続ハイムダール国物語  第二十六章


「いい朝だ」
 ヒューズは窓の外を眺めて言う。部屋から出て廊下を歩いていけば、向こうからパタパタと駆けてくる軽い足音が聞こえた。
「パパぁ」
「エリシア」
 抱きついてくる小さな体を膝を屈めて受け止め、そのまま抱き上げる。
「パパ、おはよう」
「おはよう。お父さまだろう?エリシア」
 そう言いながらもヒューズの顔は笑みに崩れたままだ。愛娘の柔らかな頬に髭面をこすりつければエリシアが笑い声を上げた。
「やだぁ、パパ。お髭がチクチクする!」
 エリシアそう言ってヒューズの顔を押しやる。そんなエリシアを正面から見つめてヒューズが言った。
「そうだ、エリシア。昨日はロイたちの視察についていったんだって?駄目だろう、そんな勝手な事をしたら」
 エリシアは幼いとはいえカウィルの王位継承者だ。いくら親善使節団と一緒とは言えきちんとした護衛もなしに城の外へ出るなどさせるわけにはいかなかった。
「でも、ハボックさまにカウィルの案内をして差し上げたかったんだもの」
「エリシア」
 ムゥと唇を尖らせる娘を窘めるようにヒューズは名前を呼ぶ。
「ハボック様、とっても優しいの。一緒にグルトップに乗せてくれて……、グルトップっていうのはハボック様の馬よ。金色のたてがみでとっても綺麗で賢いの。ハボック様とグルトップは小さい頃からずっと一緒なんですって。あのねぇ、ハボック様って」
「エリシア」
 小さな両手の手のひらを合わせて、夢見るように同盟国の王子のことを口にする娘に、ヒューズは顔を険しくした。
「ハボック王子はロイと結婚してるんだぞ」
「知ってるわ。でも、とっても優しくて素敵……私もあんな人と結婚したい……」
 うっとりと囁く娘の姿にヒューズの眉間の皺が深まる。ヒューズが何か言おうとする前にグレイシアつきの侍女が姿を現し、エリシアを母の元へ連れていってしまった。
「なんてこった」
 ロイがハイムダールで幸せに暮らしているか、大切にされているか、ハボックという男がどんな男か見極めて確かめると言っていた筈のエリシアが、まさかハボックのことをうっとりとした様子で語る事になろうとは。
「油断ならん男だ、ハボック王子。幾ら可愛いからと言ってエリシアは渡さんぞっ」
 ハボックが聞けばエリシアを口説いたつもりなど全くないと言うだろう。だが、王位継承者である以前に一人娘を持つ親として、ヒューズは親馬鹿丸だしで拳を握り締めた。


「ロイ!」
 支度を済ませ廊下を歩いていれば背後からかかる声にロイは足を止める。振り向けばハボックが明かり取りの窓から差し込む光に金髪を煌めかせてやってくるのが見えた。
「ハボック」
「おはよう、ロイ」
 にっこりと笑みを浮かべて近寄ってくるハボックをロイは眩しげに見上げる。ハボックは己を見上げるロイの白い頬を両手でそっと挟み込んでチュッと軽く口づけた。
「おはよう、ハボック」
 舌先を軽く触れ合って、ロイは目元を染めつつ朝の挨拶を口にする。ドキドキとする胸の鼓動を必死に押さえ込んでロイは言った。
「ちゃんと眠れたか?」
「勿論。ロイは?」
「私もだよ」
 胸元にキュッと抱き締められながらロイは答える。大人しく胸に抱かれるロイにハボックは言った。
「カウィルはいいところっスね。今日も色々見せて貰えるの、楽しみっス」
 耳元でそう言われて、ロイは擽ったそうに首を竦める。ハボックが悪戯に耳朶をカリと噛めば、ロイが体をピクリと震わせた。
「おい」
 ロイは顔を赤らめてハボックの胸を押しやる。睨んでくる目元を紅く染めた黒曜石にハボックは愛しそうに触れた。
「もっとカウィルのこと教えてくださいね」
「……ああ」
 笑みを浮かべて見つめてくる空色に、ロイはほんの少し悔しそうに頷いた。


「おはよう、ヒューズ」
 ハボックと共に階下へと降りてきたロイは、ヒューズの姿を見つけて声をかける。振り向いたヒューズの瞳が一瞬物騒な光を浮かべたのを見逃さず、ロイは眉を顰めた。
「ヒューズ?何かあったのか?」
 もしかして何か問題でもあったのだろうか。そう思って尋ねたロイはヒューズがハボックを睨むようにじっと見つめていることに気づいた。
「────なんスか?」
 ハボックも流石に気づいて小首を傾げる。そうすればたった今まで険しい表情を浮かべていたヒューズがにっこりと笑った。
「おはよう、ロイ、ハボック殿。いい朝だな」
 そう言うヒューズにハボックはホッとしたように笑みを浮かべロイは眉を寄せる。改めて「おはようございます」と朝の挨拶を口にするハボックにヒューズが言った。
「昨日はエリシアが迷惑をかけてすまなかったな」
「迷惑だなんてとんでもない。色々案内して貰って楽しかったっスよ」
 ニコニコと過剰なまでの笑みを浮かべて言うヒューズにハボックもにっこりと笑って答える。それを見たロイがハボックの袖を引いたが、ハボックはそれには気づかずに言った。
「今日もまた案内お願い出来たら嬉しいっス。グルトップもエリシア姫のこと大好きだし」
 一緒に乗れたら嬉しいなぁと無邪気に言うハボックにヒューズがハハハと引きつった笑みを浮かべるに至って、ロイは今度ははっきりとハボックの袖を引いた。
「なんスか?ロイ」
 その意味が判らずハボックが首を傾げる間にヒューズはドカドカと足音も荒く行ってしまう。その背を不思議そうに見送るハボックに、ロイはやれやれとため息をついた。


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