| 菫青石の恋 第十五章 |
| 「店に出せないだぁ?どういうことだ、それは」 不愉快そうなエゴロフに支配人が答える。 「はい、それがこのたび正式に身請けの話が決まりましたので、店の方に出すのはちょっと…」 ヘラヘラとへつらう様な笑顔を浮かべる支配人にエゴロフは煙草を吸いながら聞いた。 「もう金は貰っているのか?」 「いえ、まだですが、10日後には全て済ませてここから出る事になっております」 支配人の言葉にエゴロフは少し考えるふうに押し黙ったが少しすると言う。 「身請けの前に一度でいい、抱かせろ」 「ですからそれは――」 「金なら出すぞ、いくらでも」 エゴロフはそう言ってニタリと笑うと支配人の顔に向けてプハアと煙を吐き出した。 「結局お前は金だろう、昔から。違うか?」 そう言われて支配人は顔を歪める。それでも自嘲気味に嗤うと答えた。 「ま、否定はしませんがね。判りましたよ、私に貴方の頼みを断れるはずもないですからね。だが言っておきますがくれぐれもやり過ぎないようにしてくださいよ。この間のようなことじゃ困ります、今回は特に」 「わかっているとも」 エゴロフはそう答えると煙草を灰皿に押し付けて立ち上がる。 「1週間後だ、いいな」 「お待ちしております」 そう答えて頭を下げる支配人に背を向けると、エゴロフは低い嗤い声を残して出て行ったのだった。 「あれ?フュリー、居残り?」 煙草を灰皿に押し付けて帰ろうと立ち上がったブレダはフュリーに向かって聞く。今は大きな事件もなく、珍しく定時に上がれそうであるにもかかわらず、フュリーは机の上にパソコンの端末を広げていた。 「調べ物か何かか?」 「ええ、まあ」 そう答えてチラリと執務室を見たフュリーにブレダは「ああ」と頷く。 「大佐絡みか」 「そうなんですけど、それがその…ハッカー紛いっていうか…」 「はあっ?なんだよ、ソレ」 驚いたブレダが素っ頓狂な声を上げたとき、執務室の扉があいてロイが出てきた。 「すまないな、フュリー曹長」 「大佐、ハッカーなんて随分穏やかじゃないですね。何事なんです?」 そう尋ねるブレダに、だがロイは答えようとしない。その思いつめたような表情にそれ以上聞くこともはばかられてブレダは口を噤んだ。 「大佐、いつでもいいですよ。どこに入ればいいですか?」 微笑んでそう聞いてくるフュリーにロイが言う。 「ありがとう。何か問題が起きた時には私が全面的に責任を取るから」 「問題なんて起きないようにやって見せますよ」 ニッと自信ありげに笑うフュリーにロイも笑った。 「頼りにしてるよ、曹長。それじゃあ、まず――」 表情を引き締めたロイが与える指示のままにフュリーはキーボードを叩き始めたのだった。 あと数日でシュトフのところへ行くという日、ハボックはアパートで部屋の整理をしていた。もともとある物といえば服と僅かな食器、鍋くらいで整理といってもあっという間に終わってしまう。身請けの話が決まってからは流石に客をとらされる事もなく、ハボックはこれまで生きてきた中で初めてといえるほど穏やかな日々を過ごしていた。それでもこの先のことを思えばとても寛ぐ気になどなれず、ハボックはまとめた本を縛るとため息をつく。窓を見上げれば立ち並ぶアパートの屋根の隙間から青い空が見えた。こんなふうに空を見たのはいつだったかと考えて、それがあの雨の日以来だという事に気がつく。ロイがこの部屋に来た、奇妙に穏やかだったあの日。もうはるか昔のようで実はそんなに月日がたったわけでなく、だが、ハボックは随分遠くまで来てしまったように感じていた。 (マスタングさん…) シュトフのところに入ればもう二度と会うことは叶わないだろう。そう思った次の瞬間、ハボックの心の中に激しい感情が湧き上がった。 (会いたい…。顔をみるだけでもいい、最後にもう一度だけ…っ) シュトフに身請けされる前、明日の夜にはエゴロフと会う事になっている。今日を逃せばもう、ロイと会う機会はないだろう。 (もう一度だけ…) ハボックはアパートを飛び出すとロイのいる東方司令部へと走っていったのだった。 『悪いな、ロイ。本当ならオレがすぐにでも持って行ってやるところなんだが、生憎どうしてもセントラルを離れられなくてな』 「なに言ってるんだ、調べてくれただけでも感謝してる」 『で、どうする?誰かに持っていかせるか?』 「いや、私が取りに行く」 シュトフについて調査を頼んでいた件で、幾つかの証拠品を入手したヒューズから連絡を受けたロイは電話の向こうの親友に向かってそう言う。