菫青石の恋  第三十一章


 自分の部屋に入ったハボックはバタンと閉めた扉に背を預ける。天井を見上げて震える吐息を吐いた。一度浮かんでしまった考えは止まることを知らずにゆっくりと回転を始める。
(マスタングさんは本当はオレのことをどう思ってるんだろう)
(やっぱり初めての相手だったことで責任を感じてるだけなのかも)
(今更追い出すことも出来なくて困ってるのかもしれない)
(それにやっぱりオレは――)
(汚れてるから)
 そう考えてハボックはセントラルの公園で男達の目に晒されながらシュトフに抱かれている姿をロイに見られたことを思い出した。どんなにイヤだと思っていても快楽に慣らされた体は貪欲にそれを追い求め貪っていた。見も知らぬ男達に視姦されながらハボックは何度も何度も絶頂を極め、悶え乱れていたのだ。
(あんなところを見たら誰だってなんて薄汚れたヤツだと思うに決まってる)
(勢いでオレを手元に引き取っちゃったけど、きっと後悔してるんだ…)
 ハボックは加速する思考を止める術を知らず唇を噛み締める。パタパタと大粒の涙が零れて絨毯に吸い込まれた。
(どうしよう…やっぱり傍にいちゃいけないのかも)
 離れなくてはいけないのだと思った瞬間、新たに涙が溢れる。
(でも…でも…っ)
 胸を占めるのは苦しいほどのロイへの想いばかりで。
「う…くぅ…っ」
 ハボックはズルズルと座り込むと自分の体を抱きしめて嗚咽を零した。

 ロイは洗ったカップを伏せると1つため息をついた。
(やはり無理をさせたか…)
 公園にいたときは随分と楽しそうだった。だが家に着いた頃には顔色が優れず、食事もいらないと引き篭ってしまった。
(ダメだな、もっと気をつけてやらないと)
 そう思ってロイはだが、自分があの公園で抱えていた考えを思い出して苦笑する。まるで平気な顔をして見せながらロイは花を愛でながら時折振り向いて微笑むハボックを引き寄せて手折ってしまいたいと、そんな不埒な考えを必死に押さえ込んでいたのだ。だがハボックはそんなロイの気も知らずに一瞬とはいえ自分の前から消えて、次には無防備に抱き締める距離に飛び込んできたりして、ロイの必死の努力をないものにしようとするのだ。
(無防備すぎるんだ、アイツは)
 それだけ自分に心を赦してくれているのかもと思いはするが、正直ずっと手に入れたかった初恋の相手を目の前にしているのだ。男としての欲望を一体どれだけの労力を払って押さえ込んでいると思っているのだろう。
(でも、大切にしたいんだ…)
 ロイはふとシュトフに抱かれているハボックの姿を偶然に見てしまったことを思い出した。シュトフへの凄まじい嫉妬と共にロイの心に浮かんだのは絶望に染まったハボックの濡れた瞳。
(もう、二度とあんな顔はさせない)
 大切にたいせつに包み込んで誰よりも幸せにしてやりたい。ロイは綻ぶ花を前に微笑むハボックの姿を思い出してそう誓ったのだった。

「ハボック」
 翌朝、軽いノックと共にそう声をかけたが返らぬいらえにロイは眉を顰める。
「開けるぞ」
 そう言いながらドアを押し開ければサァッと風が吹き抜けた。目の前には大きく開け放たれた窓と、そうしてその縁に腰掛けて外を見つめるハボック。床から離れた足が吹き抜ける風と共に揺れて、ロイはギクリとして駆け寄るとハボックの腕を掴んだ。
「…っ?!」
 まるで気付いていなかったのだろうビクンと震えて見下ろしてくる見開いた空色の瞳に、ロイは慌てて掴んだ手を離す。まん丸に見開かれた瞳を見つめてロイは取り繕うように笑った。
「すまん。落ちるかと思ったんだ」
 そう言ってロイはハボックから距離を置く。まるで飛び掛るように腕を掴んでしまったことで、ハボックを怯えさせたのではないかとそう思ってロイはハボックを見ずに口を開いた。
「夕べはちゃんと眠れたか?朝食は食べられそうか?」
 そう尋ねればハボックが窓から下りる軽い音がする。ハボックはパタンと窓を閉めて答えた。
「ちゃんと眠れましたから、心配かけてすみませんでした。すぐ朝食の支度しますね」
「支度なら私がするからお前は休んでなさい。準備が出来たら呼ぶから」
 ロイはそう言うとハボックの返事を待たずに部屋を出て扉を閉める。だからロイはハボックがどんな顔をしてロイを見ていたのか気付きはしなかった。

