菫青石の恋  第三十五章


 そうして互いを想いながらも僅かにすれ違った心を抱えながら二人は日々を過ごしていく。日を追うにつれハボックの顔からは笑みが消え、食事も進まなくなっていき、またそれを見守るロイは自分の感情を持て余してはハボックに当たることが多くなっていった。
「…またろくに食べてないじゃないか」
 殆んど手付かずの皿を見てロイが言う。大きな体を縮こまらせているハボックにロイはため息をついた。
「言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
 そう言われてハッと顔を上げたハボックの唇が何か言いたげに震えたが、結局は何も言わずに俯いてしまう。「ごめんなさい」と呟くように言うとハボックは立ち上がった。そのままロイの顔を見ずに部屋を出て行こうとするハボックの体がふらりと傾ぐ。
「ハボックっ?!」
 慌ててロイが差し伸べた手は、だがほんの少しのところでハボックを支えきれず、ロイはハボック諸共に床に倒れ込んでしまった。
「アッ!」
「く…っ!」
 床に手をついて身を起こそうとしてロイはギクリと体を強張らせる。まるで組み敷いたようにハボックに圧し掛かっている自分に気付いて、ロイは目を見開いてハボック見下ろした。
「あ…」
 呆然と自分を見上げる空色の瞳。浅い呼吸を繰り返す唇。ごくりと唾を飲み込んだロイはハボックの頬に手を伸ばす。頬を撫で、首筋を辿った指先がハボックのシャツの襟元にかかった時、ハボックがビクリと震えた。
「い、やっ!」
 途端にハボックの唇をついて出た悲鳴にロイはハッとする。微かに震えるハボックの上から慌てて身を離すと、ロイはハボックに背を向けた。
「すまん…支えようと思って…っ」
 口ごもるように言うロイの背後でハボックが立ち上がる音がして、ロイは振り向く。その空色の瞳に浮かぶものに気付いてロイは目を瞠った。
「ハボック、お前…」
「す、みません、オレ…っ、ちょっと休んで…っ」
「ハボ…っ」
 ロイが伸ばした手を振り払うようにして部屋を出て行くハボックをロイは呆然と見送る。ハボックの頬に触れた手を見下ろして唇を震わせた。
「わ、たしは…っ、私はなんてことを…っ」
 ハボックを怯えさせてしまった。偶然にも押し倒すような形になってしまったハボックに欲情してしまった自分を罵ってロイはよろりとふらめいた。支えるようにテーブルに手をつくと、そのままドサリと椅子に腰を落とす。自分の気持ちを持て余したロイは、どうしていいか判らず両手に顔を埋めて震える息を吐いた。その時、リンと鳴った電話のベルにロイは僅かに顔を上げる。だがすぐに立ち上がることも出来ず、ぼんやりと鳴り響く電話を見つめていたが、しつこく鳴り響くそれにのろのろと立ち上がると、ロイは受話器を持ち上げた。
「もしもし」
 呟くように受話器に吹き込めば。
『よお、ロイ。うまくやってるか?』
 聞こえてきたのは能天気な親友の声。
「…ヒューズ。何の用だ」
『なんだよ、せっかく電話してきた親友への第一声がそれか?』
 ロイちゃん、冷たい、と受話器の向こうで喚きたてるヒューズにロイは思い切り顔を顰めると言う。
「用がないなら切るぞ」
『わわ、そりゃないぜ。アイツとどうしてるか心配して電話してやってるのに。司令部の方に電話したらラブラブ新婚休暇中だっていうからさ』
「何がラブラブなもんか」
 からかうようなヒューズの言葉にロイが憮然として答えた。一瞬の間を置いてヒューズが聞く。
『うまくいってないのか?』
 そう聞いてくるヒューズにロイは少し迷ってから答えた。
「どうすればいいのか判らないんだ」
 ロイはそう言うと受話器をグッと握り締める。
「食事もろくに取らない。口数が減って笑わなくなった。さっきだって酷い顔色でふらふらしてて。何とかしてやりたい。だが、何とかしてやるどころか、私はアイツを…っ」
『どういうことだ?まさか昔のことを責めたりしたんじゃないだろうな、お前』
「そんなことする筈ないだろう」
 ロイはムッとして答えると言葉を続ける。
「アイツがこれまで散々傷ついてきたことくらい私にだって判る。だからできるだけ大事にしてやりたいと思ってるんだ。大切に守って幸せにしてやりたい。これ以上傷つけたりしないように守ってやりたい。なのに私はこともあろうにハボックを――」
『あー、ちょっと待て、ロイ君』
「なんだ」
 自分の話を遮られてロイが不機嫌そうに聞けばヒューズが言った。
『もしかしてお前、アイツに何もしてないとか?』
「キスはしてるぞ。抱きしめて“愛してる”と囁いて――」
『ロイ』
「だからなんだっ」
 一度ならず二度までも遮られてロイは苛々と答える。受話器の向こうでヒューズがため息をつくのが聞こえてムッとしたロイが口を開こうとした時、ヒューズが言った。
『お前が恋愛初心者だってこと、忘れてたわ、俺』
 そう言われてロイは眉を顰める。ロイが何も言わないのをいい事にヒューズは続けた。
『あのな、子供の恋愛ごっこならともかくいい年した大人が好きな相手を前にして手を出さないなんてことがあるかよ』
「お前、私にハボックを襲えと言うのか?」
『襲うんじゃねぇだろ、愛してるって気持ちを伝えんだろう』
 受話器の向こうからヒューズが諭すように続ける。
『その辺にいる女の子との恋愛ならそういうのもアリかも知れん。ゆっくり焦らずってのもな。でも、ハボックは違うだろう?お前、アイツが今までどういう生活してきたか判ってるんだろ?散々酷い目に遭ってきて辛い思いして、そうやってずっと一人で生きてきたんだろう?』
「それが判っているから大事にしてやりたいと思ってるんだ」
『じゃあ聞くがな、ロイ。お前がハボックを大事にしてやりたいと思ってる気持ち、ちゃんと相手に伝わってんのか?不安にさせてんじゃないのか?』
「…どういうことだ?」
 さっぱり判らないという体のロイにヒューズは言った。
『ハボックは今まで自分がしてきたことでお前に引け目を感じてるだろうってことだよ。お前に“愛してる”って言ってもらって抱き締められてキスされて、最初はそれだけで嬉しかったろうよ。でもな、好きな相手と二人きりで暮らしてて、朝だろうが昼だろうがいつだって好きなときに据え膳食える状況で全く手も出されなかったらやっぱり思うだろう、もしかしたら本当は愛されてなんかいないんじゃないか、ただの同情じゃないのか、手を出してこないのはきっと自分が汚れているからだ、しかも相手は天下の焔の錬金術師サマで自分は男娼上がりで、やっぱりこんな関係は不自然だって』
「ハボックが汚れているだなんて思ったことは一度もないし、それに私はそんなご大層なものじゃないぞ」
『お前がどう思っているかなんて関係ないんだよ。ハボックは恐らくそう思ってるだろうってことだ。不安なんだろう、食事を取れないのも、笑わなくなったのも不安でたまらないからだ。いや、不安を通り越して傍にいるべきじゃないとか思ってるかもしれんな。もう何年もセックスって名の暴力で虐げられて、愛し合う行為としてのセックスなんて知らないんだろう?もしアイツがお前に対してセックスしたいっていう気持ちを抱いたとしたら、アイツは自分で自分を責めるだろう、違うか?』
 ヒューズの言葉にロイはさっきのハボックの瞳を思い出した。不安と悲しみと絶望に彩られた綺麗な空色の瞳。あんな顔は二度とさせないとそう誓ったはずなのに。
「…ヒューズ、私はどうしたらいい?」
『伝えるしかないだろう?お前がどれだけハボックを大切に思って愛してるかってことを。言葉なんかじゃなくて全身で伝えてやれよ。それしかないだろう?』
 優しくそう言うヒューズの声に、ロイは一度瞳を閉じるとゆっくりと息を吐いた。それから目をあけると言う。
「ありがとう、ヒューズ。感謝する」
『おう。うまくいったら一杯奢れ』
「うまくいくに決まってるだろう、私を誰だと思ってるんだ」
『ははっ、ま、頑張れ』
「ああ、じゃあな、ヒューズ」
 ロイはそう言うと受話器を置いた。ハボックを大切に大切にと思う気持ちばかりが先走り、空回りしていた事に気付かされてロイは苦笑する。部屋にこもってしまったハボックに自分の気持ちをきちんと伝える為に、ロイはリビングを出ると2階へと駆け上がっていった。

