菫青石の恋  第十二章


 ロイはホテルを出ると足早に歩いていく。ただ無性にハボックに会いたくて仕方がなかった。店で会えないなら家に行けばいいのだと今更ながらに気がついて、自分のバカさ加減に呆れてしまう。結局は自分もハボックとのことをどこかで客と男娼として線引きしていたのかも知れないと思い、それが意識しないところでハボックを追い詰めていたのかもとロイはハボックに詫びたい気持ちでいっぱいだった。ともかくまずはハボックに会いたいと人ごみをかき分けるようにしてハボックのアパートに向かっていたロイは後ろから呼び止める声に仕方なしに足を止める。
「大佐」
「ブレダ少尉」
 振り向けばブレダを始めとする部下達3人がちょっと紅い顔をして立っていた。きっと今までどこかで飲んで、更にもう一軒、と言ったところなのだろう。
「悪いが財布を当てにされてもつきあえないぞ」
「あはは、バレましたか」
 そう言って頭をかくブレダにロイが苦笑して歩き出そうとした時、狭い路地から声がかかった。
「あの…僕のこと買ってくれませんか?」
 その言葉に驚いて路地の中を見やればほっそりとした少年が両手を握り締めて立っている。目を瞠るロイにブレダが大声で言った。
「ああ、ダメダメ。この人、根っからの女好きだから!他当たりな」
 そう言われてしょんぼりと肩を落として路地を引き返していく少年の背を見送りながら、ロイは不意に遠い日のことを思い出していた。
『オレのこと、買ってくれない?』
 そう声をかけてきた金髪の少年。
「このあたりでもああいうの、いるんだな。あんなガキのうちからなんて…」
「親はいないんでしょうか?」
「いないからこそああするしかないんでしょうな」
 そんな風に話す3人の声もまともに耳には入って来ない。ロイの脳裏にはただ、あの時涙に濡れていた空色の瞳が浮んでいた。
(どうして忘れていたんだろう…)
『オレがもっとおとなだったら…アンタの涙を受け止めてあげられる、のに…』
 そう言ってロイを抱きしめた細い腕。その腕が後悔と罪の意識で砕けそうだったロイの心を繋ぎとめてくれたと言うのに。
『マスタングさん』
 そう呼んではにかむように笑う空色の瞳があの少年の瞳と重なって。
「えっ、大佐っ?!」
 突然走り出したロイを呼び止める声にも振り返らず、ロイは一直線にハボックのアパートへと向かったのだった。

