菫青石の恋  第二十一章


 ハボックは扉を開けて外へ出ると空を見上げる。真っ青に晴れ渡った空のはるか上空を舞う鳥の姿に目を細めるとゆっくりと視線を下ろした。まだ春の遠い戸外は空気が切るように冷たくて、ハボックは上着の前をかき合せる。どこへ行く当てもなく歩き出すと枯れ草を踏む自分の足元だけを見つめて歩を進めた。
 エゴロフに殺されかけたハボックはロイに助けられた後、体が回復するのも待たずに病院を飛び出してここへやってきていた。どこか遠くへと思ったものの、どこへ行ったらよいのか皆目検討がつかず、気がつけば遠い昔に後にした生まれ故郷へとやってきていた。ハボックを捨てた両親も兄弟たちも既に村には姿がなく、その事に不思議とホッとしている自分がいる事に気付いて、ハボックは苦く笑う。誰も住むものがいなくなって久しい家を、ハボックはとりあえず雨風を防ぐ手段として使っていた。故郷に戻ってきたところで知り合いがいるわけでも仕事があるわけでもない。殆んど住む人のいなくなった村の中で、ハボックは何をしていいのか判らず、ただぼんやりと日々を過ごしていた。
 顔も上げずに歩いてきて、気がつけばいつものように川べりへとやってきている。ハボックは指定席になってしまった岩の上に腰掛けると川面を見つめた。こうしてすることもなく過ごしていると思い浮かぶのは愛しい人の姿ばかり。ハボックは脳裏に浮んだ黒曜石の瞳を打ち消すように激しく首を振った。
『好きなんだ、ハボック』
 耳元に響くのは熱を孕んだ低い声。忘れようとすればする程心の中に色鮮やかに甦って、ハボックは苦しさに震える吐息を吐いた。
 もし、あのままロイの傍にいれば、自分はきっとロイにすがり付いてしまうだろう。それがロイの為にならないと判っていても、縋りついて離れることが出来なくなるだろう。だからそうなる前にハボックは逃げた。逃げて、ロイの前から姿を消すことが、誰よりも愛しい人の為に自分が出来るただ1つのことだと思った。所詮、彼とは住む世界が違うのだ。雄々しく才能に恵まれた彼は陽の光の中を突き進んでいけばいい。こんなゴミ溜めの中で生きてきた自分などに心を向けている暇などないのだ。
 ハボックは陽の光に煌めく川面を見つめる。もう、彼の名を唇に載せることもやめてしまった。その名に込める想いが強すぎて、簡単に音にすることも出来なかった。
 ハボックは川面を見つめたまま己の体を抱き締める。いっそ彼を想って心のうちで燃え盛る焔が、彼の操る焔の様に自分を燃やし尽くしてしまえばいいのに。遠く離れて尚消すことの出来ぬ想いに、ハボックはきつく唇を噛み締めた。

「ありがとう、少ないが取っておいてくれ」
「いや、そんなもん、いらねぇよ。気をつけて行きな」
 一日に何本もない列車を乗り継いで、イーストシティから遠く離れた村までやってきたロイは、更にそこから奥地へと入る為にちょうど食料品を運ぶと言う荷馬車に乗せてもらっていた。ようやく目的地と思しき場所まで着いて、馬車から下りる時に手綱を握る男に何某かの金を渡そうとすれば、男は顔を顰めてそう言った。ムリに金を渡せば彼の好意を踏みにじることになると察したロイは金を渡すのをやめると礼を言って深く頭を下げる。男はもう一度「気をつけてな」と言って笑うと荷馬車を進めて行ってしまった。
 ロイは何もない殺風景な眺めを見渡す。村と呼ぶにはポツポツと建つ家の間は開きすぎて、果たしてここにどれだけの人が住んでいるのか疑問だった。ブレダの母方の親戚というのも、もう大分前にここを引き払ってしまったというこの場所が村として存在しているのか、そうして何よりハボックがここに来ているのか、ロイはあまりにも寂れてしまっている村の景色に不安を覚えながらも足を踏み出す。ゆっくりとした足取りは次第にスピードを上げ、ロイはあたりを見回しながら必死に村の中を駆け回った。きっとここにいるはずだという想いと、もう、ここにもいないのではないかという疑念がない混ぜになって、ロイの心をかき乱した。人の住まない打ち捨てられた家々を覗き込みながらハボックの姿を探す。訳もわからず走り続けて気がつけば小さな川のほとりへと出ていた。荒い息を吐きながらゆっくりと近づけば川面を冷たい風が吹き抜ける。キラキラと陽の光を弾く銀色の川の流れを見つめた時、一層暖かな煌めきを放つ何かを見つけてロイは足を止めた。川べりで大きな体を小さくちいさく縮こまらせているその姿が探し求めていた人のものだと気がついた時。
 ロイの足は考えるより早く走り出していた。

