菫青石の恋  第二十六章


「いやあ、大変な事になんなくてよかったですね」
 少しして憲兵とともにやってきたブレダがホッとしたように言う。ロイの上着をはおったハボックが意識のないシュトフが運び出されるのを心配そうに見ているのに気付いて言った。
「大丈夫だって。ああいうのは殺しても死なないから」
「でも…」
「シュトフのことが心配なのか?」
 不愉快そうなロイの声にハボックが慌てて振り向く。きつい光を放つ瞳を見つめて言った。
「そうじゃなくて、アンタの将来に響くんじゃ…」
 男娼あがりの男とその元客とのトラブルに巻き込まれたなんていったら、ロイの経歴に傷がつくんじゃないかと、そうハボックがぼそぼそと言えばロイが思い切りハボックの頬を抓る。
「痛ぁっ!…酷いっスよ、マスタングさん」
 ハボックが空色の瞳に涙を滲ませてそう言えばロイが唇を歪めた。
「酷いのはお前の方だ。今度くだらんことを言ったら殴るぞ」
 そう言ってスタスタと歩き出すロイをハボックとブレダが慌てて追う。
「大佐、中尉がまだ仕事があるから戻ってくれって言ってましたよ」
 ブレダがそう言えばロイが思い切り嫌そうな顔をした。それでもハボックの手を取ると言う。
「お前も一緒に来い」
「えっ、司令部にっスか?嫌っスよっ!!」
 グイと引っ張るロイにハボックが抵抗して足を踏ん張った。
「どうして嫌なんだ?」
「嫌に決まってるでしょうっ、オレなんかがそんなとこに行けるわけないじゃないっスか!」
 ムッとして尋ねるロイにハボックが即答する。ロイはハボックをジッと見ると言った。
「オレなんか、というのは一般市民が、と言う意味だろうな」
 そう言えば黙り込むハボックの頬を、ロイが拳で軽く叩く。
「今度くだらんことを言ったら殴ると言ったはずだ」
 泣きそうな顔をするハボックの頬を宥めるように撫でるとロイは笑った。
「一緒に来い。いいな、ハボック」
「…はい」
 小さな声で答えるハボックの手を取ると、ロイは司令部に向かって歩き出した。