 バタンと閉じた扉を見つめてハボックは暫くの間立ち尽くしていた。それからロイに掴まれた腕にそっと触れる。
(まるで汚いものでも触ったみたいだった…オレのこと見もしなかったし)
 仕方のないことなのだとそう思ってもやはり辛い。ハボックは何度も腕を擦りながら思う。
(やっぱり傍にいちゃいけないんだ。マスタングさんからは出て行けなんて言えないだろうし。オレから出て行かないと…。このままじゃ)
 ロイの自分に対する同情と罪の意識につけ込んでいるだけだと、そんな自分が赦せなくてハボックは唇を噛んだ。
(でも…ごめんなさい、もう少しだけ)
 心の中でロイに詫びながら、ハボックはグッと腕を握り締めた。

「よし」
 テーブルの上を一渡り見渡してロイは頷く。足音に振り向けばハボックがダイニングに入ってくるところだった。
「ちょうど呼びに行こうと思ってたところだ」
「すみません、手伝わなくて」
「いいさ。元気になったら色々やってもらうから」
 そのロイの言葉に一瞬揺らいだハボックの表情が何なのか、ロイが確かめる間もなくハボックは微笑みを浮かべる。ロイはハボックに座るように促すと、腰を下ろしたハボックの前に温めたパンを差し出した。
「今日は食事の後ちょっと買いだしに行こうかと思うんだが」
「オレが行って来ましょうか?」
「休んでいなくて大丈夫なのか?」
「平気っス。何を買ってくればいいか言ってくれればオレが行って来ますよ」
「だったら二人で買いに行こう」
 そう言われて食事を口に運んでいたハボックの手が一瞬止まる。
「…オレ、家で待ってます」
「ハボック?」
 買いに行くと言ったり家で待っていると言ったり、ハボックの言いたい事が判らずロイはハボックを見つめる。まっすぐに見つめてくる黒曜石の瞳から視線を逸らしてハボックは俯いた。ロイはそんなハボックを暫く見つめていたが、やがて僅かな怒気を含ませた声で聞く。
「まさかまたくだらないことでも考えてるんじゃないだろうな」
「昨日も手繋いで公園まで行くなんて、考えが足りなかったっス。昨日だけじゃない、喫茶店で待ってたのも、司令部に行ったのも」
「ハボックっ!」
 ガタンと音を立ててロイは立ち上がる。その拍子にテーブルの上のカップが大きく揺れて、クロスに染みを作った。
「顔を上げなさい、ハボック」
 ロイがそう言ったがハボックは顔を上げなかった。ロイはムッと顔を歪めるとテーブルを回ってハボックの傍へと行く。俯いたハボックの腕を掴むとグイと立ち上がらせその顔を覗き込んだ。
「どうしてそう自分を卑下したがる?お前は何一つ悪いことなどしていないだろう?お前が自分を卑下すればそれは私の事も卑下するのと一緒なんだぞ」
「マスタングさんを卑下するなんて、そんなつもりは…」
「だったらもっと堂々としていろ。お前はこの私が愛したたった一人の人間なんだから」
 ロイはそう言うとハボックを抱き締め唇を重ねる。
「愛しているよ、ハボック」
 空色の瞳から零れた涙を唇で拭ってロイはそう囁いた。温かいハボックの体を抱き締めながら、ロイはハボックの涙の意味を判ってはいなかった。

 ロイの腕に抱かれながらハボックは涙を零した。ロイの唇が涙を拭うのを感じながら叫びだしそうになるのを必死にこらえる。
(もう、言わないで。キスしないで。抱き締めたりしないで)
 心が伴わないなら、ただの同情や罪の意識だけなら辛すぎるから。
 そう思う反面、自分の中の身勝手な己が頭をもたげる。
(同情でもいい。嘘でもいいから愛してるって言って。キスして。抱き締めて)
 ハボックは相反する気持ちに心を引き裂かれながら、ただはらはらと涙を零し続けた。


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