「あ、あ、あ」
 ゾッとするようなその感触にハボックの精神が焼け切れそうになる寸前、ハボックの意識はぷつりと途切れ闇に沈んでいった。


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