菫青石の恋  第三十四章


 家に戻るとリビングにハボックの姿はなかった。大きく開け放たれたままの窓を見て、すっかり冷え切ってしまっている室内にロイは眉を顰める。パタンと窓を閉めて暖房のスイッチを入れるとロイは2階へと上がった。そっと扉をあければカーテンを引いた部屋の片隅でハボックが小さく縮こまるようにして座っていた。
「ハボック」
そう声をかければ空色の瞳がロイを見る。何の感情も伺えぬ瞳に、ロイはふと不安になってハボックの傍へと寄った。
「どうした?気分でも悪いのか?」
 そう聞けばハボックは首を振る。ハボックの腕を掴んで立たせるとロイは部屋の扉へと向かった。
「司令部の近くでサンドイッチを買ってきた。少し遅くなったが昼食にしよう」
 そう言って出て行くロイの背をハボックはじっと見つめていたが、後を追って部屋を出る。階段を下ってダイニングに入ればもうロイがサンドイッチを広げているところだった。
「評判の店でな、パンが美味いんだ」
 そう言いながらロイはカップを差し出す。温かい湯気を上げるスープをハボックに勧めた。
「これもそこで作っているんだが、なかなかいけるぞ」
 ロイは微笑んで腰を下ろすとハボックを促して食事を始める。「いただきます」と呟くように言ったきり、黙々と食事を続けるハボックにロイは言った。
「中尉に怒られてしまったよ。あまりお前を泣かせるようなことをすると自分が貰い受けるとまで言われてしまった」
 そう言って苦笑するロイにハボックの手が微かに震える。それに気付かずにロイは言葉を続けた。
「勿論断わったがね」
 そう言うロイをハボックがチラリと見れば黒い瞳が優しく笑う。ハボックは慌ててスープに目を戻すと、綺麗な黄金色のそれを見つめた。表面に己の顔が映っている事に気付くとスプーンでそれをかき回す。スプーンですくって口に運べば体に伝わる温かさに涙が出そうになった。
(もう少しだけ一緒にいてもいいだろうか…)
 こうしてロイと囲むささやかな空間が愛おしい。ロイが自分に向けてくれる優しさを手放したくなくて。
 己の内に潜む欲望から必死に目を逸らして、ハボックは黙ったまま食事を続けたのだった。

 俯き加減で食事をするハボックの長い睫を見ながらロイはそっとため息をついた。ホークアイに言われるまでもない、ハボックを大切にしたいと思っているし、そうするつもりだ。だが、そう思いながらも時折突き上げる欲望に、ロイは流されてしまいそうになる自分を抑えるのが必死だった。今もこうしてハボックの長い睫に縁取られている空色の瞳を見つめていれば、その綺麗な空色を涙で濡らしたくなる。己の熱でハボックを貫いて、縋りつかせたいと思ってしまう。
(これじゃシュトフたちと変わらないじゃないか)
 ロイはそう思って僅かに眉を顰めた。大事にしなくては。その為には己の欲望などハボックに見せてはいけないのだ。優しく抱きしめてキスをして。今のハボックにそれ以上の欲望をぶつける事はするまいと、ロイは必死に己に言い聞かせたのだった。

「ごちそうさまでした」
 そう声が聞こえて物思いに沈んでいたロイは慌てて顔を上げる。スプーンを置いたハボックの前の皿が殆んど手付かずなのを見てロイは顔を顰めた。
「口に合わなかったか?」
「いいえっ、その、ちょっと食欲がなくて…」
 ごめんなさい、と俯くハボックにロイは手を伸ばす。その金色の前髪をかき上げると言った。
「大丈夫か?しっかり食べないと体調もよくならないぞ」
「はい…」
 ロイは立ち上がるとテーブルを回りハボックの傍へとやってくる。見上げてくる幼い表情を浮かべる瞳にざわりと心がざわめいて、ロイは慌てて目を逸らした。
「少し休んできなさい。食事もまともに出来ないほど疲れているなら買い物になど行かない方がよかったな」
 自分の気持ちを誤魔化す為に吐き捨てるようにそう言えば、ハボックは何も言わずに部屋を出ていった。階段を上がる足音がして暫くすると遠くで扉の閉まる音がする。ロイはその音を聞いた途端、己の頬を両手ではたいた。
「何を八つ当たりしているんだ、私はっ!」
 きっとハボックは傷ついたに違いない。だが、思わず口をついて出た言葉の言い訳をするには自分の欲望を曝け出さなくてはならず、ロイは深くため息をつく。
「ハボックが好きなんだろう、大事なんだろう、ロイ・マスタング!だらしないぞっ!」
 本当の恋愛をしたことがなかったロイにとって、思わずあふれ出しそうになる相手への欲望をどうやってかわせばいいのか判らない。ロイはドサリと椅子に腰を下ろすと、頭を抱えたのだった。

