菫青石の恋  第三十二章


「買い物に行くぞ」
 そう言ってロイは立ち上がる。だが、ハボックが腰を上げようとしないのを見て、その手を掴んだ。
「行くぞ」
「マスタングさん、オレ…っ」
「私が言ったことを聞いてなかったのか?」
 そう言われてハボックは視線を落とす。キュッと唇を噛むとロイを見上げて言った。
「行きますから、手、離してください」
「ハボック」
「離してくださいっ」
 きつい口調にロイは僅かに目を見開く。それからため息をついて言った。
「今日はお前の言うとおりにしよう」
 そう言うとロイはハボックに背を向けてリビングを出て行く。その背を見つめてハボックはくしゃりと顔を歪めると後を追った。

 ロイの数歩後をハボックが歩いていく。ロイはチラリと後ろを振り向いて俯きがちに歩いているハボックの姿にため息をついた。
「ハボック」
 そう名前を呼べば、ビクリと震えて顔を上げる。その不安そうな表情をロイはじっと見つめて、それから安心させるように笑った。
「せめて並んで歩かないか?」
 ロイはそう言うと数歩戻ってハボックの隣に立つ。困ったように見つめてくる空色の瞳を見返して言った。
「せっかく一緒に買い物に出てもおしゃべりも出来ないだろう?」
 ロイはそう言ってハボックを促して歩きだす。どうしても遅れがちになるハボックにロイは歩調を合わせて歩いた。
「何か欲しいものはないか?食べ物でも服でも身の回りのものでも。今までは私が勝手に揃えてしまっていたからな。お前の好みも使い勝手もあるだろう?」
 そう言われてハボックは小さく首を振る。
「特に好みなんてありません。使えればそれで十分です。服も、オレには勿体無いようないいものばかり揃えて貰ってるし、これ以上必要ないっス」
「私としてはまだまだ十分とは思えないんだがな」
 不服そうなロイにハボックが苦笑した。
「オレにはこれだけでもう十分に贅沢っス」
 そう言うハボックの言葉にロイは一度だけ行ったハボックの部屋を思い出す。必要最小限のものだけが置かれた質素な部屋。殆んど生活臭のしなかったあの部屋で、ハボックは何を思って暮らしてきたのだろう。無機質は空間で息を潜めるように生きてきたであろうハボックを思って、ロイは胸が痛くなった。
「私はお前を甘やかしたいんだ。思い切り贅沢させて何の不自由もない暮らしをさせたい」
「もう十分そうして貰ってるっス」
「十分なもんか」
 ハボックの言葉をロイは即座に打ち消す。もっともっともっと。大切に幸せにしてやりたいのだ。
「今日は服を買おう。それからお前の食べたいものを色々買い込んで、私が腕を振るってやる。それから…」
 今日の予定を楽しそうに上げていくロイを、ハボックは何も言わずに見つめていた。

