菫青石の恋  第二十八章


 翌朝、いつもより早く目覚めたロイは着替えもそこそこにハボックの部屋を覗きに行く。きちんと片付けられた寝具を目にして、ロイは慌てて部屋を飛び出した。階段を駆け下りて覗いたリビングにはハボックの姿はなく、ロイが青くなって浅い呼吸を繰り返したとき、犬の鳴き声と笑い声が聞こえて、ロイは急いで声のするほうへと向かう。中庭への扉を開ければ洗濯物を抱えて犬にじゃれ付かれているハボックの姿があった。
「ハボック!」
 扉のところからそう声をかければハボックの空色の瞳がロイを見る。にっこりと笑うと犬から逃げるようにロイのもとへと駆けてきた。
「おはようございます、マスタングさん」
「何をしてるんだ、お前はっ」
 朝の挨拶もせず、いきなりそう怒鳴るロイにハボックは目を丸くする。
「何って、洗濯…迷惑でした?」
 そう言ってうな垂れるハボックにロイが慌てて言った。
「そうじゃない。こんな朝早くから働かなくてももっとゆっくり寝てたらどうなんだ。疲れてるんだろう?」
「オレなら大丈夫っスよ。元々睡眠時間は少ない方だし、それにこれくらいしかできることないしっ。あっ、腹減ってますよね。今すぐ朝食の準備しますからっ」
「ハボック」
 わたわたと洗濯物の籠を抱えて家の中へと入ろうとするハボックの腕をロイは掴む。不安そうに見下ろしてくる瞳を見返して言った。
「ハボック。お前の気持ちは嬉しいが、何もそんなに慌てることはないんだ」
 ロイはそう言うとハボックの髪をくしゃりと混ぜる。
「まだ先は長いんだ。そんなに慌てたら疲れてしまうだろう。ゆっくりでいいんだから」
 微笑んでロイは続けた。
「一緒に干すか、これ。それから朝食の準備も一緒にやろう。いいだろう、ハボック」
 そう言ってロイはハボックを促して外へと出る。二人が庭へと出れば、ウロウロと歩き回っていた犬が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「うわっ、ちょっと、やめろって、こらっ」
 犬にじゃれつかれて困りきった顔をするハボックにロイがくすくすと笑う。ハボックは必死に犬を宥めながら言った。
「この犬、マスタングさんのっスか?」
「いや。隣の家のマロンだ。困ったやつですぐ潜り込んでくるんだよ」
「へー、そうなんスか…って、うわわっ!」
 大きなゴールデンレトリバーに思い切り飛びつかれてハボックは支えきれずに地面へと倒れ込む。べろべろと顔を舐められてくすぐったそうに笑うハボックを見下ろしてロイはムッと眉間に皺を寄せた。
「おい」
 ロイは大きな犬の首輪をむんずと掴むとハボックの上から引き剥がす。ポイと放り投げるように離すとハボックへと手を伸ばした。
「大丈夫か?」
「平気っスけど…うわ、べちょべちょ」
 ハボックはロイに引っ張られて立ち上がると手の甲で顔をこする。「マロン、ひでぇ」とぼやいているハボックを見つめて、ロイは僅かに唇を歪めた。
(私ですらしたことないのに…生意気な犬め)
 そう思ってジロリと睨めば、マロンが一声「キャン」と鳴いて庭から駆け出していく。
「あれ、行っちゃった」
 不思議そうに首を傾げるハボックに目を向けるとロイはにっこりと笑って言った。
「ほら、さっさと干してしまおう。いつまでも外にいたら風邪をひく」
「あ、はいっ」
 慌てて頷くハボックと一緒にいそいそと洗濯物を広げながら、ロイはくすぐったいような喜びを感じていたのだった。

