菫青石の恋  〜 Another ending 〜


「すまん、ハボック。まだセントラルにいるんだ」
『えっ、そうなんスかっ?』
 夕方になってロイはイーストシティの自宅に電話を入れる。結局あの後仕事を放って出るわけにも行かず、周りをせっついて超特急で仕事をしたもののやはりその日のうちにはイーストシティに戻ることが出来なくてロイは訳を話した。
「すまないな、明日の朝一の列車で帰るつもりだから」
 ロイがそう言えば一瞬の間を置いてハボックが答える。
『仕事なんスから仕方ないっスよ。無理しないでゆっくり帰ってきてください』
 そう言うハボックの声が心なしか元気がない気がしてロイはハボックの名を呼ぶ。
「大丈夫か?体調はどうなんだ?」
 そう尋ねればこの一週間、毎日聞いていたのと同じ答えが返ってきた。
『平気っス。心配ありません』
「…そうか。明日は必ず帰るから」
『はい、待ってます』
 もう二言三言同じようなことを繰り返すとロイは「切るぞ」と呟いて受話器を置こうとする。その時、ロイを呼ぶ声がして、ロイは慌てて受話器を耳に押し当てた。
「どうした?」
そう聞いてもすぐには答えないハボックにロイは不安になる。もう一度言おうと口を開くのと同時にハボックの声がした。
『待ってますから、オレ』
 呟くような声にロイが答える。
「ああ、なるべく早く帰るから」
『…はい、待ってます…』
 その声を最後に電話が切れた。ロイは暫くの間受話器を置くことが出来ずに発信音をぼんやりと聞いていたが、やがて1つ首を振るとフックに手を伸ばして電話を切る。それから馴染みの番号を回すとブレダを呼び出した。
「少尉か?」
『ああ、大佐。出張、延びちまったんですって?災難でしたね』
「それもこれもセントラルの馬鹿どものせいだ。それより少尉、今日はまだ仕事があるのか?」
『いえ、勝手な上司が不在だもんで順調に終わって定時には上がれそうですよ』
 可愛げのない言い方に普段なら嫌味の1つも返してやるところだが、ロイはブレダの言葉を無視すると言う。
「すまないが、少尉。帰りに家に寄ってくれないか?」
『ハボックですか?どうかしましたか?』
 余裕のないロイの声にブレダもすぐ切り替えて答えた。
「あまり具合がよくない様なんだ。悪いが様子を見て来てくれ」
『わかりました、あと少しで片がつくんでそうしたら行ってきますよ』
「頼む」
 ロイはそう言うと電話を切る。1つため息をつくと書類に手を伸ばしたのだった。

「…はい、待ってます…」
 ハボックはそう呟くと受話器を置く。暫く受話器から手を離せずにそのままの姿勢でいたがゆっくりと手を離した。
「マスタングさん…」
 仕方ないと判っていてもロイに会いたくて仕方がない。それでもハボックは諦めるように一つ頭を振るとこの一週間の殆んどを過ごしていたベッドに戻ろうと足を踏み出した。
「あ、れ…」
 その途端グラリと体が傾いでハボックは目を瞑る。遠くで何かが倒れる音を聞いた気がして、ハボックは閉じていた目を開けた。視線の先にテーブルの脚が見えて倒れたのが自分なのだと気がつく。立ち上がろうとしたが体は鉛のようで全く動かなかった。
(どうしたんだろう、オレ…なんで動かないんだ?)
 ぼんやりとした頭でそう考える。なんだか上手く息が継げなくてハボックの手が弱々しく絨毯を掻き毟った。その拍子に電灯の光を弾いて指輪が光る。ハボックの脳裏にロイの黒い瞳が浮かび上がってハボックは唇を震わせた。
「マ…」
 誰よりも愛しくて誰よりも会いたい男の名は空気を震わせただけで音にはならず、ハボックの意識は闇の中へと飲み込まれていった。

