菫青石の恋  第十九章


「ん?」
 かくんと力の抜けた体にエゴロフは締めていた手の力を弛める。チッと舌を鳴らしてハボックの体を揺さぶろうとした時、ドオオンという音と共に部屋の扉が吹き飛んで、ギョッとして振り返った。
「誰だ、貴様っ?!」
 飛び込んできた人影が誰だか判別する間もなく、エゴロフが身を包む熱と爆風を感じたのは吹き飛ばされた己の体が壁に叩きつけられた後だった。声を上げることも出来ずに失神したエゴロフを見向きもせずロイはベッドへと駆け寄る。
「ハボックっ!!」
 ぐったりと横たわる体を抱き寄せてロイは涙に濡れたその顔を見下ろす。薄っすらと開かれた瞳が何も見つめていない事に気付いてゾクリと体を震わせた。ロイはハボックの体をベッドに下ろすと片手で額を押さえ、もう片手で顎を持ち上げる。舌が喉を塞いでいないことを確かめると唇を合わせて息を吹き込んだ。祈りを込めて何度か吹き込めば、ハボックの体がピクンと震えて喉からヒュウと音が鳴る。それに引き出されるように激しく咳き込むハボックをロイはホッとしたように抱き締めた。
「マ…グさ、ん…?」
 さっきまで何も映していなかった瞳に己の姿を認めてロイは泣き笑いのように微笑む。
「よかった…失わずに済んだ…っ」
 そう呟いて抱きしめてくる腕を、ハボックはぼんやりと受け入れていた。足音も荒く駆け込んできた男達が見つめる中、ロイはただしっかりとハボックの体を抱きしめていたのだった。

「結局あの娼館、取り潰しになるらしいですよ」
 執務室から出てきたロイにブレダが書類を書く手を止めて言う。ブレダの言葉に足を止めるとロイは答えた。
「当たり前だ。大金積まれて人殺しに目を瞑ってきたんだからな。支配人も客もただでは済まん」
 苦々しげに答えるロイにブレダが言う。
「エゴロフも逮捕されたし、余罪がゴロゴロ出てきそうですね」
 殺人未遂で逮捕されたエゴロフは今まで同様、金に物言わせて罪を逃れようとしたようだが、今回の逮捕劇にあの焔の錬金術師が絡んでいるとわかると、これまでエゴロフに手を貸していた者たちは一斉に手を引いた。下手に庇い立てして己の身に被害が及ぶことを恐れてのことだった。
「本当はエゴロフに手を貸していたヤツらも全員牢にぶち込んでやりたいところだが」
 そんな事に構う時間があるくらいならロイには今もっと大事にしたい時間があった。
「病院ですか?」
 腕に上着を抱えているロイにブレダが聞く。
「ああ」
 答えて司令室を出て行くロイに「お大事に」とブレダの声がかかった。ロイはそれに軽く手を上げて答えると、足早に司令部を後にしたのだった。