「じゃあ、急いでメシの支度っ」
 洗濯物を干し終えて家の中に入るなりそう言うハボックの手をロイが取る。振り向く空色の瞳にロイが苦笑した。
「一緒に作るんだったろう、ハボック」
「あ…ハイ」
僅かに頬を染めたハボックの手をギュッと握れば染まった頬の赤みが増す。そっと離そうとする手をぎゅうっと握るとハボックが困ったような顔をした。
「冷たくなってる」
 そう言って両手で包み込むように握ればハボックが慌ててその手を振りほどく。
「お湯使えばすぐあったまるっスよっ」
 先に行ってます、とバタバタと廊下を駆けていくハボックの背をロイは幸せそうに見つめた。

「マスタングさん、卵できましたよ」
 ハボックは焼き上げたオムレツを皿に移しながら言う。ロイはその皿を受け取るとテーブルへと運んだ。二人で手早く朝食の席を整えると向かい合って腰を下ろす。温かいスープを口に運びながらハボックがチラリとロイを見た。
「朝からこんな風に誰かと食事をするなんて初めてっスよ」
「私も出張先で部下の誰かと食べる以外はないな」
 そう答えればハボックが意外そうな顔をする。ロイはその顔を見咎めて苦笑すると言った。
「ディナーを誰かと一緒にすることはあっても、朝まで一緒にいたことはないんだ」
 ディナーを済ませた後、所謂そういう雰囲気になってベッドを共にした相手はいた。だがその場合でも、ロイは決して朝までその女性といたことはなく、暗に相手がそうしたいという態度を示してもそれに答えたことはなかった。
「いいものだな、こういうのも」
 ロイがそう言って笑えばハボックも嬉しそうな顔をする。一人で暮らしていた時は朝食など取らずギリギリまでベッドにいたロイだったが、これからはきちんと朝食を取ろうと思うのだった。

 食事の後片付けも二人でやればあっという間に終わってしまう。ハボックは手を拭きながらロイを見ると言った。
「マスタングさん、ここの家でオレが入らない方がいいところとか、弄って欲しくないものとか教えておいて貰ってもいいっスか?」
 そんなことを言うハボックを驚いた顔で見ればハボックが困ったように首を傾げる。
「だって、仕事の関係のものおいてあるところもあるだろうし、それに他人に引っ掻き回されるの、嫌でしょう?」
 その言葉を聞いた途端、ロイがハボックの耳を思い切り抓った。
「いっ…いったぁ…っ!…何するんスかっ」
 涙目になって耳を押さえるハボックをロイが睨む。
「この家の中でお前が入ってはいけないところとか、弄ってはいけないものなどあるわけないだろうっ!それに」
 ロイは目を吊り上げてそう言うとハボックの頬に触れた。
「他人なんて言うな」
 囁くようにそう言ってロイはハボックに口付ける。舌を絡めてから唇を離して、僅かに目尻を染めるハボックを見ると優しく笑った。
「昨日は家の中を見せる暇がなかったな。よし、上から下まで全部見せてやる」
 ロイはそう言うとハボックの手をとる。ハボックは遠慮がちにその手を引くと言った。
「別にオレ、見せて欲しいって強請ったわけじゃないっス。ムリしなくても…」
「ハボック」
 そう呼べば空色の瞳がロイを見る。
「全部見て欲しいんだ」
 そう言って微笑むロイにハボックが泣きそうな顔で笑った。ロイはハボックの手を引くと、家の中を一つ一つ見せて回る。ごちゃごちゃとものの詰め込まれた屋根裏から、地下のパントリーまで1つ残らずハボックに説明して歩きながらロイはなんだか不思議な気分だった。
(こんな風に全てを見せようと思ったことなどなかったな)
 いつか、自分が歩いてきたこれまでの道も、すべてハボックに話して聞かせたいと思う。あの地獄のような場所での出来事すらハボックに知って欲しい。
 繋いだ手にキュッと力を込めれば握り返してくれるハボックに心が温かくなっていく。本や何やら訳の判らない式が書きとめられた書類の散乱する書斎を目にしたハボックが、その惨状をあっけに取られて見つめるのすら何だか嬉しくてロイはくすくすと笑ったのだった。


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