 川面を吹き抜ける冷たい風にハボックはぶるりと身を震わせる。噛み締めていた唇を解いてそっと息を吐き出すとゆっくりと立ち上がった。ずっと座り込んでいた体は寒さに凝り固まってしまったようでハボックは解す様に自分の体をこする。その時聞こえた足音に驚いて振り向いたハボックの目に飛び込んできたのは。
「ハボック…っ」
 真っ青な空の下、僅かに息を弾ませて自分を見つめてくる黒曜石の瞳。何度も何度も忘れようとしてどうしても忘れることの出来なかった人の姿にハボックは息を飲んだ。
「ハボック…っ!」
 くしゃりと顔を歪めて泣き笑いのような表情を浮かべるロイの声にハボックは我に返ると一歩後ずさる。
「ど…して…」
 唇から零れた問いはひしゃげたように掠れて、ハボックの動揺を伝えていた。
「どれだけ探したと…ハボックっ」
 そう言って近づいてこようとするロイにビクリと体を震わせるとハボックは、突然ロイに背を向けて走り出す。
「ハボックっ?!」
 驚いて追いかけてくるロイの手から逃れるように冷たい川の流れへと足を踏み入れていった。
「ハボックっっ!!」
 ザバザバと歩く川の深さはは腰までのそれから瞬く間に胸までとなり、流れは一層早くなる。水を吸い込んだ服は恐ろしく重くて、それでも必死に踏み出した足は川の底を捕らえることなく深みへと吸い込まれた。
「ハボックっ!!」
 ハボックを追って川の中へと飛び込んでいたロイは突然水面下に姿を消したハボックに慌てて息を吸い込むと、水の中へと潜り込む。ゆっくりと川の流れに引きずり込まれていくように沈んでいくハボックの姿を見つけると腕を伸ばしてその体を引き寄せた。二人の体を死の淵へと誘おうとする水の動きに逆らって必死に水をかき水面へと体を持ち上げる。ザバアと音を立てて水の上に顔を出すと、ロイはハボックの体を抱き締めながら川べりへと泳いだ。ようやく足がつくところまでくるとハボックの体を抱きかかえて進む。必死の思いでハボックと己の体を川岸へと引き上げるとロイはハボックの体を抱き上げた。
「ハボック…ハボックっっ」
 娼館でハボックを見つけたときのあの恐怖が甦ってロイの心臓を鷲掴む。だがゆっくりと開いた瞳に、ロイは安堵の息を漏らした。
「よかった…っ、なんて無茶をするんだ、お前はっ!」
 安心したと思ったと同時に湧き上がった怒りに、ロイはハボックを怒鳴りつける。ハボックはロイの顔を見つめていたが、小さな声で聞いた。
「どうして…どうして来たんです?」
 ダメだと判っていても諦められなかった。だから姿を消すことで断ち切ってしまおうとした、それなのに。
「私にはお前が必要なんだ」
「オレはアンタのためにはならないのに…」
「勝手に決め付けるな」
 ロイはそう言うとハボックの頬を撫でる。その綺麗な空色の瞳を覗き込むと言った。
「お前が好きだ。私が本当に好きなのはお前だけだ、ハボック」
 そう囁けばハボックが目を見開く。信じられないと言うように小さく首を振るハボックにロイは言葉を続けた。
「好きだ。信じられないというなら、信じるまで何度だって言ってやる。好きだ。私が欲しいのはお前だけだ」
 熱い想いを湛える黒い瞳に、ハボックの心がゆっくりと溶けていく。その空色の瞳からはらはらと涙を零すと震える声で囁いた。
「オレ、アンタを好きでいていいんスか…?」
「当たり前だ」
「傍にいても…?」
「勿論。私が傍にいて欲しいんだ」
 ハボックはロイの袖口をギュッと掴むと呟く。
「今、アンタの手を取ったら、きっと一生離せないっスよ?アンタがオレをいらなくなっても離せないっスよ?」
 そう言って不安な瞳で見つめてくるハボックにロイは優しく微笑んだ。
「離さなければならない時なんて、永遠に来ないよ、ハボック。むしろお前が離れたいと思っても、私が一生離さない」
 ロイはそう言うとハボックの涙を指で拭う。
「お前を愛してる、ハボック。私の傍にいてくれ」
 そう言って微笑む黒い瞳に。
「…マスタングさん…っ」
 思いの丈を込めたその名が、涙を流すハボックの唇から零れて落ちる。縋りついてくる体を抱きしめて、ロイは深くふかくハボックに口付けていった。


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