「また怒らせちゃった…」
 部屋に入るとハボックはそう呟く。一生懸命に好意を示してくれる相手に、自分がしていることがどんなに無礼な事か、ハボックは考えてギュッと瞳を閉じた。たとえ同情でもいいからロイの好意に縋りたいと思ってしまうと同時に、縋りついたが最後どうにもならなくなることがはっきりとしていて、ハボックは緩く首を振る。ロイを思えばじんわりと熱くなる体が、ハボックには何よりも汚らわしく思えて自分で自分が赦せなかった。
「サイテー…」
 そう自分を罵っても熱を打ち消すことなど出来なくて。
 ハボックは血が滲むほどきつく唇を噛み締めたのだった。

「ハボック?」
 夕方近くになってロイはハボックの部屋の扉を叩く。そっと扉を開ければ薄闇に沈んだ部屋ではベッドの上でブランケットに潜り込んで眠るハボックの姿があった。足音を立てないようにしてそっと近づくとロイはハボックの顔を覗き込む。僅かに眉を寄せて眠るその顔は苦しそうで、ロイはハボックの髪をかき上げた。
「ん…」
 微かな声が色素の薄い唇から零れてハボックは寝返りをうつ。晒された白い喉を汗が一筋流れて、ロイの視線はその流れに釘付けになった。そっと指を伸ばしてそれを拭うと唇に運ぶ。指先に舌を這わせれば微かに塩っぱく感じられてロイはゾクリと背筋を震わせた。
 抱きたい。
 唐突に浮かんだいつになく激しい欲望にロイはごくりと喉を鳴らす。このまま欲望のまま抱いてしまったら、ハボックはどうするだろう。その身を包む邪魔な布を剥ぎ取って、白い肌に舌を這わせたい。しっとりと汗で濡れる肌に歯を立てて貪りたい。彼の中心を思うまま嬲って、快感に喘がせたい。震えながら絶頂を極めるその顔が見たい。熱を吐き出す彼自身を愛撫し、一滴残らず飲み干したい。
 ロイは眠るハボックの顔を凝視したまま荒い呼吸を繰り返す。
 戦慄く蕾に指を沈め思うままにかき乱したい。強請る言葉を口にさせたい。自分を欲しいと言わせたい。
 そして。
 滾る自身でハボックを貫きたい。貫いて喘がせて縋りつかせて。
 愛していると言って欲しい。自分の腕の中で涙を零すハボックと、どこまでも1つに溶けてしまえたらどれ程幸せなのだろう。
 ゆっくりとハボックに向けてロイが手を伸ばした時。
「マスタングさん…」
 ハボックがやっと聞き取れるほどの小さな声でロイを呼ぶ。苦しげに伏せられた睫が揺れたかと思うと、閉じた瞳から涙が一筋零れ落ちた。
「あ…」
 その涙を見た途端、ロイは手を引っ込める。幼い表情を浮かべるハボックをロイは目を見開いて見つめていたが、くるりと背を向けると足早に部屋を出た。パタンと閉じた扉に背を預けると顔を歪める。
「私は何をしようとしていたんだ…っ」
 大切に守りたいと思っていた相手に抱いてしまった欲望にロイは愕然とした。こんな激しい欲望が自分の中にあったのだと改めて気付かされてロイは己を罵る。
「何が大切に、だ。最低だっ!」
 シュトフたちと自分が何ら変わらないように思えて、ロイは爪が刺さるほど手を握り締めたのだった。


→ 第三十五章
第三十三章 ←