 司令部の門が見えてきても手を繋いだままのロイに、ハボックが必死に手を引く。なんとか手を振りほどこうとするハボックをロイがジロリと睨んだ。
「手!離してくださいっ!」
「どうして?」
「恥ずかしくないんスか、アンタ!」
「恋人同士が手を繋いでいて何が恥ずかしいんだ」
 本気で判らないという顔をするロイにハボックはパクパクと口を開いたが、顔を真っ赤にするとやっとのことで言う。
「離してくれないならオレ、絶対に行きませんからっ!!」
 そう言って本当に行かないという態度のハボックにロイは渋々と手を離す。ハボックはホッと息を吐くと解かれた手を守るように合わせて上着の襟元を握り締めた。その様子をロイは不満げに見つめたが、それでも何も言わずに司令部の中へと入っていく。ハボックは背を丸めると躊躇いがちにロイの後について中へと入っていった。司令部に入った途端、ハボックはロイに上着を返さなかったことを激しく後悔する。好奇に満ちた視線でジロジロと見つめられて、ハボックは司令室に続く廊下を歩きながら消えてしまいたい気持ちでいっぱいだった。それでも司令室に辿り着いて扉をくぐれば漸く視線も断ち切られる。ホッと肩の力を抜いたハボックは俯いていた視線を上げた途端、自分を見つめる人達がいる事に気付いて、力を抜いた体を再び強張らせた。
「よかった、無事だったんですね」
「大佐が吹っ飛んで行ってしまったので心配してたんですが、何事もなくてよかったですな」
 そう言ってくる二人にハボックが目を丸くする。ブレダが笑いながらハボックに言った。
「覚えてるか?一番最初に大佐と一緒に行った――」
「あ、はい。フュリーさんとファルマンさん…」
「一度しか会ってないのに覚えててくれたんですね」
 ニコニコと笑う眼鏡の奥の瞳にハボックもぎこちなく笑い返す。執務室へと入っていってしまうロイの背を不安げに見送るハボックにブレダが言った。
「まあ、とにかく座って待ってなよ。どうせまだ時間かかるだろうし」
 そう言って窓際の小さなソファーセットを指差す。ハボックは「すみません」と呟くと大きな体を縮こまらせてソファーに腰を下ろした。ロイの上着の襟元を両手でギュッと握り締めて、ハボックは窓の外へと目をやる。電話に応対する声や書類を捲る音、話し合う言葉の切れ端、さほど大きくはないがそれでもザワザワとざわめいている部屋の中で自分だけが浮いた存在のように感じられて、ハボックがやはりどこか外で待とうと立ち上がろうとした時。
「どうぞ」
 目の前に差し出されたカップに驚いて顔を上げれば鳶色の瞳が優しく見下ろしていた。
「あ…ありがとうございます」
 ハボックは躊躇ったものの差し出されたカップを受け取る。カップを載せていたトレイを小脇に抱えている女性に何を言ったらよいか判らず、俯くハボックの耳に優しい声が聞こえた。
「私はリザ・ホークアイ。マスタング大佐の副官をしているの」
 そう言われてハボックも慌てて言う。
「オレはジャン・ハボックです。その…」
 それ以上なんと自分を言い表せばいいのか、適当な言葉を見つけられずに口ごもるハボックにホークアイがくすりと笑う。ホークアイはハボックの向かいに腰を下ろすと言った。
「貴方が大佐の大切な人なのね」
「えっ」
 そんな言い方をされてハボックが驚いて目を見開く。ホークアイはそんなハボックを楽しそうに見つめながら言った。
「貴方に恋してから、大佐が腑抜けてしまって大変だったわ。後を追って仕事を放って追いかけていってしまうし」
「すっ、すみませんっ、オレ、そんなつもりじゃ…」
 困りきってしどろもどろになるハボックにホークアイがくすくすと笑う。
「別に貴方を責めてるわけじゃないの。貴方と出逢って大佐はすっかり困った男になってしまったけど、でもそれは決して嫌な変化じゃなかったわ。むしろやっと人間らしくなったと言うべきかしらね」
 そんな風に言うホークアイをハボックは驚いたように見つめた。その空色の瞳を見つめながらホークアイが続ける。
「よかったと思っているのよ。きっと貴方との出会いはこれからのロイ・マスタングにとってプラスになるでしょうから。ただね」
 ホークアイはそう言ってちょっと肩を竦めた。
「貴方のことばかり優先して仕事をほったらかすようだったら貴方からも少し言ってやってくれる?“仕事を疎かにするんだったら自分にも考えがある”って。そう言ってちょっと冷たくしてくれたらきっと仕事がはかどって助かるのだけど」
 にっこりと微笑んでそんなことを言うホークアイにハボックが目を丸くする。それから小さく噴き出すとくすくすと笑い出した。
「オレで役に立つことがあるんでしたら何でも言って下さい。でも、そんなので仕事がはかどるんスか?」
「勿論よ」
ホ ークアイがにこやかにそう言った時、執務室の扉が開いてロイが顔を出す。ホークアイはハボックにもう一度笑いかけると立ち上がってロイに歩み寄った。それを目で追っていたハボックに気付いたロイが破顔すれば、ホークアイはロイの耳を引っ張るようにして執務室へと連れて行く。そんな二人の様子にくすくすと笑うハボックにブレダが声をかけた。
「ここでは中尉が最強なんだ」
「そうみたいっスね」
 そう言って笑うハボックに向かいに腰を下ろしてブレダが聞く。
「なあ、俺の事覚えてるか?」
 そう言われてきょとんとするハボックにブレダが頭を掻きながら言った。
「いやさ、俺もすっかり忘れてたんだけど、ガキのころに会ったことあんだよ、俺ら」
「ブレダさんとオレが?」
「ああ。俺の母方の親戚があの村に住んでたんだ。お袋が体調崩して入院してた半月くらいの間、俺、あそこに預けられてさぁ。覚えてねぇかな、川っぺりにいた俺にお前が話しかけてきて一緒に遊んだりしたんだけど。俺の名前、ハイマンス・ブレダって言うんだ」
 ブレダが言うことを聞いていたハボックは暫く黙り込んでいたが、パッと顔を上げるとブレダの顔を指差す。
「あああ、ハイマンスっ?!うそっ、あのハイマンスっ?!」
「そう、あのハイマンス。お前、ジャンだろ?」
 ブレダの言葉に頷きながらハボックはまじまじとその顔を見た。パチパチと数度瞬きすると言う。
「うわ、ごめん。全然わかんなかった」
「いや、俺も偶然写真見るまでは全く判らなかったからな。お互い様だよ」
「だって、あの頃のハイマンス、すげぇ痩せてて…」
 そう言った途端、ブレダの拳固がハボックの頭を殴った。
「わぁるかったなっ!逞しくなったんだ、わりぃかっ!」
「あはは、そうだな、逞しくなったんだ」
 楽しそうに言って笑うハボックにブレダも一緒になって笑う。ハボックの笑顔をじっと見つめて言った。
「そうやって笑うとあの頃のまんまだ」
 ブレダはそう言うと懐かしそうに続ける。
「あん時、お前が声をかけてきてくれてすげぇ嬉しかったんだ。知り合いもいなくて心細かったから」
「オレもハイマンスと遊んでた時は楽しかったよ」
 そう言って笑いあうとブレダは言った。
「大佐のこと、よろしく頼むな。まあ、ちょっと癖はあるけど頼りになる上司なんだ」
 そう言われてハボックは自信なさそうに俯く。
「…オレなんかでいいのかな」
「何言ってんだよ。お前でなきゃダメなんだって。大佐をあんな風に変えたの、お前だけだぜ」
 ブレダはそう言って腕を伸ばすとハボックの頭を小突く。小突いた手でそのままハボックの髪をくしゃりと混ぜた。
「頼んだぜ」
 もう一度そう言えばハボックが小さく頷く。そのとき、頭上から降ってきた不愉快そうな声にハボックとブレダは慌てて視線を上げた。
「やけに楽しそうだな」
 ムスッとして二人を見下ろすロイにブレダが言う。
「別れるなら今のうちだって言ってたんですよ」
「な…っ」
 驚いて目を剥くロイにニヤリと笑うとブレダは立ち上がった。
「落ち着いたらゆっくり話そう。一緒に飲みに行こうぜ」
「うん」
 頷くハボックに手を振るとブレダは司令室を出て行ってしまう。その背中を睨んでいたロイはハボックに視線を戻すと言った。
「おい、ハボック…」
 何か言いたげなロイの言葉を遮るようにハボックが言う。
「もう、終わったんスか?」
「ああ、全部な。これで私は一週間自由の身だ」
 ロイの言葉にハボックは執務室の前に立っているホークアイへと目を向けた。にっこりと笑う鳶色の瞳にハボックも笑い返す。ロイはそんなハボックの手を取ると言った。
「行こう。お前の家に案内するよ」
 そう言われてハボックは僅かに目を見開いてそれから嬉しそうに笑う。
「はい」
 微笑む空色の瞳にロイは頷くとハボックを連れて司令室を後にした。


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