「マスタングさん、そんなに要らないっスよ」
 服やら小物やら、次から次へと選んでいくロイにハボックが言う。
「無駄遣いは嫌いっス」
 そう言うハボックをロイは睨んだ。
「どこが無駄遣いだと言うんだ」
「そんなに一時に要らないって言ってるんスよ。オレの体は1つしかないんですから」
 たしなめる様に言うハボックにロイはむぅと唇を尖らす。ハボックは首を傾げると小さく笑った。
「また今度にしましょうよ、ね?」
「…まあ、まだまだ先は長いんだからな」
 ロイは不服そうなものの頷くと、支払いをしてくるとレジに向かう。その背を見送ってハボックは小さくため息をついた。
『私はお前を甘やかしたいんだ』
 そう言ったロイ。その言葉に隠れているのは愛情ではなくて庇護欲と同情なのだろうとハボックは思う。それでも初めて自分に向けられる優しさはあまりに心地よくてずっと縋りついていたくなる。だが。
(こんなこと、ずっと続けていけるわけがないんだ)
 ハボックがそう思ってグッと手を握り締めた時。
「あれ、アンタ…」
 その声にハボックは顔を上げる。目の前に立つ大柄な男が自分をじっと見つめている事に気付いてハボックは思わず一歩下がった。それと同時にどこかで見た顔だと思ったハボックは記憶の中から目の前の男の顔を探し出して身を強張らせる。
「あ…」
 記憶の中にあったのはベッドの中で自分を組み敷く男の顔。
「アンタ、ベアルファレスの館にいたハボックだろう?俺のこと、覚えてるか?何度か通ったんだけど」
 目を見開くハボックに男はハボックが自分を覚えていることを察して近づいてくる。
「あそこ、取り潰しになっちまって残念だったよな。今、どこにいるんだ?まだ商売やってるんだろう?」
 男はそう言うと嬉しそうに笑った。
「あの後他のヤツを抱いたけどさ、やっぱアンタ最高だったぜ。なあ、どこの店だ?今夜抱いてやるから教えろよ」
「…っっ!!」
 そう言って伸びてくる男の手を振り払ってハボックは逃げ出す。呼び止める男の声にも振り向かず、人ごみを縫ってハボックは駆けた。闇雲に走り続けて狭い路地に飛び込むと、ようやく足を止める。
『ベアルファレスの館にいたハボックだろう?』
『やっぱアンタ最高だったぜ』
『今夜抱いてやるから教えろよ』
「あ…オレ…っ」
 男の言葉が忘れたかった過去を呼び覚まし、決して消すことは出来ないのだとハボックに思い知らせて。
「オレ…っ」
 こんな人目につくところでロイと一緒にいた自分の思慮のなさにハボックは自分が赦せなかった。
「行かなきゃ…」
 だが、どこへ?
 行く場所などもうどこにもありはしない。この体も、想いもどこへ行こうにもあまりにまっすぐにただ一人の人へ向かい過ぎていて。
 何も考えずに想い人にしがみ付いていたいという気持ちと、そんな事など赦されないと想う気持ち。
 抱かれたくて、だが触れられたくなくて。
 どこへ行けばいいのか判らぬまま、ハボックはふらりと路地をでて歩き出す。ぼんやりと俯いたまま歩いていたハボックはいきなり肩を掴まれて驚いて顔を上げた。
「ハボック?!」
「ブ、レダ、さん」
 呟くようにそう言えばブレダが思い切り顔を顰める。
「うわ、さん付けはやめろ。ブレダでいいって」
 ブレダはそう言ってからきょろきょろとあたりを見回した。
「大佐は?こんなとこで何やってんだよ」
 そう言われて困ったように俯くハボックの顔を覗き込んでブレダが言う。
「もしかして大佐に苛められたのか?判った、大佐のことだからまた美女に声かけたりして鼻の下伸ばしてたんだろっ!まったく、あの人ときたら!」
「そんなんじゃないってば、ブレダさん!」
「…ブレダ」
 ギロリと睨んでブレダは言うと、顔を弛めた。
「司令部に来いよ。大佐、迎えにこさせるから」
 だが、ハボックはブレダの言葉に首を激しく振る。
「いいっ!そんな事してくれなくていいっ!」
 ハボックはそう叫ぶように言うとブレダに背を向けて歩き出した。だが、グイと腕を掴まれて立ち止まる。
「お前、酷い顔してるぞ」
 振り向けば心配そうな顔をしたブレダが言った。それでも頑なに首を振るハボックにため息をつくとブレダはあたりを見回す。一軒の店に目をとめると言った。
「じゃあ、この店で待ってろ」
そう言うや否やハボックの腕を掴んだまま店の扉をくぐる。
「マスター」
「すまんな、まだ準備中…って、ブレダさんじゃないか」
 ブレダの声に店の奥から出てきた男がそう言って笑った。ブレダはハボックを振り向くと言う。
「ここ、行きつけの定食屋なんだ。マスター、悪いけどちょっとだけコイツここで待たせてくれるか?大佐呼んでくるから」
「おお、いいとも」
「じゃ、頼むわ」
「ちょっ…ブレダっ!」
 ブレダは手を振るとハボックが呼び止めるのも聞かず出て行ってしまった。呆然とするハボックにマスターが言う。
「迎えが来るまで座って待ってるといい」
 そう言ってニコニコと椅子を勧められてハボックは仕方なしに腰を下ろした。体を小さく縮めるようにして座っていると目の前にお茶の入ったカップが置かれて、ハボックは思わず顔を上げる。すると、マスターが優しい顔をしてハボックを見ていた。
「アンタ、マスタング大佐が引き取ったって人だろう?」
 マスターはそう言うとハボックの向かいに腰を下ろす。テーブルの上に組んだ手を置くと言った。
「ブレダさんたちが店に来た時に話していたのを聞いたんだよ」
 そう言われてハボックは体を縮めて呟く。
「でも、オレ、すぐ出て行くつもりだから…」
「どうして?マスタング大佐なんだろう、アンタを引き取ったのは。よかったじゃないか」
「え?」
「あの人なら安心だ。アンタが今までどういう暮らしをしてきたか知らんが、あの人のところでなら安心して暮らせるだろう。落ち着いたら自分のやりたいことを探せばいいんだしな」
 よかったなぁ、と言うマスターにハボックは曖昧に笑った。


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