 病室の扉を軽くノックすれば返るいらえにロイは扉を押し開ける。窓際のベッドで身を起こして外を見ていたハボックは入ってきたロイの姿に僅かに目を細めた。
「マスタングさん」
「具合はどうだ?」
 ロイは聞きながらベッドサイドに椅子を引き寄せると腰を下ろす。ロイの動きを目で追っていたハボックは小さく微笑むと答えた。
「もう大分よくなりました」
 そう答えるハボックの首元にロイは手を伸ばす。そこにはまだ締められた痕がくっきりと残っていた。気遣うように撫でてくる指先をそっとかわしてハボックが言う。
「大丈夫ですから。もう、なんともありません」
 そう言うハボックにロイは眉を顰めた。
「あの時の恐怖は忘れられない。虚ろに開かれたお前の瞳を見たときの私の気持ちが判るか?」
 ロイはそう言うとハボックの空色の目元に指を這わせる。そうして暫く何も言わずにいたロイは指を離すとハボックの手を取った。
「シュトフは軍の公金横領と物資の横流しの罪で、エゴロフは殺人未遂とその他諸々で逮捕された。娼館の支配人も逮捕されてあそこは取り潰しになった。もう、お前を縛るものは何もない」
 そう言うロイの瞳をハボックはじっと見つめていたが、窓の外に目を移すとゆっくりと口を開く。
「夢を見たんです」
「夢?」
「アンタに初めて抱かれた時の夢」
 そう言われてロイは僅かに目を見開いた。ハボックは外を見ていた視線をロイに戻すと言う。
「そういえば、あの時お借りした金、返さないとっスよね」
 そう言われてロイは初めてあの時ハボックに「貸す」と言って金を渡したことを思い出した。
「返せる時でいいって言われたのに、オレ、金を返しに行かなかった」
 ハボックはポツリと呟くように言う。
「金は溜まってたし、アンタは有名な人だからあの時オレを抱いたのがアンタだってすぐ判ったけど、それでも返しにいかなかった。金を返したら、もうアンタとオレを繋ぐものがなくなると思って。あり得ないと判ってたけど、もしかして金を返さずにいたら、ある日突然アンタと会えるかもしれないって思ったんスよ」
 ハボックはそう言うと苦く笑った。
「バカみたいでしょ?アンタがオレのこと覚えてないって判ってからも金を返しに行けなかった」
「ハボック、私は――」
「覚えてなかったこと、責めてるんじゃないんです。そんなの、当然っスもん。オレが勝手にそう思ってただけ」
 そう言って微笑むハボックの手を握り締めるとロイは囁く。
「お前が好きなんだ、ハボック。多分、初めてお前を抱いたその時から。…信じてもらえないかもしれないが」
 ロイは1つ瞬くと握る手に力を込めた。
「好きだ。退院したら一緒に暮らしたい。一生私の側にいてくれないか?」
「オレじゃアンタの役には立てないっスよ」
 ハボックはそう言って微笑むと視線を落とす。
「アンタに必要なのはアンタが大願を果たす為に力を貸してくれる人間でしょう?男に脚を開くことしか知らないオレみたいな人間じゃない」
「私にはお前が必要なんだっ!」
 声を張り上げるロイにハボックは空色の瞳を見開いた。くしゃりと顔を歪めると震える吐息と共に言葉を吐き出す。
「オレじゃアンタの役には立てません」
「それは私が判断することだ」
「判断なんてする必要もないでしょう?誰が見たって明らかじゃないっスかっ」
「そんなの、お前が勝手に思い込んでいるだけだろうっ」
 ロイはそう言うとハボックの体を抱き締めた。
「好きなんだ、ハボック。離したくない、側にいてくれ」
 ロイはそう言うとハボックに口付ける。きつく絡められる熱い舌に、ハボックは身を震わせてロイのシャツを握り締めた。

 数日後、ロイは仕事を終えるといつものように病院へと向かっていた。あの後、何度一緒に暮らそうと言ってもハボックは頷いてはくれなかった。確かに今までのことを思えば、例えどれ程ロイを愛していたとしてもハボックが容易に頷くことが出来ないのは判る。それならば頷いてくれるまで何度でも言うだけだ。例え格好が悪くってもロイは何度でもハボックにそう言い続けるつもりだった。病院の扉をくぐり、階段で3階まで上がるとノックもせずに病室のドアを開ける。だが、そこに待っていたのは空になって寝具が綺麗に片付けられたベッドだけだった。
「ハボック…?」
 呆然と空のベッドを見つめていたロイは風にカーテンが翻る音で我に返る。病室を飛び出すとちょうど通りかかった看護士を捕まえて言った。
「ハボックは?ハボックはどこだっ?」
「ハボックさんなら今朝方退院されましたけど」
 病室が変わっただけだという返事を僅かながらに期待していたロイは、看護士の言葉に息を飲む。グッと肩を掴むと怒鳴るように聞いた。
「どこに行ったか知ってるか?アパートに戻ったのか?」
「さあ、そこまではちょっと…」
 困ったように答える看護士の肩を突き飛ばすように離すとロイは廊下を駆けていく。「静かに」と諌める声にも耳を貸さず病院を飛び出すとハボックが住んでいたアパートへと向かった。必死に駆けてかけてようやく辿り着いたアパートの部屋の扉をロイは乱暴に開け放つ。住む人のいなくなった部屋には封筒が1つ置いてあった。封筒を拾い上げて中を覗けばそこにはかつてロイがハボックに貸すと言って渡した金が入っていて。
「ハボック…」
 ロイは封筒を握り締めて空っぽの部屋の中、呆然と立ち尽くしていたのだった。


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