短く判ったと答える声がしてヒューズが深いため息をついた。 『にしても、軍の公金横領と軍事品の横流しかよ。なんで今まで問題にならなかったんだ?』 「情報部の怠慢だろ」 『かーっ、言うねぇ、ロイ君。せっかく調べてやったのに!』 「おかげで軍の膿を1つ出せるだろう?」 『まあな』 くすくすと笑うヒューズにロイが言う。 「こっちでも証拠は出揃った。そっちのと合わせて一気に締め上げてやる」 『恋する男を敵に回すと怖いねぇ』 「ヒューズ」 険しい声を出すロイにヒューズが笑った。 「これからすぐそちらへ行く。今からなら明日の朝には着くだろう」 『判った、待ってる』 ヒューズの答えを聞いてロイは受話器を置くと席を立つ。執務室を出て司令室を見回すとブレダに声をかけた。 「ブレダ少尉、駅まで車を頼む」 「判りました」 答えて出て行くブレダの後を追うようにロイは司令室を出る。建物の玄関前で待っていると間を置かずにブレダが車を回してきた。ブレダが出てくるのを待たずにロイは自分でドアを開けると車に乗り込む。急かされるように車を発進させたブレダは鏡越しにチラリとロイを見たが何も言わずにアクセルを踏み込んだ。イーストシティの駅に近づいて流石にブレダがロイに尋ねる。 「誰かの迎えですか?」 「…いや、これからセントラルに行く」 「セントラル?随分急ですね。中尉は一緒じゃないんですか?」 驚いたブレダが尋ねる間にも車は駅へと近づき、ブレダは駅前広場の中に車を止めた。乗り込んだときと同じように自分で扉を開けてロイはブレダに言う。 「中尉にはすぐ戻ると伝えてくれ」 「えっ?!ちょっ…、それって、あ、えと、大佐っ!」 慌てるブレダを置き去りにロイは改札へと駆け込んでいった。 「おい、これって拙いんじゃないのか?」 一人取り残されたブレダはロイの消えた改札を見つめながらポツリと呟いたのだった。 わき目も降らず駆けてきたハボックは司令部の建物が見える場所まで来ると脚を弛める。ハアハアと荒い息をつきながら建物を見上げた。ここまで来たのはいいが、どうやってロイに会うというのだろう。いきなり会わせてくれと言ったところで取り次いでもらえるとも思えず、途方に暮れたハボックが司令部の前で立ち竦んでいるところへ軍の車が走ってきた。ハボックのすぐ側で止まったかと思うと車の窓からブレダが顔を出す。 「あれ?アンタ、確か…」 ブレダはそう言いながら車から降りると警備兵に後を任せハボックに近づいてきた。 「俺のこと覚えてる?一度マスタング大佐と――」 「ブレダさん、ですよね。その節はどうも」 ぺこりと頭を下げるハボックにブレダは照れくさそうに笑うと言う。 「珍しいな、こんなところで。司令部に用でも?」 そう聞けばハボックは一瞬考えるように唇を噛み締めたが、ブレダを見つめると言った。 「あの、マスタングさんにお会いできないでしょうか」 そう聞かれてブレダは驚いたように目を瞬かせたが、頭をかくと残念そうに答える。 「悪いな、大佐ならたった今セントラルに出かけたんだ」 「セントラルに?」 「ああ、すぐ戻るとは言ってたけど、早くても明日の夜だろうな」 「明日の夜…」 ハボックはそう呟くと視線を落とした。落胆した様子のハボックにブレダが言う。 「大佐に何か用か?俺で出来ることがあれば聞くけど」 そう聞かれてハボックは驚いたように顔を上げたが、にっこりと微笑むと答えた。 「いえ、大したようじゃないっスから」 ハボックはそう言うと一呼吸置いて続ける。 「オレ、あそこの店、出る事になったんで一言挨拶したくて」 「店を出る?そうなのか、なんだ、よかったじゃないか」 ハボックの言う意味が単純に店を辞めるという意味だととったブレダがそう言って笑うのを聞いて、ハボックも小さく微笑んだ。 「もう、お会いすることもないでしょうけど、色々とありがとうございましたと伝えてもらえますか?」 「それは構わないけど。そんな遠くに行くのか」 「ええ、まあ」 ハボックは曖昧にそう答えると司令部の建物を見上げる。暫くの間じっと見つめていたハボックは視線をブレダに戻すと言った。 「それじゃ、ブレダさんもお元気で」 「ああ、アンタも元気でな」 ハボックはブレダの言葉にニコッと笑うと頭を下げる。それからくるりと背を向けると、振り返ることなく走り去ったのだった。 |
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