続ハイムダール国物語  第四十五章


 扉から離れて逃げ出そうとすれば、低く笑う男の声が聞こえてくる。ゾッとするほど不気味な笑い声に早く逃げなければと思いながら、ロイは振り向いて男の様子を見ずにはいられなかった。
「クク……ついに復讐を果たす時がきた。俺のことを軽んじたらどうなるか、ハイムダール王家に思い知らせてやる。まずはロイ王子だ……あの白い肌や綺麗な顔に生きているのが嫌になるほど醜い痕を刻んでやろう。この薬で醜く焼け爛れた顔を見たらハボック王子も目が覚めるだろうよ。ハボック王子に捨てられて絶望に苛まれて、醜い顔で生き続けるか塔のてっぺんから身投げするか、いずれにせよ素晴らしい運命が待っている。ふふふ、楽しみにしていろ、ロイ王子。目が覚めたときが地獄の始まりだ……ッ」
 ゲラゲラと狂ったように笑いながら鍋を掻き混ぜる姿を、ロイは食い入るように見つめる。叫び出したりしないよう口元を押さえた掌の下、浅い呼吸を繰り返しながらロイはゆっくりと後ずさった。扉から十分離れ、後はもうここから逃げ出すだけと鍋を掻き回すローゲに背を向けた時。
カララ……ッ!
「ッッ!!」
 足下に落ちていた缶が靴に当たり軽い音を立てて転がる。ヒュッと上がりかけた声を飲み込んで、ロイは咄嗟に近くの棚の陰に身を隠した。
「ん?」
 小さな物音にローゲが鍋を掻き混ぜていた手を止める。ゆっくりと振り向き、薄く開いた扉を訝しげに見た。
「────」
 ローゲは鍋から離れて扉の方へと歩く。コツコツと響く靴音にロイは震えながら身を縮こまらせた。
「────鼠か?」
 そう呟いてローゲは扉を押し開け辺りを見回す。コツ……と踏み出す音がして、ロイは腰に下げた短剣の柄を握り締めた。
(こっちに来たら見つかる……ッ)
 陰になっているとは言え目隠しになるものがある訳ではない。近くに来たらロイの姿は丸見えで、逃げるためにはローゲが何かするより先に攻撃するしかなかった。
(ハボック……っ)
 手の指が白くなるほどロイは短剣を握り締める。息を凝らし、全身の神経でローゲの気配を伺っていれば近づいてきていた足音が止まった。
「そうだ、そろそろロイ王子の薬が切れるころだな。一度様子を見に行くか」
 そう呟くローゲの声が聞こえて、近づいてきていた足音が遠ざかっていく。詰めていた息を吐き出してホッと壁に頭を預けて目を閉じたロイは、次の瞬間ハッとして目を開けた。
(私がいないと知れたらすぐ戻ってくる。早く逃げなくては……ッ)
 ロイはそっと棚の陰から台所がある方を覗く。その先の廊下にローゲの姿が無いことを確かめて、身を隠していた場所からそっと足を踏み出した。
(とにかく外へ)
 家の中に隠れ場所を探すのは危険すぎる。そう考えてロイは外への出口を探してローゲが行った方とは反対方向へと足音を忍ばせて足早に歩いていった。


 レイヴは船を操りながら注意深く辺りを見回す。ほんの少しの痕跡も見逃すまいと神経を張りつめて船を進めていった。
「それほど遠くまでは行かないと思うが……」
 誘拐犯の目的が何か判らないが、ロイを連れて長い距離を移動するのはリスクが高いだろう。恐らくは一刻も早くロイ共々その身を隠そうとするはずで、それならばこの川沿いのどこかに隠れられるような場所を用意していると思われた。
「くそ……ッ、何か手がかりになりそうなものはないか?」
 ロイが連れ去られてからさほど時間をおかずに追跡できたはずだ。恐らく誘拐犯は自分がこれほどまで近くに迫っているとは思っていないに違いない。そうであれば油断して某かの手がかりなりなんなりを残している可能性が高かった。
「ロイ様……ッ」
 レイヴは大切な王子の名を呟いて辺りを見回す。その時、必死に凝らした視線の先、細い煙が上がっているのが見えた。
「あれは」
 白く立ち上る煙は何かを煮炊きする時のもののようだ。関係のない民家から上がっているだけかもしれないと思うと同時にそれ以外の────もしかしたら誘拐犯のものとも思えて。
「────」
 煙を睨むように見つめていたレイヴはギュッと唇を噛み締める。意を決して煙が立ち上る方へと向かう支流へと舟を漕ぎ入れた。


「ロイ王子、そろそろお目覚めかな?」
 ローゲは言いながらロイを寝かせていた部屋の扉に手をかける。かけたと思っていた鍵が馬鹿になって鍵としての役割を果たしていないことに気づいて眉を顰めた。
「チッ、襤褸屋め」
 長年使っていなかった建物はあちこち手入れが行き届いておらずがたが来ている。口の中でブツブツと文句を言いながら扉を開けたローゲは、ベッドの上のブランケットの塊を見て目を細めた。
「いい気なものだ、まだ眠っているとは。それとも恐怖に震えてどうすることも出来ないか?」
 クツクツと笑ってローゲはベッドに近づく。ブランケットに手をかけてバッとめくったローゲは、そこにあるのが枕だと知ってワナワナと震えた。
「ロイ王子ィ……ッッ!!」
 もの凄い形相でロイの名を呼んで、ローゲはブランケットを床に叩きつけると部屋を飛び出していった。


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