 ノックをするのももどかしくロイはハボックの部屋の扉をあける。目の前には大きく開け放たれた窓、だが、ハボックの姿はなかった。ロイは慌てて部屋の中に飛び込むと窓から下を覗く。見下ろしたそこにはただ庭の芝生があるだけでロイはホッと息を吐いた。
「安心してる場合じゃない、どこに行ったんだ?」
 そう呟くとロイはきょろきょろと部屋の中を見渡す。玄関から出て行く音はしなかった。ということは家の中にいる筈だ。ロイは部屋を出ると一つ一つ部屋を見て回る。ふとめぐらせた視線の先に屋根裏へと続く梯子が下りているのをみつけて、ロイは1つ瞬くと近づいていった。

 ハボックは小さな窓から見える空をぼんやりと見つめていた。一日の終わりを告げて茜色に染まっていく空は燃えるようで、想い人の操る焔はこんななのだろうかと思う。ハボックはさっきロイに偶然にも組み敷かれる様に圧し掛かられた時のことを思い出して震える息を吐いた。
(もう、限界だ…)
 これ以上傍にいたらきっと自分は強請ってしまう。ロイの腕に抱かれたいと、体中にキスを降らせてその熱で自分を犯して欲しいと、浅ましくも強請ってしまうだろう。もしそうしたらなら、きっとロイは自分を軽蔑するに違いない。結局は男に脚を開くことに何の抵抗もない男娼なのだと思われるだろう。
(それだけは絶対にイヤだ…っ、そうなる前に出て行かなくちゃ)
 ハボックがそう思ったとき、梯子が軋む音がして振り向けばそこにはロイが立っていた。


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