 ハボックはぼんやりとソファーに腰掛けていた。エゴロフに散々嬲られた体はまだ本調子ではなく、それでも客を取ると言い張ったハボックをブルーノが無理矢理休ませたのだった。
(放っておいてくれればよかったのに…)
 気がついたときには手当てを受けてソファーに横たえられていた。あのまま放置してくれればきっとじわじわと死んでいけただろうに。
(オレには似合いの死に方だと思ったんだけどな…)
 若い体はハボックが望まなくても回復へと向かっていく。その事が耐え切れずにそっと目を閉じたハボックの耳に扉を叩く音が聞こえてきた。とてもこたえる気にはなれずそのまま無視を決め込むがノックの主は諦めようとしない。このままじゃアパートの他の住人から苦情が出るだろうと、仕方なしに立ち上がると玄関へと向かった。
「何の用――」
 そう言いながらガチャリと扉を開けたハボックは、目の前に立っているのがロイだと気付いてギクリと身を震わせる。慌てて締めようとしたところをロイに素早く足を挟んで阻まれ、ハボックは転びそうになりながら部屋の奥へと逃げ込んだ。
「なん…なんで…っ」
 リビングの壁に張り付くようにして目を見開くハボックにロイはゆっくりと近づいていく。ハボックから数歩の距離の所で立ち止まるとまっすぐに見つめた。
「何しにきたんスかっ?!」
「会いにきた。店で会おうと思っても時間をあけてもらえないようなのでな」
「二度と来ないでくれって言いましたよね?」
「頷いた覚えはない」
 ロイの答えにハボックは目を瞠る。震える唇を噛み締めると呻くように言った。
「何の為に会いに来るんスか?オレのこと、嘲笑いたいの?」
「お前に会いたいから行くんだ。好きだから会いたいんだ」
 ロイはそう言って一呼吸置くとハボックを見る。その空色の瞳がとても綺麗だと思いながら言った。
「お前が好きだ、ハボック」
 ロイの言葉にポカンとするハボックは幼い子供のようで、その表情がロイの中で甦った少年の姿と重なる。ロイは緩く首を振ると言った。
「どうして忘れていられたんだろうな。あの時救ってもらったのは私の方だというのに」
 零れ落ちてしまうのではないだろうかと思えるほど目を見開いているハボックを見つめてロイは言う。
「お前を最初に抱いたのは私だろう?」
「な…」
「お前を最初に買った若い男と言うのは私のことだろう?」
「違う…っ!アンタのはずがあるわけな――」
「“お前を自分のいいようにしてると思い込むバカな男達を見下してやるといい”と、そう言ったんじゃないのか?」
 そう言われて息を飲むハボックにロイは一歩近づいた。
「そう言ったんだろう?」
「ど…して?この間話した時は全然…」
「ああ、全くバカな話だ。思い出さなかったどころか、私は“お前を最初に抱いた男”に嫉妬してたんだ。お前を最初に抱いて、その存在をお前の心に深く刻み付けた男に」
 ロイはそう言うともう一歩ハボックに近づく。
「あの頃の私はイシュヴァールから帰ったばかりで身も心もボロボロだった。夜もろくに眠れずとっかえひっかえ女を抱いては一時の眠りを得ようとしてた。でももうそれもいい加減限界であのままだったらきっと、そう時を置かずに誰かを焼き殺していただろうな。そんな時だったんだ、お前に会ったのは」
 ロイは手を差し出せばハボックを抱きしめられる距離まで近づいて言った。
「女達は私を英雄だと言って私とのセックスを楽しんだ。でもお前は私の涙を受け止められたらと言ったんだ。涙の流し方すら忘れてしまった私に」
 ロイは手を伸ばすとハボックの指先に触れる。
「お前は私の一言が支えになったと言ったな。だが、私もお前のおかげで救われたんだ。お前が砕け散る寸前だった私の心を抱きしめてくれた。おかげで私は今こうしていることが出来ているが、それでもその後誰かを愛することは出来なかった。砕けはしなかったが冷え切ってしまった心は誰も愛することなど出来なかった。でも、お前と会って気がつけばお前のことばかり考えるようになっていた。お前に会いたくてお前と一緒にいるのが楽しくて楽しくて…。でも、お前がシュトフに抱かれているのを見たとき、赦せなかった、シュトフを殺してやりたいと思った。それが嫉妬だと判った時、私はお前に恋していることを知ったんだ」
 そこまで言ってロイはハボックの手をそっと握り締めた。
「好きだ、ハボック。私はお前が好きだ」
 そう言ってハボックを見れば見開いた空色の瞳が揺れる。ほろりと一粒涙を零したハボックを抱き締めようとしたロイをハボックは握られた手を振りほどいて突き放した。
「ハボックっ!」
「ダメっスよ、マスタングさん。オレにそんなこと言っちゃ」
「…どういうことだ?」
 ハボックの言うことが判らずそう聞けばハボックはうっすらと笑う。
「オレは男娼なんです。アンタにそんなこと言ってもらう資格、ないです」
「資格?なに馬鹿なことを――」
「すげぇ嬉しいっス」
 ロイの言葉を遮ってハボックは言った。
「たとえ一時の気の迷いでもそう言ってもらえて、それだけでオレは生きていける」
「バカを言うなっ、気の迷いなんかであるわけないだろうっ!」
 声を荒げるロイにハボックは首を振る。
「アンタとオレじゃ住む世界が違う。アンタはオレなんかにそんなこと言っていい人じゃない」
 ムッとしたロイが何か言う前にハボックが言った。
「これを見て下さい」
 そう言ってボタンを外しシャツを脱ぎ捨てる。現れた白い肌に刻まれた暴行の痕にロイは息を飲んだ。
「この間エゴロフに買われた時の痕です。下半身はもっとすごいっスよ」
「…くそっ、なんてことをっ」
 呻いて思わず手を差し伸べるロイの腕を逃れてハボックは言う。
「こんなにされてもオレはエゴロフを拒めなかった。酷い目にあわされて痛くて辛くて仕方がないのにでも、体はそれを快感として受け止めて」
「だがそれはお前の立場が逃げるわけに行かなかっただけで――」
「逃げるわけに行かなかったわけじゃない。確かにガキのうちはどうしようもなかったかもしれない。でも今はそうしようと思えば逃げられないことはないのに、オレはそうしなかったんだ」
「ハボック…」
 ハボックは脱ぎ捨てたシャツを拾って身につけると言う。
「結局オレは薄汚い男娼でしかないんスよ」
「ハボック、それは違――」
「シュトフ大佐から」
 聞きたくもない名で言葉を遮られてロイはハボックを見た。ハボックもロイを見つめ返して言う。
「シュトフ大佐から身請けの話が来てるんです」
「な…っ」
「受けるつもりです。もっともその前にエゴロフにヤり殺されなければの話っスけど」
「ハボックっ!!」
 驚愕に見開かれる黒い瞳を見つめてハボックはロイに言った。
「さよならです、マスタングさん」
 ハボックはそう言うとにっこりと笑う。
「愛してます」
 そう言ったハボックの綺麗な顔にロイは思わず息を飲んだ。その一瞬の間にハボックはロイの脇をすり抜けアパートを飛び出していってしまう。
「ハボックっ!待てっ!!」
 慌てて追いかけたロイは、だが入り組んだ路地の中、すぐにその姿を見失ってしまった。ロイはハボックの姿を探して路地の間を必死に走り回るが見えるのは薄汚いバケツやゴミばかりで。
「ハボック…っ!!」
 狭い路地の中をロイの悲痛な声だけが響いていったのだった。


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