 ブレダは仕事を済ますと急いで司令部を出る。夜になって冷え込んできた空気に首を竦ませるとロイの家へと急いだ。高い門扉の側についた呼び鈴を鳴らしたが返事がない。ブレダは少し待ってみたが門扉を押し開けると中へと入った。玄関の扉の前に立つとドンドンと扉を叩く。
「ハボックっ?」
 大声で呼んで灯りの漏れる家の中を透かし見たが人が動く気配がない事に段々と不安になっていった。
「くそ…合鍵持ってくるんだった」
 具合が悪いらしいと聞いていたのに司令部で預かっていた鍵を持ってこなかった事を後悔しながらブレダは考える。一度外へと出ると隣の家に駆けていった。呼び鈴を押すと出てきた老婦人に言った。
「私は隣のロイ・マスタング大佐の部下でハイマンス・ブレダ少尉と言います。申し訳ないのですがひとつお願いがあるのですが」
 何事かと目を瞠る老婦人にブレダはロイの家の鍵を壊したいので立ち会ってくれと頼む。事情を察した老婦人がすぐに頷いて、二人は急いでロイの家に向かった。ブレダは玄関の扉の前で銃を抜くと鍵穴に向ける。引き金を引けば鍵が弾けて飛んだ。
「ハボック!」
 ブレダは呼びかけながら家の中へと駆け込む。後ろに老婦人の足音を聞きながらリビングへ飛び込んだブレダは床に倒れている人影にギクリと体を強張らせた。
「ハボック…っ」
 低く呻いて倒れる体に飛びつけば遅れてリビングに入ってきた老婦人が悲鳴を上げる。ブレダはハボックの体を抱き起こしながら怒鳴った。
「医者を呼んでくださいっ!」
 そう言われて老婦人が電話に飛びつく。ブレダはぐったりとした体を抱きかかえるとハボックの名を呼んだ。
「ハボックっ、しっかりしろっ!!」
 そう言いながらハボックの鼻先に手を当てたブレダは目を見開いた。
「…ウソだろう?」
 そう呟いたブレダは慌ててハボックの体を横たえるとその胸に重ねた両手を当ててグッと体重をかける。
「ウソだっ、しっかりしろっ、ハボック!しっかりしろっ!!」
 ブレダは泣き出しそうな己を叱咤しながら必死に心臓マッサージを続けたのだった。

 夜も大分遅い時間になって鳴り響いた電話にホークアイは眉を顰める。読んでいた本を閉じると受話器に手を伸ばした。電話の相手がイーストシティのブレダからだと判るとホークアイは受話器を耳に押し当てる。
「どうしたの、少尉?何か――」
 そこまで言ってホークアイは受話器の向こうから聞こえた声に目を見開いた。普段、冷静なホークアイからは考えられないほど取り乱して受話器を握り締める。
「そんな…本当なの、少尉…?」
 ウソだと言って欲しくてそう言いはしたがそんな答えが返って来る筈もないことは判りきっていた。ホークアイはブレダの言葉にふたつみっつ頷くとそっと受話器を置く。ギュッと目を瞑ると唇を震わせた。
「ずるいわ、少尉。私に押し付けるなんて…」
 さっきまで話していた相手をそう罵るとホークアイは目を開く。ベッドサイドの椅子にかけてあった軍服に手を伸ばすと手早く身につけた。下ろしていた髪を結い上げキュッと止める。荷物をまとめて部屋を出るとすぐ隣のロイの部屋の前に立った。ホテルの厚い扉を見上げて呼吸を整えると手を上げる。拳を作った手でコンコンと叩けば暫くしてロイが顔を出した。
「どうしたんだ、中尉。こんな時間にそんな格好で」
 きちんと軍服を着込んで荷物まで持ったホークアイの姿にロイは目を瞠る。ホークアイはロイを促して部屋の中へ入ると言った。
「すぐに出かける準備をして下さい、大佐」
 どうしたと問おうとして、ただならぬホークアイの様子にロイは軍服を身につける。荷物をまとめたロイを見つめるとホークアイが言った。
「座って下さい」
 そう言われてロイは疑問に思いながらもベッドに腰を下ろす。ホークアイはその前に立つとロイを見つめた。
「これから私が言うことを落ち着いて聞いて下さい」
 不思議そうに見上げてくる黒い瞳にホークアイは震える手を握り締めると目を閉じる。
(ずるいわ…)
 そう心の中で呟くと目を開けた。
「ジャン・ハボックが亡くなったそうです。さっきブレダ少尉から連絡がありました」
 そう言えばロイがポカンとしてホークアイを見上げる。何を言っているのか判らないと言う顔をしているロイにホークアイは繰り返した。
「ジャン・ハボックが亡くなりました、大佐。私が言っていることが判りますか?」
 震える声でそう告げればロイの目がゆっくりと見開いていく。飛び上がるように立ち上がろうとしたロイの肩をホークアイが押さえた。
「落ち着いて下さいっ、今出てもまだ列車は動いてません。準備をしてもらったのは話を聞いてからではとてもそんな事出来やしないと思ったからです。今はまだここで――」
 そこまで言ったとき、物凄い勢いで突き飛ばされてホークアイは床に倒れ込む。無言のまま部屋を飛び出すロイの背に向けて名を呼んだ。
「大佐っ!!」
 ホークアイは慌てて立ち上がるとロイの後を追って部屋を飛び出したのだった。


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